中学校への期待
二週間後、カレンダーは三月を指していた。私と陽太の小学校生活も、残すところあと数日。放課後の教室には、西日に照らされた埃が静かに舞い、どこか落ち着かない名残惜しさと、新しい季節への予感が漂っていた。
「……なあ、みゆ。これ、中学校の制服。昨日届いたんだ」
下校途中、いつもの公園のベンチで、陽太が大きな袋から誇らしげに黒い詰襟を取り出した。
「わあ、もう届いたんだ」
私はその真新しい制服と陽太を交互に見て、思わず口元が緩んだ。
「……ねえ、陽太。それ、ちょっと大きすぎない?」
陽太が自分の体に当てて見せた制服は、肩幅も袖丈もブカブカで、まるで大人から服を借りてきた子供のようだった。まだ成長期を迎えていない陽太の背丈は、女子の私よりも少し低い。
「しょうがないだろ。兄貴や親父から、どうせすぐデカくなるんだから一番大きめのやつにしとけって言われたんだよ」
陽太は不格好に長い袖をパタパタと振り回しながら、むくれたように言った。その姿があまりに可笑しくて、私は「ふふっ」と声を立てて笑ってしまった。
「笑うなよ! 今はまだみゆの方が高いけどさ、中学校に行ったらすぐに追い抜いてやるからな。湊さんみたいに、シュッとした体格になってみせるんだ」
陽太は顔を赤くしながら、必死に言い返した。湊兄さんへの憧れが、その小さな背中を精一杯支えているようだった。
「はいはい。楽しみにしてるね」
私は笑いながら頷いた。陽太は少し恥ずかしそうに、でも大切そうに制服を袋にしまい直すと、「湊さん、びっくりするかな」と呟いた。彼にとって中学校への入学は、湊という目標と同じフィールドに立てる、希望に満ちたステップだった。
帰宅すると、玄関には湊兄さんの靴があった。
「ただいま!」
私はリビングに駆け込み、まだ袋に入ったままの自分のセーラー服を広げて見せた。
「おかえり、みゆ。……ああ、それが中学校の制服か。みゆの制服姿、見せてくれるか?」
湊兄さんがソファから立ち上がり、優しく微笑んだ。私は急いで自室で着替え、慣れないスカーフを鏡の前で何度も整えてから、再びリビングへ戻った。
「どう……かな? 似合ってる?」
少し照れながら湊兄さんの前に立つと、彼は眩しいものを見るように目を細めた。
「すごく似合ってる。みゆは華奢だから、セーラー服のラインが綺麗に見えるな。……四月から同じ学校に通えるのが、今から楽しみだ」
湊兄さんのその一言で、私の胸は一気に跳ね上がった。
「本当!? 嬉しい……!」
憧れの兄に認められ、私は鏡の前で何度もくるくると回って、新しいスカートの感触を確かめた。陽太との約束も、お姉ちゃんから感じていた不穏な気配も、その瞬間だけは湊兄さんの言葉が放つ光の中に溶けて消えてしまった。
私はただ、湊兄さんの自慢の妹として、彼と同じ学び舎に通えることを純粋に喜んでいた。
湊兄さんに「楽しみだ」と言ってもらえた喜びで、私の胸はいっぱいだった。新しい制服に包まれた自分が、何か特別な存在になれたような気がして、自室の鏡の前で何度もスカーフを整え直した。
けれど、そんな高揚感を冷ますように、背後でドアをノックする音が響いた。
「みゆ、少し入ってもいいかしら」
穏やかで、けれど逆らうことを許さないお姉ちゃんの声。
「……あ、お姉ちゃん。見て、兄さんに似合ってるって言われたの」
私が振り返ると、お姉ちゃんは入り口に立ち、深淵のような微笑みを浮かべていた。
「ええ、本当に綺麗よ。まるで湊のために設えられた花のようね」
お姉ちゃんは部屋に入ると、私の肩にそっと手を置き、鏡越しに私をじっと見つめた。その指先から伝わるしんとした冷たさに、私の浮ついた心は急速に凪いでいく。
「湊も喜んでいるわ。あの子は優しすぎるから、一人では悪意に気づけないの。だから、中等部に進むあなたが、校内での彼の『目』になってあげなきゃいけないわ」
お姉ちゃんの視線が、私の机の上に置かれた陽太のメッセージカードに落ちた。
「陽太くんも同じテニス部に入るのでしょう? 彼は湊を尊敬しているから、湊の周囲で起きる小さな変化にも敏感なはず。彼から聞き出した情報は、すべて私に共有して。……湊の純潔を守るために、私たちは一丸とならなきゃいけないのよ。いいわね、みゆ。これからの一年間、あなたが校内での湊の盾になりなさい。それが、水瀬家の娘としてのあなたの役目よ」
お姉ちゃんの言葉は、呪文のように私の身体を縛り上げた。先ほどまで感じていた制服の軽やかさは、一瞬にして重い鉄の鎧に変わったような気がした。
「……分かったわ、お姉ちゃん。兄さんのためだもんね」
私の言葉に、お姉ちゃんは満足そうに微笑み、私の頬を指先でなぞった。
「良い子ね、みゆ。これで、湊のことは安心だわ。」
重苦しい沈黙が部屋を支配しかけたその時、お姉ちゃんはふっ、と表情を和らげ、私の手を優しく握った。
「そうそう、みゆ。もう一つ嬉しい知らせがあるの。再来週の卒業式……お父さんもお母さんも、お仕事を調整して出席してくださるそうよ。家族五人で、あなたの門出をお祝いしましょう」
「……えっ! 本当に!?」
私の顔が、一瞬でパッと明るくなった。
仕事が忙しく、海外や遠方への出張も多いお父さんとお母さん。家族五人が揃う機会は滅多にない。ましてや、私の晴れ舞台に二人とも来てくれるなんて。
「よかったわね。お父さんも、中学生になるあなたの姿を見るのを、本当に楽しみにしていたわよ」
「うん、嬉しい……! 私、お母さんにセーラー服姿、早く見せたいな」
さっきまでの恐怖や息苦しさは、その一言で霧散してしまった。お姉ちゃんが私に「役割」を与えようとしていることさえ、大好きな家族が一つになるための、ほんの少し厳しい「愛の形」のように思えてくる。
お姉ちゃんが部屋を出ていった後、私は一人、静まり返った部屋に取り残された。
鏡の中に映る私は、お姉ちゃんの言う「湊のための盾」としての自分と、両親の愛を信じたい「ただの娘」としての自分の間で、まだ危うく揺れていた。けれど、今はただ、家族が揃う春の日が待ち遠しくて仕方がなかった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
はい、お姉ちゃん。危うい状況です。
どう扱うか悩んで来ました。
料理上手家事万能なのに何か裏がある。
しばらくはおっとり路線になるので、
その間に方針決めます。
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