青き衝撃、フランス戦開幕
アメリカ戦を全勝で飾った翌日。部室の空気は、勝利の余韻を噛み締める暇もなく、未知の強豪に対する緊張感に塗り替えられていた。
モニターに映し出されたフロリダの空は、昨日よりも高く、どこか冷たく澄んでいるように見えた。
「……予選第2戦。いよいよフランス戦ね」
春花部長が低く呟くと、部員たちの視線が一斉にモニターへ吸い寄せられた。
画面には、紺色のジャパンジャージを着た湊兄さんと蓮さんが、落ち着いた足取りでコートへ向かう姿が映っている。
「やっぱり、D2(ダブルス2)は昨日と同じ二人なんだ。一番信頼できるペアだもんね」
美咲が期待を込めて言う。けれど、対戦相手であるフランス代表の二人が画面に現れた瞬間、部室の温度が数度下がったような気がした。
「……ルカ・ベルナール」
奈緒がその名を口にする。昨日、中継の最後に陽太を冷たく見下していた金髪の少年が、今日は白銀のラケットを手に、まるでお気に入りの庭を散歩するかのような優雅さでネット際へ歩み寄ってきた。
トスが終わり、フランス側のサービスから試合が始まった。
「……え?」
最初に声を上げたのは、男子部の佐藤くんだった。
ルカの放ったサーブ。それはアメリカ代表が見せたような、空気を切り裂く爆音を伴うものではなかった。むしろ、ふわりと浮き上がるような、一見すれば頼りないほどのスローな軌道。
「チャンス……!」
誰もがそう思った瞬間、湊兄さんのラケットの数センチ前で、ボールが「消えた」。
物理法則を無視したような鋭い変化。着弾した瞬間に外側へ、まるで意思を持っているかのように逃げていくスライス。湊兄さんのラケットは空を切り、乾いた音だけがスタジアムに響いた。
「速くないのに……一本も触らせないなんて。今の、どういう回転なの?」
「カメラ映像では回転の判断がつかないわね」
田中くんが身を乗り出して画面を凝視するが、ルカは表情一つ変えず、次のサーブへと向かう。
ルカの奏でるテニスは、私たちが今まで見てきた「強さ」とは根本的に異なっていた。
力でねじ伏せるのではなく、相手が「ここに飛んでくる」と確信した瞬間に、その確信を指先一つで裏切っていく。
湊兄さんはいつものように、深く膝を折り、瞳の奥で相手の情報を読み取ろうとしている。けれど、ルカがラケットを振るたび、その「最適化」の計算式が狂わされているのが、画面越しでも伝わってきた。
「兄さん……」
私は祈るように拳を握りしめた。
昨日のアメリカ戦で見せた、あの絶対的な安定感が、フランスの「洗練」という名の霧に包まれ、出口を見失おうとしている。
第1セットが進むにつれ、スタジアムの熱狂は、どこか冷ややかな「鑑賞」の空気へと変わっていった。それは、ルカ・ベルナールの奏でるテニスが、湊兄さんたちの積み上げてきたものを、音もなく解体していくからだった。
「……おかしい。いつもの二人じゃない」
奈緒がモニターに顔を近づけ、絞り出すように言った。
画面の中、湊兄さんと蓮さんの間に、目に見えないはずの「迷い」が影を落としていた。
ルカの放つ球は、どれも残酷なほどに「間」を突いてくる。湊兄さんが情報を読み取ろうと踏み込む瞬間に弾道が変わり、蓮さんがポーチに出ようとする刹那に、その逆を突くロブが頭上を舞う。
「湊先輩が深い位置に下げられて、北条さんがネット際で孤立してる……。二人の連携を、ピンポイントで切り裂かれてるんだわ」
春花部長の言う通り、フランス代表の攻めは冷徹だった。二人の物理的な距離ではなく、お互いを信頼して「任せる」はずのその一瞬の空白に、正確な刃を差し込んでくる。
ゲームカウントは 0−4。
部室の空気は、これまで感じたことのない焦燥感に支配されていた。しかし、チェンジコートでベンチに戻った二人は、一言も言葉を交わさない。
湊兄さんが蓮さんのラケットのガットを軽く叩き、蓮さんが短く頷く。
「……何か掴んだのかな。二人の表情が変わった」
佐藤くんが呟く。
続く第5ゲーム。湊兄さんの構えが一段と深くなった。
ルカが再び、消えるようなスライスを放つ。湊兄さんはその変化を待たず、変化の頂点へと強引に踏み込んだ。
「っ、止めた……!」
田中くんが叫ぶ。ボールが変化しきる前に、湊兄さんがラケットの面でその回転を強引に上書きし、真っ直ぐな、そして重厚な一撃をルカの足元へ叩き返した。
日本のベンチが、初めてこの試合で爆発するように沸いた。
陽太が身を乗り出し、拳を振り上げて何かを叫ぼうとした、その時だった。
画面の端、フランスのベンチに座っていた控え選手たちが、何やらクスクスと笑いながら陽太の方を指差した。
声は聞こえない。けれど、その仕草は「必死に足掻いても無駄だ」と、日本の反撃を「余興」として楽しんでいるのが明白だった。
「……あ」
美咲が息を呑む。
陽太の表情から、一瞬にして熱が引いた。
湊兄さんたちが命を削るようにして手に入れた「一歩」さえも、フランスにとっては想定内の出来事でしかないのか。
画面の中の陽太は、拳を白くなるまで握りしめ、肩を小刻みに震わせていた。
コート上の激闘を見つめる彼の瞳が、絶望に飲み込まれそうなのを必死に堪えるように、ギラリと鋭く、暗く光った。
第1セット終盤、ゲームカウントは 0−5。スタジアムを支配する「絶望」を、湊兄さんのラケットが切り裂いた。
「……ここからよ!」
春花部長の声と同時に、画面の中の湊兄さんが極限の集中状態に入った。ルカが放つ、変幻自在のドロップショット。それはネットを越えた瞬間に急激に沈む「死の羽」だったが、湊兄さんは滑り込むようなフットワークでそれを拾い上げた。
「蓮!」
湊兄さんの鋭いコール。それまで孤立させられていた蓮さんが、影を置き去りにするような速さでネット際へ躍り出る。フランス側の虚を突く、完璧なシンクロ。
蓮さんのラケットが放ったのは、氷のような冷徹さでコースを射抜くアングルボレーだった。ルカの横を、ボールが弾丸のような速度で通り過ぎる。
「決まった……! 1ゲーム返した!!」
部室に地鳴りのような歓声が上がる。完璧に見えたフランスの芸術に、日本の「王」と「貴公子」が泥臭く食らいつき、ついにその旋律を乱してみせた。
しかし、歓喜に沸く部室の中で、奈緒だけが一人、顔を強張らせていた。
「……待って。ルカの顔を見て」
カメラが、ポイントを奪われたはずのルカをアップにする。
彼は、悔しがるどころか、むしろ待ち望んでいた「玩具」を見つけた子供のような、無垢で残酷な微笑を浮かべていた。
「——素晴らしい。なら、次は『これ』を試してみようか」
声は聞こえない。けれど、ルカが髪をかき上げた瞬間、コートの空気が一変したのが分かった。
続くルカのサービスゲーム。放たれたのは、先ほどまでの優雅なスライスではない。
「っ……見えない!?」
佐藤くんが叫ぶ。
それは、超高速のフラットに、不規則なサイドスピンが加わった、見たこともないような「蛇」のようなサーブだった。湊兄さんが反応するよりも速く、ボールはコートの隅で奇怪な変化を見せ、そのまま消える。
第1セットは、そのままルカの圧倒的なサーブで締めくくられた。
『Game and First Set, Won by France, 6-1!』
審判の声が響く中、画面は日本のベンチを映し出した。
そこには、自分たちが手にした唯一のゲームが、単にルカの「本気」を引き出すためのトリガーに過ぎなかったことを突きつけられた、残酷な現実があった。
陽太は、椅子に座ったまま動けずにいた。
隣の天音くんも、震える手でスポーツドリンクを口に運んでいる。
「湊先輩たちが、あんなに頑張ったのに……」
美咲の震える声が、静まり返った部室に虚しく響く。
画面の中のルカは、こちらに背を向け、白銀のジャージを羽織りながらベンチへ戻っていく。その優雅な後ろ姿は、もはやテニスプレイヤーというよりは、コートという舞台を支配する死神のようにさえ見えた。
「……第2セット。ここからが本当の地獄になるわよ」
春花部長の重い一言が、私たちの心に冷たく突き刺さった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
二回戦第一試合。湊・蓮ペアの苦戦。 何やら掴んだ様子の二人。
次で決着となります。




