甘い香りのプレリュード
二月十三日、金曜日。
合格発表という大きな山を越えた星和学院の校舎には、どこかそわそわとした、甘く落ち着かない空気が漂っていた。蓮さんが手続きのために一時的に帝都へと戻り、水瀬家の食卓が少しだけ静かになった一方で、学校の廊下では女子たちの密やかな相談事があちこちで花を咲かせている。
お昼休み。いつものように美咲たちとお弁当を広げていると、案の定、話題は明日の「予定」へと流れていった。
「ねえ、みゆ。明日は土曜日だけど……やっぱり陽太くんに渡すんでしょ? 『本命』」
美咲がニヤニヤしながら肘で突いてくる。周囲の友達も「そりゃそうでしょ」「公式カップルだもんね」と、一斉にこちらを覗き込んできた。
「ええっ!? あ……うん、もちろん、そのつもりだけど」
顔がカッと熱くなるのが自分でもわかる。陽太と付き合い始めてから、初めて迎えるバレンタイン。これまでは幼馴染として気軽に渡してきたけれど、今年は意味がまるで違う。
「兄さんには日頃の感謝で、陽太には……その、ちゃんと気持ちが伝わるものを作りたいんだけど……。でも私、お菓子作りに関しては……」
「……あ、察したわ。キッチンが戦場になるわけね」
美咲の指摘に、私は力なく肩を落とした。美咲も他人事ではないようで、「私もラケット以外のコントロールには自信がないのよね」と溜息をつく。結局、その場の全員が「失敗は許されないけれど、腕が追いつかない」という切実な問題にぶち当たった。
そこで私たちは、C組の家庭科部のエース、佐々木凛ちゃんに助けを求めることにした。
「いいよ、一緒に作ろう! せっかくのバレンタインだもん、絶対に成功させなきゃ」
放課後、相談を持ちかけると凛ちゃんは快く引き受けてくれた。私たちはそのまま、凛ちゃんの案内で駅前の製菓材料専門店へと向かった。
店内はバレンタイン直前ということもあり、甘い香りと女の子たちの熱気で溢れかえっている。棚に並ぶ無数のチョコレートやデコレーションパーツを前に、私は圧倒されて立ち尽くしてしまった。
「みゆちゃん、陽太くん用は特別仕様にしなきゃね」
凛ちゃんが手際よく、質の良さそうなクーベルチュール・チョコレートと、可愛らしいハート型のトッピングを選び出してくれる。
「陽太は甘いミルクチョコが好きだから、それをベースにしたくて。……あと、練習の合間でも食べやすいのがいいかな」
「それなら、一口サイズの生チョコタルトはどう? 豪華に見えるし、味も本格的だよ。お兄さんの分は、ナッツを入れた食べ応えのあるブラウニーにすれば、一度に作れるし!」
自分一人では何時間かかっても決まらなかったであろうメニューが、魔法のように決まっていく。カゴの中には、陽太の喜ぶ顔を想像して選んだ材料と、大人っぽいブルーのラッピング用品。
「よし、これで完璧! 私の家へ行きましょう」
頼もしい凛ちゃんの言葉に背中を押され、私たちは夕暮れ時の街を急いだ。
冷たい風が頬を刺したけれど、袋の中から香る甘い予感と、陽太に「本命」として手渡す瞬間の想像が、私の胸を温かく、そして激しく高鳴らせていた。
凛ちゃんの家のキッチンは、まるでお菓子教室のように整えられていた。広々とした大理石のワークトップに材料が並べられ、私たちはエプロンを締めて髪を後ろで結んだ。
「さあ、作業開始! チョコは温度が命だから、みんな慎重にね」
凛ちゃんの号令で、パティシエさながらの格闘が始まった。
まずは、湊兄さんやみんなに配るためのブラウニーから取り掛かる。
「……みゆ、卵を混ぜる手が力強すぎない?」
「あ、ごめん! ついつい手首に力が……」
美咲にツッコまれ、私は慌てて力を抜いた。けれど、作業が進むにつれ、美咲が「……ねえ」と私の手元を指差した。
「陽太の分が本命なのはわかるけど、湊先輩に渡す分まで、なんでこんなに豪華で大きいのよ。それじゃ、どっちも本命みたいじゃない」
「えっ!? ……あ、本当だ」
無意識のうちに、陽太の分と同じくらい丁寧に、そして大きくカットしようとしている自分に気づいて顔が熱くなった。やっぱり、どこかで湊兄さんを意識しているのかもしれない。
そんな中、トラブルが発生した。私が担当していた別のチョコレートが、温度調整をミスして少し分離してしまったのだ。
「あうっ……ボソボソになっちゃった……」
絶望しかけた私を見て、凛ちゃんが「大丈夫、貸して!」とボウルを引き寄せる。
凛ちゃんは温めた生クリームを絶妙なタイミングで加え、手早く、かつ滑らかに混ぜ合わせていく。すると、修復不可能に見えたチョコが、魔法のように艶やかなガナッシュへと生まれ変わった。
「すごい……! 凛ちゃん、魔法使いみたい」
「ふふ、お菓子の失敗は大抵なんとかなるんだよ」
ようやくすべてのチョコを型に入れ、冷やし固めていた頃。
「ただいまー。あら、甘い匂いがすると思ったら、お客様?」
玄関から凛とした声が響き、一人の女性がキッチンに姿を現した。星和学院中等部の生徒会長であり、凛ちゃんのお姉さんでもある佐々木梓さんだ。
「あ、お姉ちゃん。お帰りなさい。今、友達とバレンタインの準備をしてたの」
梓さんは私たちの作ったブラウニーの端切れをひょいとつまみ、口に運んだ。
「……うん、完璧。しっとりしてて、甘さのキレもいい。さすが家庭科部のエースね。凛に教われば、どんな不器用な娘でも一流のレディになれるわ」
「ちょっと、お姉ちゃん、失礼だよ!」
凛ちゃんが頬を膨らませる横で、私たちは生徒会長直々の太鼓判に、ようやくホッと胸を撫で下ろした。
外はすっかり日が落ち、キッチンの窓にはオレンジ色の灯りに照らされた私たちの姿が映っている。
「……明日、喜んでくれるかな」
「当たり前じゃない。あんなに分かりやすい彼氏なんだから」
1時間ほどして完成したチョコレートを取り出す。私たちは最後の仕上げであるラッピングに取り掛かった。陽太のための生チョコタルトは、今日のために選んだ大人っぽいネイビーの箱へ。湊兄さんのブラウニーは、星和のカラーに近いブルーのリボンでシンプルに包む。
「できた……。本当に、全部自分の手で作れたんだ」
完成した箱を手に取ると、ずっしりとした重みが心地よかった。凛ちゃんにお礼を言い、私たちは甘い余韻を抱きながら、それぞれの家路へとついた。
二月十四日:決戦のバレンタイン当日。土曜日ということもあり、私たちは午後からテニスコートで待ち合わせていた。
カバンの中には、保冷剤と一緒に大切に仕舞った二つの箱。歩くたびにカサリと鳴る紙袋の音が、私の緊張を煽る。
コートに到着すると、すでに湊兄さんと陽太がラリーを始めていた。
「おはよう、みゆ! 今日、なんか顔赤くないか? 走り込んできたのか?」
陽太がいつも通りの屈託のない笑顔で駆け寄ってくる。その無防備な姿を見るだけで、準備していた言葉が喉の奥に引っかかってしまった。
「あ、ううん、大丈夫! ……それより、これ」
私は意を決して、カバンから二つの紙袋を取り出した。まずは、ベンチで汗を拭いていた湊兄さんの方へ歩み寄る。
「はい、兄さん。いつも練習付き合ってくれてありがとう。……これ、一応手作りだから」
「ほう、手作りか。……破壊神の再来じゃなければいいがな」
兄さんは不敵に笑いながらも、どこか嬉しそうに袋を受け取った。その横で、陽太が「えっ、俺のは!? 俺のはないの!?」と、捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。
私は深く息を吸い込み、もう一つの、少しだけラッピングに気合を入れた袋を陽太の前に差し出した。
「もう、そんなに慌てなくてもちゃんと用意してるよ。陽太には、これ。……本命、だからね」
その言葉を口にした瞬間、陽太の動きが止まった。
「……え、本命? 今、本命って言ったか、みゆ?」
「……言ったよ。昨日、凛ちゃんに教わって一生懸命作ったの。受け取ってくれる?」
陽太は震える手で袋を受け取ると、中を覗き込む。そして、パッと顔を輝かせた。
「……すげえ! めっちゃ綺麗じゃん! これ、本当にみゆが作ったのか? 信じらんねえ、最高だよ!」
陽太は我慢できないといった様子で、その場で箱を開け、生チョコタルトを一つつまんで口に放り込んだ。
「……っ! 甘い! だけど、なんか、みゆの味がする。……美味しいよ、みゆ。ありがとう、世界で一番嬉しいチョコだ!」
陽太の真っ直ぐすぎる言葉と、太陽のような笑顔。それだけで、昨日のキッチンの格闘も、焦げそうになった不安も、すべてが報われた気がした。
「……ったく、コートの上で当てるなよ。暑苦しい」
湊兄さんがブラウニーを口に運びながら呆れたように呟く。けれど、その口元も心なしか緩んでいた。
「四月になって蓮が来たら、また賑やかになるな」
湊兄さんの言葉に、私と陽太は顔を見合わせて頷いた。
甘いチョコレートの香りと、冬の終わりの柔らかな陽光。
私たちは再びラケットを握り、春という新しい季節に向かって、力強くボールを打ち込み始めた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
久しぶりの佐々木姉妹登場。
バレンタインのエピソードです。




