再戦の約束
新学期の喧騒が少しずつ日常へと溶け込み始めた一月の中旬。部活を終えて帰宅した私の机の上に、一通の白い封筒が置かれていた。
差出人の名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
――『西園寺女子中等部 白河こころ』。
端正な筆致で書かれたその文字は、彼女の打球と同じように迷いがなく、鋭い。私は深呼吸を一度し、震える指先で封を開けた。封筒の中には便箋と共に、二枚組のDVDが重なり合うように同封されていた。
『水瀬さんへ。
突然の手紙、驚かせたかしら。
雅さんから聞いたわ。貴女が私の怪我のことで、随分と心を痛めていると。
まず、勘違いしないで。あの時、貴女の打球に反応しきれず、自らの「システム」の限界を露呈したのは私自身の未熟さゆえ。貴女が謝る必要なんて、どこにもないわ。
むしろ、感謝しているのよ。
貴女の放ったあの「波紋」は、私の積み上げてきた論理を根底から破壊してくれた。おかげで、今の私は病室のベッドの上で、かつてないほどクリアな思考の中にいるわ。
同封したのは、西園寺の部員が記録していた合宿中の練習試合の録画データよ。お互いのコートでの動きが客観的に把握できるよう、二方向からのアングルを二枚のディスクに分けておいたわ。遠路はるばる私たちの合宿に参加してもらったお礼よ。星和のメンバーの技術向上に役立ててちょうだい。
膝のヒビが塞がる頃には、鳳仙雅が作り上げた西園寺の常識を塗り替え、貴女の不規則なリズムさえも飲み込む「解答」を用意して戻るわ。
貴女に負うべき責任があるとするならば、それはただ一つ。
夏の全国大会、その決勝のコートに、最高の状態で立っていること。
西園寺の「部長」として、貴女を絶望させるその日を楽しみにしているわ。
練習、手を抜かないことね。』
手紙を読み終えたとき、視界が熱くなっていた。
謝罪なんて求めていない。同情も、憐れみも。
彼女が求めているのは、あの日、お互いの全てをぶつけ合ったあの剥き出しの「真実」の続きだけなのだ。
「……白河さん、貴女って人は」
私はそのDVDを、宝物のように強く握りしめた。
白河さんからの手紙を読み終えた私は、熱くなった目元を拭い、急いで一階へと降りた。リビングではお姉ちゃんが、丁寧に淹れたハーブティーの香りに包まれながら、車のカタログをめくっている。
「おかえり、みゆ。湊から伝言よ。今日は蓮くんと陽太くんを連れて、河川敷のテニスコートで特訓するって」
「河川敷……。こんなに冷え込んでいるのに?」
「ええ。世界(U-17)を相手にするには、環境に甘えていられないんですって。湊は本当にストイックね……。あ、行くならこれを持っていってあげて。軽くつまめるものを作っておいたから」
お姉ちゃんが差し出したバスケットには、一口サイズのサンドイッチと、保温ジャーに入った温かいスープが詰められていた。私はそれを受け取り、自転車を走らせて夜の河川敷へと向かった。
遠くからでも、コートを照らす水銀燈の光と、空気を切り裂くような鋭い打球音が聞こえてきた。
コートに到着した私が目にしたのは、静寂な夜の静寂を暴力的に上書きする、三人の姿だった。
「……遅いぞ、陽太! その踏み込みでは世界のパワーに押し負ける。軸を意識しろ!」
湊兄さんの冷徹な声が響く。その「右手」から放たれるショットは、もはや中学生の域を完全に逸脱していた。重く、鋭く、まるで鉛の弾丸が空気を切り裂くような衝撃波を伴っている。
「くっ……あ、ああああ!」
陽太が必死に食らいつく。自分の部活を終えたばかりの私も、その光景に息を呑んだ。陽太の全身は既に汗でびっしょりと濡れ、呼吸は荒い。それでも彼は、湊兄さんの放つ「右手」という絶望に、何度も何度も立ち向かっていく。
傍らで自身の調整を終えた蓮さんが、私の持ってきたバスケットを受け取り、静かに視線を向けた。
「蓮さん、お疲れ様です……。これは、かなり激しいですね」
「湊なりの、陽太への『教育』だよ、みゆ。……自分たちが世界で戦うためだけじゃない。陽太を、君の隣に立つに相応しい男にするために、湊はあえて壁になっているんだ」
蓮さんの言葉に、胸の奥が締め付けられる。
私は今日、自分も部活で全力の練習をしてきた。だから、これ以上ラケットを握ることはしない。今は、彼らを支える「サポート」に徹しようと決めていた。
私は保温ジャーから温かいスープをカップに注ぎ、練習の合間に戻ってきた陽太に手渡した。
「陽太、無理しないで。……でも、今のショット、すごく格好良かったよ」
「……へへ、サンキュ、みゆ。……湊さんの右手、マジでエグいけど……。俺、絶対に認めさせて、お前を守れるくらい強くなるから」
陽太は震える手でカップを受け取り、泥臭く笑った。その瞳には、湊兄さんの「右手」を飲み込もうとする、ギラついた野性が宿っている。
湊兄さんは、少し離れた場所で水分を補給しながら、私たちを静かに見守っていた。
「……休憩は終わりだ。陽太、蓮。次は三人での形式戦に入るぞ」
湊兄さんの号令で、再びコートに火がつく。
河川敷を吹き抜ける夜風は、火照った三人の体温を奪い去ろうとするほど冷たかった。けれど、コート内の熱量は下がるどころか、夜が深まるにつれて鋭利さを増していく。
「……ラストだ。陽太、蓮。今の俺のサーブを、正面からねじ伏せてみろ」
湊兄さんがベースラインに立つ。その瞬間、空気が凍りついた。
彼が解禁した「右手」のフルパワー。トスが上がると同時に、暴力的なまでのスイングが空気を切り裂く。
「……っ、来いッ!!」
陽太が地を蹴り、弾丸のようなサーブに飛びつく。ラケットとボールが激突する重い衝撃音が、静まり返った河川敷に木霊した。吹っ飛ばされそうになる腕を、陽太は文字通り執念で抑え込む。隣でカバーに入った蓮さんの流れるようなボレーが、湊兄さんの足元を射抜いた。
「……そこまでだ」
湊兄さんの声と共に、ようやくコートに静寂が戻った。
三人は肩で息をしながら、水銀燈の下で立ち尽くしている。陽太のユニフォームは汗で重く張り付き、蓮さんも珍しく前髪を乱していた。
「お疲れ様。……三人とも、本当に凄かった」
私はベンチから駆け寄り、用意していた冷たいタオルと、お姉ちゃん特製の温かいスープを手渡した。
陽太はタオルを顔に押し当て、震える声で笑った。
「……見たか、みゆ。今の、湊さんから一本もぎ取ったんだぜ……」
「うん、見てたよ。陽太、本当にかっこよかった」
私が陽太の肩に手を置くと、彼は一瞬だけ甘えるように、私の手に自分の大きな手を重ねた。指先から伝わる、限界まで酷使された筋肉の熱。それが、彼が私のために捧げている「覚悟」の証なのだと、痛いほど伝わってきた。
湊兄さんは少し離れた場所で、お姉ちゃんの作ったサンドイッチを口に運びながら、私たち二人を静かに見守っていた。その穏やかな瞳の奥には、陽太に「みゆを任せられる男になれ」と無言で問い続ける、厳格な兄としての意志が揺るぎなく存在していた。
「……そろそろ戻ろう。姉さんが、腕によりをかけて夕飯を作って待っているはずだ」
湊兄さんの言葉に、蓮さんが少しだけ表情を和らげる。
「雫さんの料理は、どんなプロの栄養管理より完璧だからな。……遅れると、飯抜きにされそうだ」
帰り道、自転車を引いて歩く私たちの影が、街灯に長く伸びる。
白河さんからの手紙と、同梱されたDVDの重みが、私のバッグの中で確かな存在感を放っていた。
(……私も、負けていられない。この映像で、みんなと一緒にさらに先へ行くんだ)
三学期の冷たい夜。それは、湊兄さんたちの世界への挑戦と、私たちの全国への再起という、誰も見たことのない高みへと続く、確かな序章だった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
1月中旬まで一気に進めました。
この頃は日が短く、夜が冷え込む時期ですね。




