滲む波紋と再会の夜
西園寺女子中等部からの帰路。貸切バスの窓の外を流れる夜景は、私の瞳にはただの光の粒子にしか見えなかった。
膝の上に置いたスポーツバッグ。その中に収まったラケットの重みが、今は物理的な質量以上に肩へ食い込む。
(……私のせいだ。あの瞬間、私の『波紋』が白河さんの計算を、未来を、壊してしまった……)
目を閉じれば、あの一撃が白河さんの膝を射抜いた鈍い衝撃音が耳の奥で蘇る。駅でバスを降り、冬の夜気が肌を刺す住宅街を歩く。見慣れた水瀬家の門灯が見えたとき、私は安堵よりも先に、激しい罪悪感と逃避欲に引き裂かれそうになっていた。
「ただいま……」
震える手で玄関の扉を開けると、温かな出汁の香りと共に、熱を帯びた低い声がリビングから漏れてきた。
「……甘いぞ陽太。その踏み込みの角度では、世界のパワーに押し負ける。もっと体幹の軸を意識しろ」
「くっ……わかってますよ、湊さん! でも、今のタイミングじゃないと差し込まれる!」
食卓では、湊兄さんと陽太が向かい合って座っていた。二人の間には、春に控えたU-17ジュニア選抜世界大会に向けた戦術ノートと、最新の海外選手のプレイ動画が流れるタブレットが置かれている。
その傍らでは、高等部受験のために居候中の蓮さんも、参考書を開きながら鋭い視線でノートを追っていた。
「あ、みゆ! お帰りなさい、お疲れ様!」
キッチンから顔を出したのは、お姉ちゃんだ。今日取得したばかりの免許証を、まるで聖遺物でも扱うかのように大切そうに胸に抱いて微笑んだ。
「見て、みゆ。ついに取れたわ、普通免許。……まだ車は手元にないけれど、どの車種にするか湊と蓮くんに相談していたところよ。湊たちを一番安全に、快適に運べる車を……私の手で選んであげたいから。さあ、冷めないうちに座りなさい。今夜は貴女の帰還祝いも含めて豪華にしたのよ」
お姉ちゃんの笑顔は、いつだって完璧で、どこか浮世離れした聖母のような慈愛に満ちている。けれど、その瞳の奥にある水瀬家の管理者、そして湊兄さんへ執着を知っている私は、その優しさが時として窒息しそうなほど重く感じられた。
「……おめでとう、お姉ちゃん。蓮さんも、お疲れ様です」
私が力なく告げると、湊兄さんがゆっくりと顔を上げた。
「……おかえり、みゆ。鳳仙雅から連絡を受けた。西園寺での合宿、最終日に何があったのかも……すべてな......」
湊兄さんの澄んだ瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。その視線に、私は逃げ出すことさえ許されなかった。
リビングの空気は、湊兄さんの一言で一変した。
先ほどまで陽太と熱く戦術を交わしていた「指導者」としての顔は消え、そこにあるのは、私の心の深淵までを見透かすような、静謐で圧倒的な「兄」の眼差しだった。
「……私のせいなの、兄さん」
私は震える手でスポーツバッグのストラップを握りしめたまま、うつむいた。視界が涙で滲み、足元のフローリングが歪んで見える。
「白河さんの膝を……私の『波紋』が壊してしまった。全治二ヶ月。あんなに完璧だった彼女のシステムを、私が物理的に打ち砕いてしまったの。……怖いよ。自分の力が、誰かの未来を奪う凶器になるなんて思わなかった。私、もうラケットを握るのが……自分のテニスが、信じられない」
告白は、血を流すような自白だった。
キッチンでカタログを眺めていたお姉ちゃんの手が止まり、蓮さんも戦術ノートから顔を上げ、痛ましげに私を見つめている。陽太は、隣で椅子を鳴らして立ち上がろうとしたが、湊兄さんがそれを手制止で制した。
湊兄さんはゆっくりと椅子から立ち上がり、私の前まで歩み寄った。
そして、逃げようとする私の両肩を、大きな手でしっかりと、けれど拒絶を許さない強さで掴んだ。
「顔を上げろ、みゆ」
拒否できない響きに、私は弾かれたように顔を上げた。至近距離で見つめる湊兄さんの瞳私を釘付けにする。
「……恐怖を感じるのは、お前が『選ばれた者』の領域に足を踏み入れた証拠だ。覚えているか?...去年の夏合宿の4日目、お前は俺が左手でお前を狙わなかったのを指摘したよな。それはお前を傷つける恐怖に、俺自身が耐えられなかったからだ。だが、今日のお前は逃げなかった。白河こころという最強の壁に、自分の全てをぶつけにいった。……それは、暴力ではない。究極の『誠実』だ」
湊兄さんの言葉は、優しさというオブラートに包まれてはいなかった。むしろ、剥き出しの真実を突きつけるような鋭さがあった。
「白河こころは、お前のその『真実』を正面から受け止めたんだ。彼女を壊したのではない。お前が彼女の限界を引き出し、新しい次元へと押し上げたんだよ。……いいか、みゆ。お前が手にした力は、もう守るだけのものではない。誰かを圧倒し、時には傷つける覚悟を持って振るわなきゃいけない、一人の選手としての力だ」
湊兄さんの指先が、私の頬に伝う涙をそっと拭った。
「お前が壊したものは、お前がその手で、最後まで見届ける義務がある。全国の決勝という舞台で、完治した彼女を迎え撃つこと。それが、お前に課せられた唯一の責任だ」
湊兄さんの言葉は、私を突き放すようでいて、同時に「一人の対等な表現者」として認める峻烈なエールだった。
私は湊兄さんの胸に顔を埋めた。かつては逃げ出したかったその温もりが、今は自分を現実に繋ぎ止める唯一の錨のように感じられた。
それを見守っていた陽太が、絞り出すような声で言った。
「……みゆ。湊さんの言う通りだよ。お前が立ち止まったら、白河さんの怪我は本当にただの事故になっちゃう。……俺も、お前に追いつく。湊さんに叩き込まれて、お前を、星和を守れるくらい強くなるから」
湊兄さんは私を離すと、今度は陽太を鋭く振り返った。
「陽太。聞いたな。みゆは今、お前よりも一歩先に『覚悟』の深淵を見た。……明日からは、さらに強度を上げる。俺の右手を、絶望だと思わなくなるまで叩き込んでやる。……みゆを任せられる男になるんだろう?」
「……っ、望むところだ、湊さん!」
陽太の力強い返信が、沈んでいたリビングの空気を、再びアスリートの熱気へと塗り替えていく。
私は、涙の乾いた頬を擦り、自分を待っていてくれる白河さんの、あの不敵な微笑みを思い出していた。
「さあ、いつまでも湿っぽくしていないで。冷めないうちに召し上がれ」
お姉ちゃんが、何事もなかったかのように穏やかな手つきで大皿を並べる。その完璧な微笑みは、家族の間に生じたさざ波さえも、自分の支配下にある平穏の一部として飲み込んでしまうようだった。
夕食の席では、再びU-17世界大会に向けた技術論が飛び交った。湊兄さんと蓮さんの高度な分析に、陽太が必死に食らいついていく。その光景を眺めながら、私は自分の掌を見つめた。この手が、いつかまた誰かを傷つけるかもしれない。けれど、隣で汗を流す彼らがいる限り、私はもう一度ラケットを握れる気がした。
「……じゃあ、また明日な」
夕食後、陽太が帰るのを見送るために外に出た。冬の夜気は冷たく、吐き出す息が白く弾ける。
家族の目が届かない門扉の影。陽太はためらうことなく、私の冷えた手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「みゆ……。一人で抱え込むなよ。白河さんは絶対に戻ってくる。あいつは西園寺の新部長なんだろ? あの鳳仙さんが認めた相手だ、そんなに簡単に折れるわけないよ」
陽太の指先から、練習で作り上げられた硬いマメの感触が伝わってくる。その無骨な温もりが、私の震える心を静かに鎮めていった。
「俺もお前に相応しい男になって、湊さんに認めさせて、一緒に全国の決勝で待っててやるから。……俺、お前の笑顔を守るために強くなるって決めたんだ」
陽太は私の顔を覗き込み、安心させるように力強く笑った。私は吸い寄せられるように、彼の胸に額を預けた。厚いダウンジャケット越しに、ドクドクと刻まれる力強い鼓動。
「……ありがとう、陽太。私、負けないよ」
「おう。約束だぞ」
陽太は私の肩を一度だけ強く抱きしめると、名残惜しそうに手を離し、お隣へと帰っていった。
家に戻ると、リビングではお姉ちゃんが一人、静かにハーブティーを淹れていた。
「……幸せそうね、みゆ。陽太くんにあんな顔を見せるなんて」
お姉ちゃんは、窓の外……陽太が去っていった暗闇を見つめたまま、独り言のように呟いた。その横顔には、完璧に手入れされた磁器のような美しさと、どこか現実味のない微笑みが浮かんでいる。
「湊も、貴女が笑っていれば安心するでしょう。……湊はね、本当に優しくて、責任感の強い子なの。貴女という『可愛い妹』がいるから、あの子はあんなに強くあれる。……ずっとそのままで、湊の隣にいてあげてね」
「……うん、お姉ちゃん」
私は努めて無邪気な、何も知らない妹の顔をして頷いた。
お姉ちゃんは、私が既に「湊兄さんと血が繋がっていない」という真実を知っているとは夢にも思っていない。私が、彼女が大切に守ろうとしている「理想の兄妹」という虚像を、裏側から一緒に支えていることにも気づいていない。
お姉ちゃんが描く完璧な絵画の中に、私は喜んで収まったふりをする。
その内側で、湊兄さんへの思慕と、陽太への愛、そして白河さんへの誓いを、複雑に編み込みながら。
二階の自室に入り、私はカバンから一冊のノートを取り出した。
窓の外では、三日月が鋭く夜空を切り裂いていた。
明日から始まる3学期。それは、多くの秘密と罪悪感を抱えたまま、さらなる高みへと昇るための、孤独で熱い日々の幕開けだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
星和へ帰還、そして湊たちと合流した内容です。




