重なり合う鼓動
「……ふぅ、よし」
私はラケットのガットを一度だけ整え、短く息を吐いた。
第3ゲーム、カウントは40-15。依然として西園寺のゲームポイント。
けれど、先ほどのドロップボレーで、白河さんの「完璧な同期」にわずかなノイズを走らせた確信があった。
「みゆ、次は私が動くわ。あんたは『中心』にいて」
背後から春花部長の低い、けれど熱を帯びた声がした。
部長は私のプレースタイルを完全に理解している。私が波を起こすための「支点」となり、雅さんの剛球を文字通り体で受け止めようとしているのだ。
鳳仙さんが、弾丸のようなセカンドサーブを放つ。
白河さんの「システム」が、私のリターンコースを先読みしてネット際を完全に封鎖した。
「そこよ、水瀬さん!」
白河さんのラケットが私の打球を捉えようとした瞬間、部長が猛然と前へ飛び出した。
ストレートへのパッシング——ではない。
部長はあえて白河さんのボレーを真正面から受け、その反動を利用してボールを真上へと打ち上げた。
「ロブ!?……雅さん、バックよ!」
白河さんの鋭い指示。
鳳仙さんがベースライン後方へ下がり、跳躍する。その豪快なスマッシュフォームは、見る者の戦意を喪失させるほどの威圧感に満ちていた。
(……見える。鳳仙さんの『力の流れ』が)
私は動かなかった。
鳳仙さんのスマッシュが、私の右サイド、ベースラインぎりぎりを襲う。
常人なら避けるか、フレームに当てるのが精一杯の速度。
だが、私はラケットを振り抜かず、まるで水面に網を張るように、優しくその軌道を受け止めた。
鳳仙さんの「破壊のエネルギー」を、私の「柔の旋回」へと変換する。
ボールはラケットの上で一瞬だけ転がり、次の瞬間、鳳仙さんのスマッシュ以上の加速を伴って、白河さんの足元へと突き刺さった。
「……っ、そんな!? 自分のスマッシュより速いなんて……!」
白河さんが必死にラケットを出すが、ボールはその面を弾き飛ばし、後方のフェンスを激しく叩いた。
「40-30(フォーティ・サーティ)」
静まり返る西園寺のコート。
観客席の黒江さんは、もはや瞬きすら忘れて立ち尽くしている。
彼女の目には、私と春花部長の二人が、まるでお互いの呼吸を読み合い、一つの大きな「生命体」として動いているように見えているはずだ。
「……ふん。佐藤、貴様……。自分を『壁』にして、水瀬の波を増幅させたな」
鳳仙さんが、汗を拭いながら不敵に笑った。
「"個"を捨てて仲間に尽くすか。西園寺の教えとは真逆だが……その『不合理』が、これほどの力を生むとはな」
「鳳仙さん。これは不合理じゃありません。……これが、私たちの『正解』なんです」
部長の言葉に、私は強く頷いた。
一人の才能だけでは、この城は崩せない。
部長の献身、美咲たちの声援、湊兄さんの教え、そして……陽太と誓った約束。
そのすべてが、私のラケットを通して一つの波紋となり、西園寺の「秩序」を浸食していく。
「デュース!!」
ついに追いついた。
鳳仙さんと白河さんの表情から、余裕が完全に消え、真の「捕食者」の眼差しへと変わる。
「……こころ。ここからは、西園寺の看板は脱ぎ捨てよう。……一人のテニスプレイヤーとして、こいつらを叩き潰す」
「ええ、雅さん。……『システム』なんて、もう必要ないわね」
白河さんがラケットを構え直す。その構えは、先ほどまでの精密な機械のようではなく、剥き出しの闘志に溢れた、一人の少女の姿だった。
朝の光が最高潮に達し、コート上の四人の影が短く、濃くなる。
第12章の幕が下りようとするその瞬間、私たちの戦いは、理論も計算も超えた「魂のぶつかり合い」へと突入していった。
「アドバンテージ、レシーバー!」
審判のコールが響き、ついに私と春花部長が逆転のチャンスを掴み取った。西園寺の絶対的なサービスゲームを、あと一本でブレイクできる。
コートの向こう側では、鳳仙さんが荒い息をつきながらも、その瞳には凍りつくような青い炎が宿っていた。白河さんは前衛で微動だにせず、私の指先のわずかな動きさえも見逃さないよう、全神経を研ぎ澄ませている。
鳳仙さんの放ったセカンドサーブは、今日一番の「意志」がこもったキックサーブだった。私の胸元で急激に跳ね上がり、体勢を崩しにかかる。
(……この重さを、そのまま返す!)
私は一歩踏み込み、ボールの頂点を叩いた。鳳仙さんのパワーを利用し、白河さんのポーチが届かない絶妙なアングルへとボールを流し込む。
「そこよ!!」
白河さんのダイビングボレー。届かないはずのボールに、彼女は執念で触れた。ボールは力なくネットを越え、私たちのコートへと落ちる。
「部長!!」
春花部長が滑り込みながら、そのボールを執念で掬い上げる。高く上がったチャンスボール。鳳仙さんが、咆哮とともにジャンプした。空中で静止したかのような滞空時間。全身のバネを使い、放たれる究極のスマッシュ。
「……これで、終わりだッ!!」
時が止まったように感じた。私はスマッシュの軌道の先へ、滑り込むように体を投げ出した。ラケットを地面すれすれに固定し、鳳仙さんの放った「破壊」のエネルギーを、私の『波紋』で極限まで加速させ、ライナーとして弾き返す。
——その瞬間だった。
「……っあ!!」
鈍い衝撃音がコートに響いた。
私の放った超高速のリターンは、ネット際で体勢を立て直そうとしていた白河さんの左膝を、容赦なく撃ち抜いた。
「こころ!!」
鳳仙さんの叫び声が響く。白河さんはその場に崩れ落ち、顔を青白くして膝を押さえた。
「白河さん!!」
私はラケットを放り出し、ネットを越えて彼女のもとへ駆け寄った。白河さんの額には脂汗が浮かび、震える手で膝を抱えている。
「……っ、う……あ…………」
「……骨に、いっているな」
駆けつけた鳳仙さんが白河さんの足を診て、苦渋の表情で低く呟いた。
「審判! 棄権だ。すぐに救急車とアイシングの準備を!」
「……え、棄権……? そんな……」
私の頭の中が真っ白になった。
私が放った、あの『波紋』が。
コントロールを失ったわけではない。私は確かに、彼女たちのセンターラインを狙った。けれど、その威力が、鳳仙さんのパワーを吸収した私の一打が、彼女の選手生命を脅かすほどの凶器になってしまった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、白河さん……!」
私の声は震え、視界が涙で歪んでいく。
白河さんは苦痛に耐えながらも、私の顔を見て弱々しく首を振ろうとした。
「……水瀬……さん……。……あなたは、悪く……」
「……っ、う……あああ!!」
私の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
テニスが好きだった。湊兄さんの背中を追いかけて、みんなと笑って、強くなりたくて。
でも、その行き着く先が、大好きなライバルを傷つけることだったなんて。
私はその場に泣き崩れた。
地面を叩き、嗚咽を漏らす私に、鳳仙さんが強い手で肩を掴んだ。
「……水瀬! 顔を上げろ!」
「……鳳仙さん……私、私は……!」
「……お前のせいではない。これは、全力を出し合った結果の事故だ。こころも、それを承知でコートに立っていた。……己のテニスを、否定するな!!」
鳳仙さんの怒号のような擁護。けれど、今の私の心には、その言葉さえも鋭い棘となって突き刺さる。感情が制御できず、涙が止まらない。
「……病院まで、付き添わせてください」
私は震える声で懇願した。
「……私が、やったんです。私が……白河さんのそばに、いさせてください……」
春花部長や式守先生が駆け寄ってくる中、私は救急車が到着するまで、白河さんの冷たくなった手を、ただひたすらに握りしめていた。
西園寺の城に、最悪の沈黙が流れていた。
合宿最終日。
私たちの勝利は、あまりにも重く、悲しい代償を伴って幕を閉じた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
練習試合はひとまず決着です。
次は、病室の沈黙:白河こころの診断と、みゆの深い後悔 の話になります。




