湯煙の停戦
西園寺女子中等部の宿舎にある大浴場は、もはや「部活動の施設」の域を超えていた。御影石が敷き詰められた床に、ゆったりと湯気を上げる巨大な檜風呂。窓の向こうにはライトアップされた竹林が広がり、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「うわぁ……すごすぎる。これ、本当にお風呂なの? 温泉旅館じゃないよね?」
美咲が脱衣所で声を弾ませ、莉奈と奈緒もその豪華さに圧倒されていた。泥まみれ、汗まみれになった一日の終わり。私たちは吸い込まれるように、温かな湯気の中へと足を踏み入れた。
「――あら。星和の皆さんも、今から?」
立ち込める湯気の向こうから、聞き慣れた、けれどいつもより少しだけ柔らかな声がした。
洗い場にいたのは、白河こころさん、そして黒江さんだった。
「白河さん、黒江さんも……。お疲れ様です」
私が会釈すると、二人はタオルを手に振り返った。白河さんは、濡れた髪をアップにまとめており、普段の完璧な制服姿とは違う、瑞々しい少女の素顔を見せている。黒江さんは、相変わらず表情こそ乏しいものの、午後の特訓の疲れを癒やすように、お湯を肩に掛けていた。
「ふん。ようやく来たか」
その奥。一番大きな湯船の縁に腕をかけ、堂々と足を伸ばしていたのは、鳳仙雅さんだった。
湯気に巻かれながらも、その肉体はアスリートとしての無駄のない筋肉に覆われ、静かな威圧感を放っている。
「鳳仙さん……。お邪魔します」
「……構わん。ここは戦場ではない。……おい、黒江。そこを空けてやれ」
鳳仙さんの言葉に、黒江さんが「失礼します」と小さく会釈して場所を譲ってくれた。
私たちは、緊張と気恥ずかしさが混ざり合う中、西園寺のメンバーと同じ湯船に肩まで浸かった。
「ふあぁぁ……生き返る……」
美咲が思わず声を漏らす。その拍子に、お湯が波紋となって広がり、鳳仙さんの足元に届いた。
「……賑やかだな、星和は。食事の時と言い、貴様らがいるとこの城の静寂が台無しだ」
鳳仙さんは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、その瞳に険しさはない。むしろ、熱いお湯に身を委ねて、少しだけ眠たげに目を細めていた。
「雅さん、たまには賑やかなのも悪くないでしょう? 西園寺の部員は、みんな雅さんの前だと緊張して、お風呂でも静かすぎるんですもの」
白河さんが隣でクスクスと笑いながら、自分の細い腕をさすった。
「それにしても……みゆさんのあの『波紋』。受けていた部員たちの腕、みんな真っ赤だったわよ。力じゃないのに、芯に響くような重さがあるって、みんな驚いてたわ」
「……私も、そう思いました」
黒江さんが、お湯の中から私の手元をじっと見つめて言った。
「水瀬さんの手……。もっとごつごつしていると思っていました。でも、意外と普通なんですね」
私は自分の手を広げてみた。
マメは潰れ、指先は硬くなっているけれど、鳳仙さんのような「鋼」を思わせる強靭さはない。むしろスポーツをしているにしては柔らかすぎるほどだ。
「……私の力は、全部もらいものなんです。兄さんや、仲間たちが繋いでくれた流れを、ただ返しているだけだから」
「……謙遜も過ぎれば嫌味だな」
鳳仙さんが、お湯を掬って自分の肩にかけた。
「貴様のその『普通さ』が、一番の驚異なのだ。黒江、よく見ておけ。これが、システムを内部から腐らせる『劇薬』の正体だ」
「……雅さん、お風呂で『腐らせる』なんて言葉使わないでください」
白河さんの容赦ないツッコミに、奈緒や莉奈からも小さな笑いが漏れた。
「ふぅ……。西園寺のお風呂、本当に極楽ですね」
美咲が湯船の縁に頭を預け、幸せそうに息を吐いた。その隣では莉奈が、物珍しそうにライトアップされた竹林を眺めている。
「……ねえ、白河さん。西園寺の人たちって、お休みの日とか何してるんですか? やっぱり、みんなでデータ分析とか?」
莉奈の素朴な疑問に、白河さんは濡れた前髪をかき上げながら、くすりと笑った。
「まさか。休日は普通の中学生よ。私は紅茶の茶葉を買いに行ったり、たまに雅さんと映画を観に行ったり……ね?」
「……余計なことを言うな、こころ」
鳳仙さんが気まずそうに顔を背ける。あの「絶対王者」が映画を観る姿が想像できず、奈緒が眼鏡を外した細い目で雅さんを見た。
「鳳仙さんも映画を……。ちなみに、どのようなジャンルを?」
「……ドキュメンタリーだ。野生の猛獣が獲物を狩る記録映像などは、筋力や骨格の動きの参考になる」
「雅さん、嘘をおっしゃいな。この前、一緒に恋愛映画を観て、最後の方で少し鼻をすすっていたじゃない」
「なっ……! あれは劇場の空調が乾燥していただけだ!」
鳳仙さんの必死の弁明に、浴場内がどっと沸いた。美咲や莉奈は「鳳仙さん、可愛いところある!」と大はしゃぎだ。黒江さんすら、お湯に浸かった口元を微かに緩めている。
「……下らん。私に届かぬ者たちが、勝手に偶像を作り上げているだけだ」
鳳仙さんはお湯をバシャリと跳ねさせると、不意に鋭い視線を私に向けた。
「……それより水瀬。貴様はどうなのだ。あの『湊』という男。貴様にとっては兄だが、世間的には伝説の怪物だ。その妹として、浮いた話の一つもないのか?」
唐突な矛先に、今度は私が顔を赤くする番だった。
「に、兄さんは……。ただのテニスバカですよ。家ではジャージで寝転がって、恋愛なんて、たぶん単語の意味すら怪しいと思います」
「えー、でもさあ」
そこで美咲が、ニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「湊さん、浮いた話はないけど、みゆのことになると全然反応違うよね。誰かに絡まれた時とか、急に保護者モードっていうか……。まあ、湊さんの話は置いといて」
美咲が、獲物を見つけた猛獣のような目で私をロックオンした。莉奈も隣でニヤリと笑う。
「みゆ、誤魔化さないでよ。私たち、あんたと陽太くんが『そういう関係』なのは百も承知なんだから。ねえ、ぶっちゃけクリスマスのあの後、どこまで進んだの? 尋問開始!」
「ちょ、ちょっと、二人とも……っ! 何を……!」
お湯の熱さとは違う熱が、一気に全身に昇る。西園寺のメンバーの前で何を言い出すのかと焦る私を余所に、美咲は容赦なく畳み掛けた。
「手、繋ぐのはもう当たり前でしょ? あの雰囲気なら、付き合っているならキスも経験済みでしょうから、それ以上……こう、肌を寄せ合ったりとか、しちゃったんじゃないの!?」
「してない! してないから!!」
必死に否定する私を見て、鳳仙さんが「ほう……」と興味深げに身を乗り出した。白河さんも、面白そうに瞳を輝かせている。
「陽太……。確か、星和の男子シングルスを担う少年か。……水瀬、貴様も隅に置けんな。戦士としての鋭さと、年相応の隙を併せ持っているとは。で、実際はどうなのだ? 私は虚偽の報告は許さんぞ」
「鳳仙さんまで、変なこと言わないでください……!」
「いいじゃない、みゆ。隠さなくても」
莉奈が肩をぶつけてくる。
「陽太くん、あの後ずっと幸せそうな顔してたし。私たち、ちゃんとお祝いしたいんだからさ。ほら、白状しなさい!」
「……っ!!」
私はたまらず、お湯の中に顔を半分沈めた。泡がブクブクと浮き上がる。
「……本当に、ただ一緒にショッピングに行って、買い食いして帰って。……少しだけ、お話して。……あ、でも、今度は本物のジュエリーみたいなやつを贈るよって言ってくれたな……」
「なにそれ!ものすごく進展してるじゃないの!」
「……微笑ましいわね」
白河さんが、慈しむような、けれど最高に悪戯っぽい目で私を見た。
「いいじゃない。そういう大切な人がいるからこそ、その『波紋』に誰にも真似できない温かさが宿るのかもしれないわね。……でも、明日コートに立ったら、その『陽太くん』のことも忘れさせるくらい、私があなたを翻弄してあげる」
裸の付き合い――。
ユニフォームも、ラケットも、立場もすべて脱ぎ捨てたこの場所で、私たちはただの「テニスが好きな少女」に戻っていた。
竹林の葉が触れ合う音を聞きながら、湯船に漂う不思議な連帯感。
けれど、その温もりの中でも、私たちの心にある「火」は消えるどころか、静かに、より純粋に燃え上がり始めていた。
脱衣所に冷房の風が吹き抜け、火照った肌を心地よく冷やしていく。美咲や莉奈は「やっぱり恋バナは最高だね!」とはしゃぎながら髪を乾かしている。私は鏡に映る自分の顔がまだ赤いことを確認し、冷たい水でそっと頬をゆすいだ。
「水瀬さん」
不意に声をかけられ振り返ると、既に身支度を終えた黒江さんが立っていた。
「……明日の試合。私はあなたの『波紋』を、一番近くで見ていたい。……頑張ってください」
短く、けれど真っ直ぐな言葉。彼女もまた、午後の敗北を糧に、西園寺の「次期エース」としての覚悟を固めたようだった。私は「ありがとうございます」と微笑み、彼女の背中を見送った。
自室に戻り、美咲たちが先に寝静まった頃。トントン、と控えめなノックの音がした。
「みゆ、入ってもいい?」
扉を開けると、そこには自分のノートを抱えた春花部長が立っていた。
「部長……どうしたんですか、こんな時間に」
「ちょっと、明日のこと。あんたと二人で詰めておきたくて」
部長は私のベッドの端に腰を下ろし、使い込まれたノートを開いた。そこには、鳳仙さんと白河さんのプレースタイルが、これまでの対戦データを含めて緻密に書き込まれている。
「鳳仙雅と白河こころ……。あの二人のダブルスは、"暴力的な個"と"無機質なシステム"の完全な融合よ。鳳仙さんがコートを荒らし、その隙を白河さんがミリ単位で詰めてくる。……正直、今のまま普通に戦ったら、みゆの『波紋』も飲み込まれると思うわ」
部長の言葉は冷静だった。鳳仙さんの圧倒的なパワーと、白河さんの完璧な予測。その二つが組み合わさった時、コートは逃げ場のない檻に変わる。
「……一人の波では、足りないかもしれません」
私は、午後の特訓で感じた雅さんの圧力を思い出していた。
「そうね。だから明日、私はあなたの『影』になるわ」
部長はノートの一点を指差した。
「みゆ、あんたが自由に波を起こして。鳳仙さんの猛攻を受け流し、白河さんの予測を狂わせる……そのために、私が死角をすべて埋める。あんたが『動』なら、私は『静』。二人のリズムを重ねて、一つの大きな『うねり』を作るのよ」
部長の手が、私の肩を力強く叩いた。
「一人で背負わないで。あんたの隣には、私がいるんだから」
「……はい。部長となら、あの城を崩せる気がします」
翌朝。
テニスコートには、冷ややかな朝靄に包まれていた。
私たちがコートに足を踏み入れたとき、そこには既に西園寺の全部員が整列し、独特の威圧感を放っていた。その中央、王者の風格を漂わせてラケットを構えるのは、鳳仙雅と白河こころ。
「……来たか。水瀬、佐藤」
鳳仙さんの声が、朝の静寂を切り裂く。彼女の瞳には、昨夜の湯船で見せた柔らかな影は微塵も残っていない。そこにあるのは、獲物を狩る直前の、猛々しい王者の意志だ。
「鳳仙雅、白河こころ。……今日、この城で最強を証明するのは、私たち星和です」
春花部長の宣言が響く。
式守先生が静かに頷き、審判席へと向かった。
私はラケットを握りしめ、エンドラインに立った。
心臓の鼓動が、コートの土を踏みしめる感覚と同期していく。
『波紋』は既に、私の指先からコート全体へと、静かに、けれど力強く広がり始めていた。
「練習試合、ダブルス。……プレイ!!」
女王の城が崩れるか、あるいは星和の意地が飲み込まれるか。
運命の最終日が、今、幕を開けた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
試合前の休息回です。そして投稿開始100日目。
次はダブルスでの衝突回になります。




