07 愛の深さは根の深さ
こうして思い出すだけでも、くっだりとした疲労感が蘇る。それを自分の口から語っているのだから、ダメージもひとしおだった。
『攻め』という単語が出たあたりから、すっかりニヤけていたサチさんが拍手を送ってきた。
「想像の斜め上を、きっちり飛び越えてきたわね。面白かったわ」
「当人としては、笑いごとじゃありませんよ……」
「で、も。私は楽しいわ。なぜなら他人事だもの」
とことん無責任な調子でそう言うと、サチさんはビールで喉を鳴らした。
隣のユエさんが、しみじみとした声で言う。
「攻め派の熱量凄いねー。わざわざ呼び出してまで確認しようとするなんて」
「攻め派って……意味、わかってて言ってます?」
「ネットフリックスでアニメ、いっぱい見たからね」
そう答えるユエさんは、頬杖をつきながら首を傾げた。
「でもさ、ツバメくん受けが主流ってのは、わかる気がするよ。でもなんで、そこまで攻め派を否定するんだろう。同じ穴のムジナなんだから、仲良くやればいいのに」
「そう言っちゃう辺り、ユエちゃんはまだまだ『浅い』わね」
サチさんがしたり顔で言うと、僕はため息混じりに返した。
「……それに関しては、浅く済むならそれに越したことないですけどね」
「そういうツバメくんは、その辺りの知識、しっかりおありのようね」
「中二の頃から、ひじりんを追っかけてますからね」
「そうだったわね」
機嫌がよさそうに口ずさむサチさんは、ユエさんに視線を戻した。
「この手の話って、愛ゆえに神聖視しすぎちゃうのよ。だから思想が、一神教みたいに排他的になるの。『わたしの他に神があってはならない』みたいに、『ツバメくん受け以外あってはならない』って調子でね」
「ただのBLで、なんでそうなっちゃうの?」
「愛の深さは根の深さ。そしてその根っこが腐りきってるからよ」
「腐女子ってやつ的に?」
「そうそう。でも、ツバメくんをカップリングに組み込んだ子たちが、最初から腐ってたかって言うと、私はそうじゃないと思ってる」
「どうして?」
「手が届く距離にいるのに手が届かない。そうやって、せめて見ているだけで満足してる子たちが、一番恐れてるのってなにかわかる?」
「相手に彼女ができること!」
「正解」
パンと手を叩いたユエさんに、サチさんは人差し指を突きつけた。
「女って、嫉妬深いからね。自分じゃ手に入れられない相手が、他の女に持っていかれる。それが、どんなに気に食わないか。しかもその他の女が身近な相手なら、なおさらね。しかも、そんな子たちが見てるのは、いつ彼女ができてもおかしくない御方ってわけ」
「つまり、そんな子たちが自分の心を守るために、ツバメくんとカップリングさせたってこと?」
「パンを食べてほしくないなら、ケーキを食べてもらえばいいじゃない、ってね」
サチさんは得意げに言い切った。
ケーキ役にされた身としてはたまったものじゃない。
でも……彼女たちの気持ちが、わからないわけでもない。それがまた困るのだ。
ひじりんが男性配信者と絡んでほしくない、なんて思いはまだ序の口。裏で付き合ってるらしい、なんて噂を目にするだけで、胸がざわついた日もあった。
でも、相手が女性なら気にならない。
むしろ、ヒィたんの中の人とデキている――なんて噂が流れてきた日には、心から祝福するようなおめでたい気持ちになるのだ。自分の心が。
「そうやって心の安寧を図っている内に、腐っていったんじゃないの? 知らんけど」
「最後の最後に、そんな無責任に締め方あります?」
「憶測の上に妄想を重ねてるだけの話に、責任なんて持ちたくないわよ」
僕がガクリと肩を落とすと、隣のユエさんがおかしそうに笑った。
「でもさ。カグヤちゃんの件みたいに、深刻な話ってわけじゃないんだし。別にこのままでもよくない?」
「よくないです。コウくんと付き合ってる扱いされてる上に、攻めだの受けだのって争われて……頭痛が痛いですよ」
「それ、二重表現だよ」
「ひと粒で二度痛いんです」
深い溜息が勝手に漏れた。
すると、ユエさんがぽつりと呟く。
「だったらさ、誤解を解けばいいんじゃない?」
「どうやってですか?」
「女の子と仲良くしてるとこ、堂々と見せちゃえばいいんだよ。新しい噂で、上書きしちゃお」
「そんな都合のいい相手、どこにいるんですか」
「いるじゃん」
「どこに?」
「そこに」
指差された先を見やると、思わず言葉を失った。
――たしかに、これ以上相応しい相手はいないが……。
「え、わたし?」
唐突に話を振られたカグヤ先輩は、戸惑いながら自分を指さす。
ユエさんは悪戯っぽく微笑みながら、しっかりと頷いた。
「ほら、カグヤちゃん。男の子と噂されたこと、今までないんでしょ?」
「まあ……テルくん以外に、友達と呼べるような男の子っていませんから」
「そんなギャルザベスが、ある日突然、男の子と仲良くしてたら?」
「百パー、噂されると思います」
カグヤ先輩は、不承不承といった様子で肯定した。
「だからそれを避けるために、今までずっと、学校ではテルくんとの関係を隠してきたんです。テルくんの学校生活を、針の筵にするわけにはいきませんから」
今も心は陰キャのままというだけあって、カグヤ先輩はそのあたりの配慮が厚かった。学校でも本当は、もっと気軽に僕と話したいと思ってくれているが、
「なにせ中学時代のわたしが、来光くんと仲良くしてるようなものですし」
と、今の自分の立ち位置をきちんと理解しながら、僕の立場を思いやってくれているのだ。
だから僕らは、やましいことが何もなかったにも関わらず、関係をあえて公にしてこなかった。
面白がって茶化してくる人間もいれば、気に食わないと突っかかってくるものもいるだろう。身の丈に合わない相手と関わることは、それだけで余計な負を背負いこむことにもなりかねない。
そう思っていた僕に、ユエさんはあっけらかんと言ってみせた。
「針の筵っていうけどさ。なにかあればすぐ殴られるような、不良校に通ってるわけじゃないでしょ?」
「……まあ、その手の暴力が学校で起きたって話は聞きませんけど」
「だったら、目をつけられるかもなんて、気にする必要ないよ。堂々とカグヤちゃんの隣に立ってさ。『僕がカグヤ先輩の一番だ』って顔してればいいの」
「そんな顔できてたら、そもそも地元の高校に進学してますよ……」
「前はできなかったかもしれないけどさ。今ならできるんじゃない?」
「そんな無責任なこと、軽々しく言われても……」
「わたし、ツバメくんなら、本気でできるって思ってるよ」
ユエさんは真っ直ぐな眼差しでそう言った。
「ツバメくんって、案外図太いからさ」
「それ、褒めてます?」
「それが美点かどうかは、置いとくとして――富も、名声も、影響力も。わたしとさっちゃん、どれを取ってもカグヤちゃんより遥か上だと思うよ」
まるで事務的な自己評価を並べるような口調だったが、誇張ではなかった。
「でも、そんな大人を前にしても、ツバメくんって物怖じしてないでしょ?」
「それは、慣れっていうか……」
「じゃあ、その慣れって、私たちのことを軽く見てるってこと?」
「ち、違います違います! えっと、親しみ、ですよ? いつまでも顔色ばっかり伺ってるよりは、いいかなって……思いまして」
「それでいいんだよ」
ユエさんが柔らかな笑みを浮かべると、サチさんもそれに倣うように頷いた。
「いつまでもご機嫌伺いのように壁を作られるより、ちゃんと敬意を払いつつ、言いたいことは言ってくる。そんなツバメくんと、一緒にいて楽しいわよ」
「そう言ってもらえるなら、ありがたいですけど……」
そうやって僕がホッとしていると、ユエさんが言う。
「わたしたちを、そんな風に相手できるんだよ? 『おまえ、あのギャルザベスと仲がいいんだって?』なんて言ってくる相手くらい、どうとでもなるって思わない?」
否定の言葉が、喉まで出かかったのに、声にならなかった。
ユエさんやサチさんを相手にしている自分を思えば、たしかに――と、納得してしまう部分があったのだ。
「まあね。中には気に食わなくて、『なんでおまえみたいな奴が』って思う人もいるだろうね。中には、面と向かって口にする人も出てくるかもしれない」
そうやってアイドルを辞めた今もなお、
「でも、それで殴られるわけじゃないんだから。だったらさ、『ああ、自分もついに有名税を払う立場になったか』くらいの気持ちで、余裕かませばいいんだよ」
有名税を払い続けている人が、涼しい顔でそう言った。
「誰かとぶつからず生きるなんて、どのみち無理な話なんだよ。だったら、目立たないよう肩を縮めて歩くんじゃなくてさ。胸を張って前を向いてたほうが、ずっと人生は楽しいよ。ツバメくんには、それができる図太さがあるよ」
置かれていたものを持ち出して、ユエさんは褒めるように言った。
そんな生き方――明るく、真っ直ぐで、人目を気にせずいること。
これまで自分には縁遠いものだと、どこか決めつけていた。
けれど、できたらいいのにと思ったことは何度もあった。
カグヤ先輩やコウくんみたいに、なんて高望みじゃない。
クラスの中心、その輪の中で当たり前に笑っていられたら、どんなに楽しいだろうと、ずっと思ってきた。
でもその入り方がわからず、ずっと身の丈という鎖に繋がれていた僕が、気づけば学校でもっとも目立つふたりと、自然と言葉を交わすようになっていた。
そしてコウくんの唯一の友人と周知された今、カップリングされるくらいには認められていた。受け入れがたい認められ方ではあるが、そこに目を瞑れば、僕の学校生活はなんの問題もなく、むしろ順調と言ってよかった。
――だったら。
カグヤ先輩との仲を明るみに出すことで生じる面倒なんて、大したことじゃないのかもしれない。
ユエさんの言葉はそんな風に、自分の中に眠っていた小さな自信の芽を呼び起こしてくれた気がした。
「そもそもの話さ。カグヤちゃんが乗り越えてきた道と比べたら、ぜんっぜん大したことないからね」
「……たしかに、カグヤ先輩と比べたら、ずっと楽かもしれませんね」
「一番の友達なんでしょ? だったら、その背負ってきたものの一割くらい、一緒に背負ってあげたら?」
そう言われたら、一割くらいなら――と、軽く思えてしまう。
それだけで、腐のカップリング話から開放されるのなら、なおさらだ。
前向きな気持ちになれた今、残る確認は、ただひとつ。それをユエさんが確認した。
「ツバメくんとの仲、噂になっちゃうけど、カグヤちゃんはそれで大丈夫?」
「まったく、ありません!」
パッと花が咲いたように表情を明るくし、カグヤ先輩は両手で小さなガッツポーツを作った。
「人目を気にせずテルくんと話せるようになるなんて、願ったり叶ったりですから!」
「こんな思わせぶりな態度を見せられたら……カップリング話なんて、秒で吹き飛ぶわね」
サチさんはくすくす笑いながら、微笑ましそうに缶を揺らしている。
こうして、コウくんとの誤解を解くため、カグヤ先輩との仲を公にすることが決まった。
これから自分の高校生活が、どれほど変わっていくのか――その緊張はたしかにある。
けれど、イメチェンして臨んだ登校初日の前夜ほどの不安はなかった。
本来ならば、カグヤ先輩との関係のほうが、ずっと周囲に与える影響は大きいはずなのに。それでも、そこに怖さがないのはユエさんから与えられた自信と、カグヤ先輩が共に背負ってくれるという安心感だ。
だか、もしこれを記録として読むものであれば、先に記さなければならない。
この作戦は功を成さなかった。
なにせ彼女たちが自らを守る殻は、生半可なリアリティでは揺るがない。
自らを腐の底に沈め、そこにしか安寧を見いだせなくなった、覚悟を決めたものたちなのだから。
もはや生者の言い分など、亡者には届かない。
けれど彼女たちは、心霊写真よりおぞましい現実を前にして、苦しみの中で祓われていくことになる。
――悪霊退散、と。
結局、その気になったコウくんに勝てるものなど、学校という小さな箱庭にはいなかったのだ。




