03 相変わらずラブラブ
店内に足を踏み入れると、スパイスの香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃーませー」
と、方言訛りではないが、どこか癖のある日本語。配膳を終えた足取りで近づいてきたのは、店主のラジャンだった。
小柄な身体にやや目立つお腹の丸み。褐色の肌には笑い皺が刻まれ、控えめなヒゲが人懐っこさを際立たせている。
「ツグミ、久しぶりねー。元気だった?」
「おう、元気元気。二階のいつもの席、いいか?」
「いいよー。注文は?」
「いつもの。ドリンクはふたつともラッシーで」
「おー、カップルセット?」
ラジャンは僕を見るなりニヤリと笑い、コウくんに向かって小指を立てる。
「もしかして……新しい恋人さん?」
「新しくもなんともない。こいつ、ワカだぞ」
「ワカ!? おぅ……よく見たら」
笑顔のまま僕の両肩をポンポン叩き、目を細める。
「ちょっと見ない間にカッコよくなったね。今のワカなら、ツグミとお似合いよ。相変わらずラブラブ?」
「はい、ラブラブです」
「おぅ、それはうらやましいね。美味しいの、すぐ作るから待っててね」
厨房に消えるラジャンの背を見送りながら、僕はコウくんと顔を見合わせた。すっかり慣れたもので、今更苦笑いすら浮かばない。
なにせラジャンは、本気で僕らが付き合っていると思っているわけじゃない。毎回カップルセットを頼んでいるせいで、半ばネタのようになっているのだ。
ちなみにカップルセットとは、四種類のカレーにマライティッカとチキンティッカ、サラダ、チーズナンとガーリックナン、さらにドリンクまで付いた盛りだくさんのメニューだ。カップルセットと銘打ってるが、誰でも頼めるセットである。
「お、ラッキー」
一階がほぼ満席だったのに対し、二階には誰もいなかった。
僕らは奥まった場所にある、いつもの四人がけの席に腰を下ろす。椅子の軋む音が妙に耳についた。
ようやくその時間が来たとでも言うように、コウくんが改まった口調で切り出す。
「それで、温泉旅行はどうだった?」
どこか下世話な期待を滲ませながら、意味ありげに笑う。
「大人のお姉さんと、なにか進展はあったか?」
「あったもなにも、進展どころかの騒ぎじゃないよ」
苦笑交じりに答えると、コウくんが興味津々といった様子で顎を撫でた。
「ほう……その感じだと、大人の階段を上ったってわけでもなさそうだな」
「あの、見るも無惨な誕生日から色々とあったけど……家が焼けて、大人のお姉さんのヒモになったって事実だけが残ったのが発覚した」
「それはまた、面白そうな話になりそうだ」
肩を落とし気味の僕とは対照的に、コウくんの目は期待に満ちていた。
ゴールデンウィーク中にあった出来事――カグヤ先輩と親しくなったきっかけなども含めて順を追って話すと、それは料理が運ばれてくるまででは語りつくせず、話が終わるころには空になった皿は下げられ、僕のグラスには二杯目のラッシーが注がれていた。
「いやー、想像以上に濃い話だったな」
コウくんは目を丸くしながら笑い、そのまま思い出し笑いの波に呑まれた。
「しっかし……く、くく……パパ活の誤解が、ア◯ホテルはなー」
まるでプロレスラーが耐えかねてタップするようかのように、コウくんはテーブルをパンパンと叩く。
「いやー、マジで傑作だわ」
「もう好きなだけ笑ってくれ。僕が全部悪かったです……」
「まあまあ、ワカの誤解も仕方ないと思うぞ。俺もあそこは重宝してるし」
「え、そうなの?」
「あそこはチェックインもチェックアウトも、スタッフと顔を合わせず済むからな。俺たちみたいな後ろめたい人間にはありがたい場所だよ」
笑い混じりにそう言ってから、ふと真顔に戻る。
「それより、お姫様のこと、俺に全部話してよかったのか?」
「うん。本人の許可は降りてるから」
と答えながら、内心では苦々しい思いは拭えなかった。
許可が降りたのは、あくまで口を滑らせること前提だったからだ。
「ツバメくんって、すぐに口を滑らせるよね」
ユエさんにそう言われたのが始まりだった。
カグヤ先輩やコウくんのことをユエさんたちに話し、逆にユエさんのヒモになった話をコウくんに漏らし――気づけば、秘密のつもりだった話をあちこちに漏らしていた。
「カグヤちゃんのことも、明日ポロッと漏らすんじゃない?」
それを断固とした姿勢で否定できないあたり、自分の立場は察するに余りある。
「まあ……来光くんならわたしに興味ないだろうし、言いふらすようなタイプじゃないと思うから。テルくんの判断で言っちゃってもいいよ」
カグヤ先輩はそう言ったあと、さらりと続けた。
「わたしのこと隠すのに必死になって、夜桜ルナとかひじりんの名前がポロっと漏れるほうがマズイから」
つまり、なにかしら口を滑らせる前提で、対策を講じられたというわけだ。
口にこそ出さないが、カグヤ先輩の本性を赤裸々に話していたことには、怒りや悲しみとまではいかずとも、思うことがあったのかもしれない。
僕は昨日の一件も思い出しながら、コウくんの秘密を漏らしていたことを詫びた。
「ま、それもまた、気の置けない相手には素直すぎるっていう、ワカの美徳だろ」
責めるどころか、褒めるように笑うコウくん。その懐の深さに頭が下がる思いでいたら、
「でも、よかったじゃねーか。大好き推しの中の人と、そんな風に繋がれて」
「え! 僕、ひじりんの名前出しちゃってた!?」
サチさんの話は、有名なVチューバーというふうにして、ひじりんの固有名詞は出さなかったつもりだったのに。
「ほらな、素直だろ?」
にやけた顔でコウくんが口角を上げる。
「素直だろって……まさか、適当にカマかけたってこと?」
「適当じゃないぞ。十中八九は昨日の時点で確信してたから」
「昨日の時点って……」
旅行話を聞こうとしてただけに思えたコウくんが、なぜ前もってそんな確信を持っているのか?
怪訝な顔をしていると、コウくんはそのからくりを明かした。
「ほら、トップVチューバーが陰謀論に目覚めたって、字面だけで面白いだろ? それがワカの推しなんだから、多少のアンテナくらい張るだろ」
「張るって……?」
「ツイッターのトレンドに、ひじりんが上がってきてな。軽くチェックしたら、草津温泉と聖徒のツバメくんってワードにピンときてな。ただの偶然にしちゃ、できすぎだろ?」
「聖徒のツバメくんって……サチさん、放送でどこまで話してるんだ?」
ひじりんはユニコーンを多く抱えている。男の、それも聖徒と顔を合わせた話をしようものなら、それだけでお気持ち表明ものだろう。でも、それが荒れてないっていうことは、笑い話で収まる範囲で上手く説明できたのだろうか?
「どこまでって、見てないのか?」
「こう、あれから毎日顔を合わせてるからさ。つい見損ねて……」
「近すぎるゆえってやつか」
コウくんは納得したように頷くと、ニヤっと口端を上げた。
「で、今のところ、誰が本命なんだ?」
「本命って……別に、そういう感情はないから」
「なに言ってやがる。一緒にいて楽しいべっぴん揃いなんだろ? 下心のひとつやふたつ、生まれないほうが不健全だろ。それに、相手の魅力にも失礼だ。……それとも、三人ともお眼鏡に適わないってか?」
「そんな贅沢は言わないけどさ……みんな、僕を信頼してくれてるわけだし、そういう目で見るのはちょっと後ろめたいっていうか……」
「そういう目って、性的な目ってことか?」
「濁してるんだから、ハッキリ言わないでよ」
「だからおまえは生娘かよ」
呆れたように眉をひそめるコウくんが、少し真面目な声音に変わる。
「前にも言ったけどな。ちゃんと言葉にするってのは、大事なことなんだ。曖昧な言い方ってのは、受け取る側に委ねるってことだからな。それでズレたまま進んで、気付いたときにはもう手遅れ……ってのは、よくある話だぞ」
一拍置いて、少しだけ視線を外す。
「人ってのは、見たものと同じくらい、聞いた言葉を信じる生き物だからさ。一度口から出た言葉は、もう自分のもんじゃなくなる。受け取った相手の中でそれが真実になったら、簡単には覆らん。だから、言葉には気をつけろ」
「肝に銘じとく」
なんて、軽い調子で受け取ったが、このとき僕はまだ知らなかった。
冗談に乗っかっただけのやり取りが、あとで思いもよらぬ誤解となって返ってくるなんて。
言葉は、発した瞬間から他人のものになる。
その重みを、僕は身を持って知ることになるのだった。




