37 百万円の重み
もくもくと湯煙が立ち上っている。
空に溶けていく白い煙と、どこか焦げたような硫黄の匂い。
湯桶を伝って流れる湯は、白く濁った緑色。木の枠は歴史をまとったように、重たく黒ずんでいる。
そんな湯気を吐き出す大きな温泉の池――湯畑を中心に、旅館や土産物屋が肩を寄せ合うように並んでいた。
「わぁ……テレビで見たまんまだ」
どこか遠い世界のように思っていた景色が今、視界いっぱいに広がっている。
草津温泉。
この足で、本当にここへやってきたのだという実感が、じんわりと胸に満ちた。
「とーちゃーく!」
十分前にバスを降りたときも口にした言葉を、機嫌よさそうに発するユエさん。
今日もキャップの上からパーカーのフードをかぶり、サングラスをかけたお忍びスタイルだ。
「わっ、なんも見えない」
湯桶を覗き込んだユエさんが、顔をしかめながら木柵からぱっと身を離れる。
どうやらサングラスが湯煙で曇ったらしい。そのハプニングを、子供のようにはしゃいでいる。
実際、今日のユエさんは、まるで遊園地を楽しみにしていた子供のように、朝から元気を持て余していた。
子猫を元の飼い主に返したことで、責任と張り合いを失ったからなのか。ここ最近のユエさんは、すっかり朝に弱くなっていた。
僕が登校するまでに、ユエさんを見かけない日もあれば、ソファーで眠っている姿を見るのも、もはや日常なっていた。
それこそ夜中にトイレに起きてリビングを覗けば、テレビをつけっぱなしにしたまま、ウトウトしているユエさんを見かけるくらい。
生活に、メリハリというものがすっかりなくなっていた。
もしかしたら、僕が転がり混む前の生活に戻っただけかもしれない。
そんなユエさんが、今朝は僕が起きる頃には、家を出られる支度を整えていた。それだけで、この旅行をどれだけ楽しみにしていたか伝わってくる。
スマホを見ると、時刻は十一時を回ったばかりだった。
「そろそろお昼時ですけど、どうします?」
「うーん、小腹は空いてきたけど、まだいいかな。ツバメくんは?」
「僕はまだまだ、朝のが残ってます」
「ツバメくん、あんなにいっぱい食べたもんね」
「ユエさんが食べ切れない量を頼みましたからね」
「だって、あんなに大きいと思わなかったんだもん」
朝食は、逆写真詐欺で有名な珈琲店で済ませた。
僕はみそカツパンとコーラを。ユエさんはドミグラスバーガーと期間限定の竜田バーガー、それにアイスコーヒーという布陣だった。
「朝からがっつりいきますねー」
「ふふん。迷ったら両方頼めばっていいって、閃いちゃったからね」
「そんなに食べられるんですか?」
「余裕、余裕。むしろツバメくんこそ、食べ盛りの男の子でしょ? カツサンド一個なんて、細身のお姉さんに負けてどうするの」
「……知らないんですか? ここのフード、逆写真詐欺で有名なんですよ」
「あー、聞いたことあるけど……ま、喫茶店のハンバーガーだし。たかが知れてるでしょ」
余裕そうに軽口を叩いたユエさん。
だが、運ばれてきた実物を見て、目をパチパチとさせたあと、そっと目をこすった。
よく利用するハンバーガー店の、倍はあるサイズだった。
「ツバメくん、好きなほう選んでいいよ」
ユエさんはとびきりな笑顔で、ノルマを押し付けてきた。
言わんこっちゃないと吐息を漏らしながら、僕はドミグラスバーガーを選んだ。
体育会系でないにしても、食べ盛りの男子高校生だ。このくらいペロリといけるなと、余裕を持って食べきった――そこへ、みそカツパンが到着した。
その大きさと重量感に、思わず慄いた。
三つにカットされた一切れが、僕の想定していた一般的な一人前サイズだったのだ。
空腹状態ならともかく、今の僕はハンバーガーに手を付けてしまっている。
一カットでお腹いっぱい。二カット以降は辛い戦いになると思い、ユエさんをチラリと見た。
「わー! ツバメくんすごーい! やっぱり、男の子だね」
あざとさを舌先で転がしながら、ユエさんは牽制してきた。お腹を擦ることで満腹アピールをして、助け舟を出す気配は皆無だった。
こうして朝からフードファイトをするハメになった僕は、腹をパンパンに膨らませたまま、電車に乗り込んだのだった。
「朝は無茶させちゃったから、お昼はツバメくんのお腹に合わせるよ」
「無茶させた自覚はあったんですね」
「さすがにね」
殊勝な態度を見せたかと思えば、ユエさんは右手を差し出してきた。
「というわけで、誠意は形で見せます」
「……なんですか、その手は?」
「折角のデートなんだから、やっぱり手は繋がないと」
「デート……は、まあいいとして。それと誠意がどう繋がるんですか?」
「ツバメくん、わたしの前職、お忘れかな?」
「……アイドルですね」
「ノンノンノン。ナンバーワン、アイドル」
ユエさんは気障ったらしく、人差し指を左右に振った。
「じゃあアイドルとファンが、一番密接に関われるイベントって、なんだと思う?」
「えーと……やっぱり、アイドルといえば握手会?」
「さーて、ツバメくん。もし推しと握手できるなら、その権利を得るのに、いくらまで払える?」
ニヤリと口端を上げながら、挑戦的に問いかけてくるユエさん。
ひじりんはVチューバーだから、そもそも握手会なんて成立しない。そんな前提は承知の上で、あくまで叶うならという話だ。
まず、握手なんてしたいに決まってる。それに僕はいくら払えるのか?
父さんの遺産に手を付けるのは論外だから、いくらまで貯められるかにかかっている。
「まあ、ツバメくんはお金にシビアだから、真面目に考えると難しいか。じゃあ、質問を変えるね。先輩ちゃんだったら、いくら出す思う?」
「十万はポンと出すでしょうね」
これはすぐに答えられた。
カグヤ先輩のヒィたんへの熱量。そして専属モデルという仕事柄、大人よりとはいかなくても、一般の高校生よりも稼いでいる。ああ、そういえばパパ活――
思考が泥沼に足を踏み入れる前に、慌てて打ち切った。
「熱量のあるファンってね、普通じゃ考えられないお金をポンと出すの。うちのグループの握手会は基本、ファンクラブの抽選。二重登録防止や本人確認みたいな転売対策はしっかり取ってたけど……それでもオークションに出品されて、落札するファンがいたんだよね」
そんな話を思わせぶりに区切ると、ユエさんはそっと僕の手を取った。
両手を包み込むようにして、じっと握りしめる。
五秒ほどして、手を離しながら言った。
「はい、百万円」
「……百万円?」
思わず復唱してしまう。
一体、それがなんの金額なのか――わかっているからこそ、頭が理解を拒んだ。
「ツバメくんはね、今、百万円の価値を握ったんだよ」
「これが……百万円の重み……?」
握られた手をそっと見下ろす。
じんわりと残る肌の温もりに、福沢諭吉百人分の重みを感じる。
「これが、わたしの誠意」
「……誠意? ああ、そんな話してましたね」
「誠意は言葉よりも金額。誰の言葉かは知らないけど、わたしはそれを見せようと思います」
そう言うなり、今後は僕の左手を掴み取る。
指と指をするりと絡める、握手会ではありえないような親密な握り方だった。
「はい、二百万円……三百万円」
楽しそうに連ねあげていくユエさん。肌のぬくもりを通して、投げ銭でも楽しんでいるかのようだ。
これは、本当に困ってしまう。
どう困るかと言えば、男心としては悪い気はまるでしない。
満たされるものが、たしかにあった。
だからこそ、ユエさんの善意を穢してしまったような罪悪感が募る。
でも楽しそうにしている当の本人を前にすると、募っていたものは、また薄れてしまうのだ。
お互いのために、流されるようなことはあってはいけない。
「散策が終わる頃には、ツバメくん、億万長者だね」
果たして、この旅行を無事に終えられるのか。
自分の決意を信じられないまま、心配ばかりがまた胸の中に膨らんでいくのだった。




