35 自分の気持ちだけは裏切らないこと
昼休み、場所はいつもの屋上。
「ただの役得じゃねーか。なんの問題がある」
週明け早々、こうして打ち明けたわけだが、コウくんにはこの深刻さが伝わらない。
「それが問題だから、こうして相談してるんじゃないか」
「世の高校生が羨むような体験を、一人前に悩み扱いしやがって。ワカも偉くなったもんだな」
「……相談する相手を間違えた」
立ち上がろうとする僕の肩を「まあ、待て待て」と、コウくんが力付くで押さえ込んだ。
「スキンシップが激しいっていっても、一緒にテレビ見てたら肩に頭乗せてきたり、膝を枕代わりにされたり、勉強してると後ろから覗き込むようくっついてきたり。まあ、そんなもんだろ? そのくらい、可愛いもんじゃねーか。女の愛嬌だよ、愛嬌」
「そりゃ、人生経験豊富なコウくんにとってはそうかもしれないけど……僕は、彼女すらできたことないから。女慣れしてないっていうか……」
「だったらなおさら、いい機会だと思え。そういう小さなことからコツコツ経験を積んで、男ってのは育ってくんだよ」
「そんなレベル上げの相手みたいな扱い、ユエさんに失礼だってば」
「ワカだって、寂しさを慰めるクッション扱いされてんだろ。ウィンウィンだ、ウィンウィン。ここは男らしく、どしんと構えて受け入れてやれ。器の見せ所だぞ」
そう言って、コウくんは手の甲で僕のお腹を軽く叩く。
「それとも、気持ちはお姫様のほうにあるから、後ろめたいってか?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
急にカグヤ先輩を振られ、込み上がってきたものをグッと飲み込む。
あの人との向き合い方は、未だ答えは出せていない。
気持ちの整理がつかないまま、また新しい悩みが積み上がっていく。
帰り道ではカグヤ先輩。
家に帰ればユエさん。
まさに前門の虎、後門の狼だ。
ここでカグヤ先輩の話を持ち出したら、余計ややこしいことになるのは目に見えている。
それにコウくん相手とはいえ、カグヤ先輩の名誉のために、僕がみたものを語るわけにはいかない。
でも、ユエさんのことなら遠慮はいらない。
なにかあれば相談しろ、と言ってくれていたから。
「なら、結局なにが問題なんだ? ワカだって、悪い気はしてねーだろ?」
どうも僕の悩みは共感しづらいらしく、なかなか話が前に進まない。
「悪い気もなにも……よくないことは、やっぱりよくないことじゃん」
「は? よくないって、なにが?」
「それは……心の隙間に付け込むようで、よくないっていうか……僕も男だから、困るっていうか……」
自分の中にある悩みを、ぼんやりとした形で吐き出していく。
「このまま流されたら、さ……なんか、その先に、たどり着く場所がある気がして」
「セックスか?」
「うっ……濁したんだから、ハッキリ言わないでよ」
「おまえは生娘か……」
コウくんは呆れたように眉をひそめた。
「つまり、男女の関係になっちゃうような真似は、避けたいってことか?」
「……まあ、そういうことだけど」
「なんでだ?」
「なんでって……やっぱり、そうやって流されていくのって、よくないからさ」
「よくないからさ、って……そんなの誰が決めた?」
「誰がって……一般的な常識っていうか、普通、そういうもんでしょ?」
「……あのなー、ワカ」
そのとき、コウくんは大きく息をついた。
そして急に顔を引き締め、まるでこれから説法でも始めるように、真面目な声で言った。
「普通をな、物事を測るモノサシとして使うのはいい。でも、行動の理由にするのだけはやめろ」
言いながら、僕の胸を人差し指で軽く突いてくる。
「世の中はな、大人たちの言う普通をどれだけまっとうしても、結局は普通じゃないことを求められるし、普通じゃないものに振る舞わされるし、普通じゃない扱いを受ける。普通の奴が普通じゃない状況に置かれたせいで、心を壊すなんて話、いくらでもあるんだよ」
「普通、普通って……話がちょっと抽象的すぎない?」
「普通に生きてきた奴に限って、イジメやパワハラ、無茶なノルマにサビ残の餌食になって、潰されやすいってことだ。逆に、普通じゃない奴のほうが要領よく立ち回って、お咎めなしだったりする。
ワカも覚えがあるだろ? 今ここにいる理由がそれなんだから」
「……ああ、たしかに」
思い出すだけでも気分が悪くて、つい顔をしかめた。
父を亡くしたばかりの頃、普通だったら絶対に口にしないようなことを言われた。そのことで揉めたとき、教師は事情を知った上で、相手をした時点でどっちもどっちで片付けられた。
そのあと、相手が学校でのカーストが上だったから、裏では好き放題、誹謗中傷され噂をばらまかれた。
その普通じゃない奴に、因果応報が下らなかったから、僕はこの学校にいる。
「でもな、普通じゃないっていうのは、悪いことに限らない」
コウくんは続ける。
「普通じゃない発想、普通じゃない決断、普通じゃない価値観。それを持って結果を出した奴を、人は成功者と呼ぶんだ」
「たしかに。一代で財を成した人って、まさにそういうタイプだよね」
「それに普通なんて、時代でコロコロ変わるだろ。幼稚園の頃はユーチューバーなんて変人扱いだったのに、今じゃ子どもがなりたい人気商売だ」
「言われてみればそうだね」
「それにな。今のワカの環境って、普通に考えたら一番アウトだよな?」
「……それを言われると、返す言葉がない」
大人のお姉さんに拾われた高校生が、ヒモとして暮らしている。
言葉だけでも、普通に考えて許されない感が溢れている。
「それに、ワカみたいなタイプが俺と仲良くやってることだって普通じゃないし、あのお姫様に一番のお友達扱いされてる状況も、相当普通じゃない」
「そこは、誇れることだと思ってる」
僕が迷いなく言い切ると、コウくんは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「でも、お姫様との関係は、隠したままでいたいんだろ?」
「それは……ほら、周りが騒がしくなりそうだからさ」
「要するに、外野がガチャガチャうるさいのが面倒くせーから、隠してるってわけか」
「あけすけに言えば、まあ……そういうこと」
「それでいいんだよ」
自信なさげに答える僕に、コウくんはあっさりと言い、ニヤリと笑った。
「普通じゃないから、知られたら面倒くさいことになる。だから隠す。それでいい。そこに後ろめたさを感じる必要なんてない。
大事なのはな、自分の気持ちだけは裏切らないことだ」
「自分の気持ちを、裏切らない……」
その言葉が、やけに胸の奥で響いた。
「それさえわかっていれば、失敗してもいい。間違ってもいい。自分の信じた道を、好きなように突き進めばいい。
俺は親父にそう教わって、自分に恥じない生き方をしているつもりだぞ」
コウくんは誇らしげに胸を張った。
さすがこの歳で、大人たちからいくつもマンションの部屋を与えられているだけある。
呆れを通り越して、ヤバイを越えた先の「すごい」としか言えない。
自分の力で勝ち取ってきた成功者の言葉は、やっぱり説得力が段違いだった。
「だからな、ワカ。なにをするにしても、『普通は』なんて理屈は絶対持ち出すな。大事なのは、自分がどうしたいのか、その気持ちを言葉にすることだ。そうしないと、上辺、見栄えで整えた言葉に行動と感情が引っ張られて、本当の気持ちってやつを見失うぞ」
そう言ってから、もう一度だけコウくんは問い直してくる。
「今のユエさんとの関係、どう困ってるから、どうしたいんだ?」
最初に聞かれたとき、僕は普通じゃないからと、どこか他人事みたいな答えしか返せなかった。
でも今は違う。
ちゃんと、自分の気持ちとして言葉にできる。
「……お互い、恋愛感情があるわけじゃないのに、流されて恋人同士みたいなことはしたくない。あれだけ僕に良くしてくれたユエさんを、一時の感情で汚すようなことはしたくないんだ。……だから、猫がいたときくらいの距離感に戻りたい」
それが、このままじゃ嫌だと感じた僕の、正直な気持ちだった。
「理屈じゃない。感情がそう訴えかけてくるんだな?」
「うん。だからコウくん。前みたいに戻れる案とか、あったら教えてほしい」
「ないな」
「……え」
絶句した。
「あれだけ語って、頼れる感じ出しておいて?」
「仕方ないだろ。ないもんはないんだから」
きっぱりと言われて、僕はガクンと肩を落とした。




