27 向こうの気持ちはどうなんだろうね
夕食の片付けを終えると、今日一日の家事は一段落して、ようやく自分の時間がやってくる。
「はぁ……」
一人暮らしの頃と比べて、やることはたしかに増えたかもしれない。けれどそれで、自由な時間が前よりも失われたという感覚は、意外にもなかった。
むしろ、食器洗いひとつとっても、「面倒だから明日やればいいや」とならなくなった分、生活に自然とメリハリがついたように思う。
それは義務感というよりは、任されたという責任感が、自然と背中を押してくれている気がする。
「……はぁ」
そもそもバイトに行かなくなった分、自由な時間は前より増えたくらい。
この家で与えられた裁量もまた、選択肢の幅を広げてくれている。
食費も光熱費も気にせず料理ができる生活。食べてくれる誰かがいるというだけで、時間と手間をかけることすらも楽しくなった。
そして湯船に浸かり、ゆっくりと一日の垢を落とす。
これが噂に聞く、丁寧な暮らしってやつだろうか――なんて、ちょっと気取りながらも、そんな日常が心地よくなっている自分がいる。
「はぁあ……」
だからこうして、安易な娯楽に流されず、自然と机に向かって――
「はぁーーー……」
「あー、もうー!」
我慢の限界が来たとばかりの声が、リビングに響き渡った。
ユエさんはソファーの上でクッションを抱えたまま、うんざりとした顔でこちらを睨んでくる。
「……ど、どうしたんですか?」
ダイニングテーブルでノートを広げたまま、顔だけをユエさんに向ける。
「さっきから、はぁはぁはぁはぁ、ため息ばっかりしてさ。気になって映画に集中できないんだけど!」
「え、ため息? ……そんなの出てました?」
「出てた! ため息大会へ向けての練習かっていうくらい、出てた! はい、優勝おめでとう! ぱちぱちぱちー」
ユエさんは胡乱な言い回しをしながら、投げやりな拍手を送ってきた。手のひらをぱふぱふと打つだけの、やる気の欠片も感じられない音が虚しく響く。
「そんな優勝を祝われても……」
僕は困ったように眉尻を下げながら、ノートの上にそっとペンを置いた。
ため息をしていた自覚なんて、まるでなかった。その無自覚さこそが芸術展の高さに直結し、審査委員長の琴線に触れたのかもしれない。
「はい、ここ」
ユエさんはソファーの隣をポンポンと叩いて、促すような視線を投げかけてくる。
まるでこれから先生にお説教を受ける生徒のように、恐る恐るその隣に腰を下ろす。
「なにかあったの?」
ユエさんは核心を突くように尋ねてきた。
「お風呂に入るまでは、そんなため息なんて吐いてなかったよ?」
「……やることがある内は、無心になれたっていうか」
「それが一段落したら、色々考え込んじゃったって感じ?」
「そういうことなんだと……思います。はぁ」
これぞ優勝者の貫禄とばかりに、自然とため息がこぼれた。
たしかに、さっきまで教科書を開いていたけれど、目は文字を追うだけで、内容はひとつも頭に入っていなかった。
思考のすべては、あの人の顔で埋め尽くされていて、どう頑張っても勉強に集中できる状態じゃなかった。
「もしかして、例の先輩ちゃんのこと?」
「……はい」
ズバリ指摘されて、僕は観念したように頷いた。
「パパ活の件で、なにかわかったこととか、変わったことでもあったの?」
「むしろ……まったく変わってないっていうか。変わったのは、僕のほうの受け取り方で……なにもなかったかのように、接することができなくて」
「それが態度に出ちゃって、感じ悪いよとでも言われちゃった?」
「そこは推しの件で元気がないって、勘違いしてくれました」
「あー、例の陰謀論のね」
ユエさんは納得したように軽く頷いた。
「で、表面上の付き合いは変わらないけど、一方的にギクシャクしちゃってる。そこを悩んじゃってるってわけか」
「……はい。今日もカグヤ先輩、わざわざ僕と話すために……遠回りになるのに、同じ電車に乗ってきてくれて。話している間はすごく楽しいんです。でも、どうしてもぎこちなさが出ちゃって……それがまた、罪悪感になって……はぁ」
「そして幸せがまたひとつ、逃げていく、と」
ユエさんは茶化すように言いながらも、表情はいたって真面目だった。
「遠回りって言ったけど、その子の家、どこなの?」
「池袋です」
「池袋かー。一応、うちの駅からはすぐだね」
「はぁ……そうだ、プレゼントのお礼、伝えるの忘れてた」
「プレゼント?」
「誕生日にサプライズで渡すはずだったって、財布を頂いたんです」
「財布を頂いたー?」
ユエさんは驚き混じりに声を上ずらせて、怪訝そうに眉をひそめた。
「……ツバメくん、その財布、ちょっと見せて」
「え、なんでですか?」
「いいから早く。ほらほら」
膝上のクッションをパンパンと叩きながら、急かしてくるユエさん。言葉と態度とは裏腹に、その真剣な様子に引っかかるものを感じながらも、言われるがまま部屋から財布を持ってきた。
「これですけど」
「はい、拝見するねー」
ユエさんは丁寧に財布を受け取ると、そのまま静かに品定めを始めた。
ファスナー付きの黒い長財布。
カグヤ先輩と同じブランドの財布とは聞かされていたが、ブランドや品質の良し悪しに疎い僕には、それ以上のことはさっぱりわからない。
ただひとつ言えるのは、ずっと愛用していたもの――小学生の旅行のときに買った、折りたたみのマジックテープ財布とは、比べ物にならないということだ。あれはあれで、鎖でズボンに繋げるから便利なのだが。
「えぇ……嘘でしょー。いやいやいやいや……うーん、これは……」
財布を念入りに見ながら、ユエさんが渋い顔で意味深に呟く。
その表情に、僕の中でじわじわと不安が募っていく。
落ち着かない気持ちでそわそわしていると、
「ツバメくん……」
ユエさんが半ば呆れたような、そしてどこか疑うような声で、じっと僕を見つめてきた。
「その先輩ちゃん、本当にただの友達なの?」
「……どういう意味ですか?」
「これさ、高校生がただのお友達に渡すようなプレゼントじゃないよ」
「……一応、一番の扱いはしてくれてますけど」
「ふーん。出会って、どのくらい?」
「去年のゴールデンウィークから……です」
「じゃあ、長年の友達ってわけでもないわけだ。それで、これ?」
ユエさんは財布に視線を落とし、再び眉をひそめる。
「な、なにか問題でもあるんですか……?」
「この財布、一万、二万じゃ利かないよ。わたしも詳しいわけじゃないけど……最低、三万からだね」
「三……!?」
返された財布を危うく落としそうになり、慌てて胸に抱え込む。
そんな高額な誕生日プレゼント、家族からだってもらったことがない。それを、ただのお友達から?
さっきまでのユエさんの渋い表情の意味が、今になって理解できた。
「ツバメくんはさ、先輩ちゃんを憧れの人として、あくまで線引きしてきたつもりなんだろうけど――」
ユエさんはそこで言葉を区切ると、じっと僕の顔を見つめた。
「実際のところ、向こうの気持ちはどうなんだろうね」
まるで、人の気持ちに鈍感な男を見ているかのように、ユエさんはため息まじりに目を細める。




