26 アニマルセラピー……?
クラス替えというひとつの山場を越してしまえば、後はいつもの学校生活が待っている。退屈とまでは言わないけれど、一年を過ごしたこの学び舎にはもう目新しさはなく、そこにいる二年生にも、初々しさなんてものは残っていない。
部活動に励んでいれば、新たに入ってくる新しい風が、日常に変化をもたらしてくれるのかもしれない。でも、帰宅部の僕には縁遠い世界の話だ。新年度最初の一週間が過ぎても、若井先輩と呼ばれる機会は一度もなかった。
二年生になっても、学校生活はあまり代わり映えがしない。それを寂しいと思うことはなかった。むしろ、何事もなく今週を終えられたことに、ホッとしている自分がいた。
――まあ、帰宅後も気持ちを引きずるようなことが、なかったとは言わないけれど。
「ただいまー」
「あ、おかえりー」
大人のお姉さんにヒモとして養われている、という問題とはまた別の問題である。
そしてこうして帰ってみれば、問題とはまた別の問題、とは関係ない更なる問題がこの家では発生していた。
やけにくぐもった声に出迎えられたと思ったら、ソファーの上には、あられもない姿のユエさんが横たわっていた。
「……なにやってるんですか?」
「アニマルセラピー」
まさか、なんのためらいもなくそんな横文字が帰ってくるとは思わなかった。
アニマルセラピーといえば、動物との触れ合いを通じて心や身体の状態を改善し、精神的な安定や、ストレスの軽減を図る行為――のはずだった。
仰向けになって、子猫を顔に乗せているこの光景が、それに該当するかは……正直、かなり怪しい。
「アニマルセラピー……?」
僕が怪訝な顔を向けると、ユエさんが子猫を抱き上げながら、ゆっくりと上体を起こした。
「もしかしてツバメくん、猫吸いをご存知ない?」
そう言って、再び子猫のお腹に顔を埋める。
「こうやってやるとね、ダイレクトに癒やしがキマって、幸せな気持ちになれるんだよ」
「キマるって……そんな薬物みたいに」
「たしかに依存性はあるかもね。でも反社の資金源になるわけじゃないし、誰にも迷惑はかけないよ」
「少なくとも、子猫に迷惑かと」
「迷惑じゃないよねー?」
ユエさんがそう顔を覗き込むと、子猫は「にゃー」とだけ鳴いた。
たしかに嫌がってる素振りには見えないけど……。
判定に悩んでいると、ユエさんが差し出すように子猫を向けてきた。
「いいから、ツバメくんも一度やってみなよ。病みつきになること間違いないよ」
「……まあ、そこまで言うなら」
渋々――そんな雰囲気を装いながら、僕はそっと子猫を受け取った。
猫吸いをご存知ないかと言われたが、もちろんご存知である。
元々、ペットへの憧れがあるのだから、その手の動画を沢山見漁ってきた。それで猫吸いを知らないわけがない。
『本当にいいのか?』
と無言の眼差しを向けると、子猫はすべてを受け入れるかのように「にゃー」と甘えるように鳴いた。
もう、迷いはなかった。
僕はそのふわふわのお腹に顔を埋めた。
――あ、やばい。
顔を埋めた瞬間、あらゆる思考が停止して、柔らかさと温もりに全神経が持っていかれる。
ふわふわの毛、ぷにぷにのお腹、じんわりと伝わる子猫の体温。
無意識に湧く、言語化しきれないストレスも、焦りも、悩みも、全部どこかへ流れていく。意識のすべてが、この癒やしに向いている。
脳髄から多幸感が溢れ出て、麻酔でも打たれたかのように世界が静かになっていく。
音が遠のき、時間の流れが鈍る。
まるで現実そのものが柔らかくなったような感覚だ。
ふわふわの毛並みに、ゆっくりと呼吸する小さな命のリズムが重なって、僕の心拍まで優しく整えられ――
「ツバメくん」
「…………」
「ツバメくーん。ねえ、ツバメくんったら」
「……」
「ふぅー……」
「……はっ!」
甘ったるい風のような感触が耳の奥をくすぐり、肩がビクリと跳ねた。
反射的に顔を向けると、目の前には息を吹きかけた張本人――ユエさんの含み笑いがあった。
「な、なにするんですかいきなり!?」
「だって、いくら声かけても返事しないんだもん」
「え、ほんとですか?」
「ほんとほんと。完全にキマっちゃってたね」
そんなはずは……と思いながらも、さっきまでの記憶が曖昧で否定できない。
「いやー……自覚がないだけに、逆に怖いですね」
「そんなによかった? わたしとの間接キスは」
「はっ!?」
予期せぬ角度からの指摘に、顔がカッと熱くなっていく。
……そうだ、たしかこのお腹には、直前までユエさんが顔を埋めていた。
ほんのりあったかい感触を思い出した瞬間、生々しさを感じ、それを振り払うようにかぶりを振った。
「そ、そういうつもり、ないですから!」
「ツバメくんはむっつりですねー、ろーちゃん」
ユエさんはニヤニヤとしながら、子猫をひょいと僕から取り上げた。
「誰がむっつりです――」
そう言いかけて、耳にひっかかった名前に言葉が止まる。
「ろーちゃん? 名前、決まったんですか?」
「うん」
子猫に顔を近づけたユエさんは、頬をべろりと舐められて、くすぐったそうに片目をつぶった。
「この子の名前はロープ。略してろーちゃんです」
「ロープって……」
子猫までもヒモ扱いするのか、この人は。
……いや、別に構わないのだけれど。
ろーちゃんを家族として迎え入れて、その一生に責任を持つのはユエさんだ。
名付けられた当の本人――いや、本猫がその意味を理解していない以上、傷つくものも、不幸になるものもいない。
ユエさんがその名前に納得して、満足しているのなら、僕が口を挟む理由はもない。
「どう、可愛いお名前でしょ?」
「あだ名で呼ぶ分にはね」
軽口を返しながら、ろーちゃんの顎を人差し指でくすぐる。
「でも、名前をつけたら、いよいよこの家の家族って感じがしますね」
「うん。やっぱり名前って大事なんだなって、付けてみて改めて思った――わっ」
どうやら、いつまでも抱っこされているのは窮屈だったらしい。
ろーちゃんは大きく身体をくねらせると、するりとユエさんの腕から抜け出して、床に着地した。そのままぴょこんと跳ねるようにリビングを駆け回り始める。
元気いっぱいなその様子を、ユエさんは微笑ましそうに眺めている。
――名前をつけると愛着が湧く。
そして愛着が湧くからこそ、離れがたいものになる。
昨日よりも離れがたい存在になったばかりの、ほんの少し先。遠くないというには近すぎる未来で、別れが来ることになるなんて。
このときは欠片も思わなかった。




