↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ANNA  作者: 神崎 銀
PR
76/76

エピローグ


 珍しく連休なんて取って里帰りをし、ようやく帰って来たと思ったら、いきなり彼女は「結婚したい」と言い出した。

 こちらとしても、里帰り前後にはそういう気分になりがちだというのは事前に周囲からアドバイスをされていたので覚悟はしていたが、本当に、それもいきなり、そう言われるとは思わず正直驚いた。とは言え、彼女もいわゆる〝適齢期〟に差し掛かった訳だし、ただでさえ愛情に敏感で、お花とドレスと宝石と子供が好きな、女の子らしい彼女のことだ。いつ夢見ていたっておかしくないのに、今の今まで一言も口にしなかった事の方が不思議だったくらいだ。

 そんな彼女の気持ちをしっかりと受け止めてあげたいと思い、真摯な気持ちで、その場でOKの返事をした。

 目を閉じて頷き、もう一度見つめ合った刹那。待ち構えていた無邪気な笑顔の彼女は、目の前に茶色い紙を差し出していた。

 婚姻届と言うものを初めて見た。予想以上に質素な紙だった。いざ目の前にすると気が引き締まる思いがする。

 思えば十余年、一緒に居た。

 せっかくなのだから、ここは夢見る可憐な黒髪の乙女らしく、まずは花束のひとつもねだればいいのに。頭の良い彼女は昔からしばしばこういう所がある。考えてから行動するまでが人よりどうも早くて、意欲的を通り過ぎて年々せっかちになっている気さえする。そして、のんびり屋の僕は時々置いてけぼりを食らいそうになる。

 そういう所もちろん嫌いでは無いし、それも彼女の魅力ではある。

 明日死んでも後悔しないように精一杯今日を生きて来た彼女が、今未来を望もうとしている。

 それは僕にとっても大きな一歩だった。

 僕だって考えた事が無いわけでは無いが、まさか向こうにその気があっただなんて少し申し訳無い気持ちになりながら、走馬灯のように脳裏に浮かぶ思い出の数々と、沸き立つ気持ちに冷静に向き合おうと、しばし息を止め、目を伏せる。





********



 彼女と僕が出会ったのは、当時ソーシャルワーカーとして、親が経営する病院で働いていた時だった。 

 その頃彼女は自分の存在が大層嫌いで、自分の名前も家族も、母国語さえも忘れてしまい、自宅に火を放とうとした所を取り押さえられてやって来た。

 身体は小さくて痩せっぽち。長い髪は栄養も足りていない上に自分で弄ってちぎってしまってボサボサ。食べる事を嫌がり、水分さえも口にしない日が何日も続いて、点滴で命を繋いでいた状態だった。

 もちろん生まれつきそうだった訳では無く、それまでは公立の小中学校に通い、勉強も出来るし友達も居て、休みの日にはおしゃれをしてお出掛けするのが楽しい、ごくありふれた真面目な女の子だった。それが、楽しいはずの夏休み中、悲惨な事件に巻き込まれてしまってからというもの、まるで抜け殻の様になってしまったのだという。

 彼女は何も悪い事などしていないのに、とても怖い目にあったのだ。彼女の平和な人生の中で、一番起きてはいけない事が起きてしまったんだと、はじめに伝え聞いた曖昧なその話だけで十分理解した。

 最初はとにかく生命の維持を目的として保護し、互いに落ち着いたら両親の元へ帰る約束だったが、最初の一週間のうちに彼女は三回も死のうとした。

 生きているのが嫌になったとか、希望を見出せ無くなったとかそうではなくて、本当に、純粋に死にたがっているように見えた。

 彼女の願いはたった一つだったのに、誰も叶えてやれなかった。僕はそれが悔しくてたまらなかった。


 

 高校一年生の夏休み、彼女は住み込みで働いていた飲食店の入ったビルで、大規模な火災に巻き込まれた。

 原因は放火によるもので、隣り合った五軒が焼かれ、内三軒が全焼した大きな事件だった。

 彼女の居た建物は店舗兼住宅で、一階のバーはつい数時間前までお客を入れていたような朝方の事件だった為に住人達の殆どは眠ったまま煙に巻かれた。救助された人間の中で一番最初に目を覚まし、口がきけたのが彼女だった。だから周りの大人たちは、何が起きてどうなったか彼女に教え、彼女の口から、更に詳細な事実を聞こうとした。これは後々わかった事だが、元々人のためになる事ならば、その身を削ってでもやってしまう責任感の強い子だ。できる限りの事を思い出し、話し、そして壊れてしまった。


 住み込んで居たのは夏休みだからではない。あの場所は、彼女が自宅から少々離れた高校へ通うために生活の拠点としていた第二の我が家で、家族が居た。高校に通う前からお客としても出入りしていて、従業員達とは仕事以外の交流もあり、その中で彼女はとても大切にされていた。

 そんな幸せの象徴が、一晩のうちに無くなってしまったのだ。

 奇跡的にほぼ無傷だったけれども彼女は完全に被害者で、偶然居合わせた可哀想な子供で、巻き込まれた他人だった。彼女だけが、そちら側に行けなかった。

 当時の彼女にとってそれは、事件に巻き込まれたという事実よりも、辛い現実だった。

 その日から、自分は幸せになってはいけない、生きている事さえおこがましいと思い込み、手を縛っても足を縛っても、自力で昏睡に至るまでただ息を止めて死のうとするような子になってしまったという訳だ。 

 そんな状態の彼女を「生きろ」と支えてやる事は容易では無かった。しかし「ならば死のう」とも言えないのがこの国の掟であり、家族であり、僕の仕事でもあった。

 

 自宅にまで火を放とうとしたと言うのだから、一緒にしておけば家族が危ない。それだけでは無く、そんな子を一瞬も目を離さず監護する事は、一般家庭では到底無理な話だ。

 だから「私たちを助けてください」と頼まれ、僕達は手を組んだ。

 内面的な障害を抱えた人間に対する世間の目は未だに厳しい。そのせいで、実際に困っているのに困っていると言えないでいる人は多く存在する。恥ずかしいこと、おかしい事として、自分自身の事でも受け入れられない人も少なくない。この家族もそうだった。だからこんな手遅れの寸前まで来てしまった。

 手をかけ過ぎてもいけない、期待し過ぎてはいけない、嫌われないよう、負担の無いよう育てて来た可愛い末娘。その意図を汲んだように、彼女は健康でなんでも一人でできる良い子に育ってくれ、信用しているからこそ何不自由なく与えてきたはずなのに、ここに来て全く違う誰かになってしまった事は、ご両親も受け入れ難かったと思う。

 もちろん彼らは彼らなりに、これまでの子育てで学んできた事を踏まえ、自分達の生活を守りながら精一杯を尽くして来たのだから、責めている訳では無い。誰も悪くない。放っておいては互いに傷つけ合い、歪み合い、最悪の事態だって考えられた。その時が来てからでは遅いのだ。お互いのために離れるべきだった。

 そもそもこの家族には、彼女を支えてやれるだけの技量も環境も、彼女が生まれた時から整っていなかった。

 家族揃って食卓を囲む、困った時は手伝ってもらう、感情を共有する、好きなものの話をする、そういったごく当たり前のことを、彼女は知らないまま大きくなった。自分はうっかり生まれて来てしまったから、生んでくれた事に感謝して、家族のためになるべく迷惑かけない様に自分がしっかりしないといけないと、物心ついた時から彼女の根本はそこにあった。彼女はちゃんと愛していたんだ。自分に対して、最低限の干渉だけを望む家族の中で、それが愛なのだと信じて返そうと努力し続けてきた。

 暴力を振るう事だけが虐待では無い。大人の思い通りに躾けることが教育では無い。衣食住を満たすことだけが育児では無い。反抗しない子が育てやすい子とは限らない。

 周りを見て、人の話を聞いていれば、なんとなくみんなと同じような事が出来るようになるものだから、それを見て人は安心してしまう。出来ると思うとどんどん手が離れる。目も離れる。信頼する人間には背中さえも向けられる。親が無くても子は育つけれども、子が居なければ親にはなれないのに、その事実に誰も気付いて居なかった。

 恐ろしい無意識と無自覚。

 気付けていなかったのだから、誰も責めることは出来ない。悪気も無い。誰のせいにも出来ないことは、悲しい事に誰にとっても辛い事だ。

 誰にでも間違いはある。間違えた時は、一度戻って他の方法を考えたり、その場から動けなければ違う方向へ向かってみるだろう。

 彼女は先にその〝間違い〟に気付き、無かったことにしようとした。

 それが、彼女が取った行動の、全ての理由だった。

 だから僕は、彼女が愛した家族を守るために、彼女の側を離れない事を決めた。彼女の生きる意味であった〝家族〟になることを決めた。彼女が受けるべきだった愛を一から全部教えなおして、決して離れることのない誰かであり続け、安心して眠るために帰る場所になり、彼女が教えてくれた、彼女の望んだ家族になろうと決めたんだ。


 彼女が成人した時「やっと肩の荷が降りました」という言葉を頂いて、僕は救われた。

 僕もだった。

 やっと、本当にこの家族から離してやる事が出来ると、安心した。





*******



 そんな君が、自ら家族を求められるようになった事が、僕はとても嬉しい。




 冷静になってよくよく眺めたら、「夫になる人」の欄はすでに埋まっていた。


 こんこんと急かすように、整えられた爪が保証人の欄を示す。

 僕の為に残されたその空白以外はもう全て埋まっていて、この事実を知る人間はもう僕以外にもいる上に、一番後回しにされた事に気付かされ、なんだか少し寂しくなった。

 彼女の好きそうなドレスも、指輪のサイズも、喜びそうなシチュエーションも網羅して、なんなら式の途中のサプライズ演出だっていくつか浮かんだのに保証人ですか、そうですか。

 彼女の夫となる人は『藤原悠生』と言うらしい。

 ああ、なんとも良い名前だねえ、長生きしそうじゃないか。それが一番良いよ小憎たらしい。なんてたって彼女の結婚相手の第一条件は「自分より長生きしてくれる人」だ。

 知らない人間では無いので、彼の経済力も性格も理解しているし、心配も不満も無い。ご本人様もさぞ乗り気だったろう。なんてったって奴(・)は、中坊から彼女に憧れて、彼女に振り向いてもらう為にこの業界に足を踏み入れ、彼女のおかげで今をときめくヒットメーカーになったような人間だ。どっちが言い出したか知らないけどお似合いだ。しばらく仕事が尽きない呪いをかけて、一生つつき回してやろう。夫婦喧嘩でもしようものなら敵陣から角砂糖を投げ付けてやる。



「おめでとう」


「ありがとう」



 なるべく綺麗な字で自分の名前を書き、判を押す。

 その薄っぺらい紙切れを手に入れた彼女は、僕の知らない顔で、幸せそうに笑っていた。


「良かったね」

 本当に、良かった。



「お幸せに」



 君はもう、十五の時には自分を取り巻く異常に気付いていた。自分の育った環境が、自分が目指した「みんなと同じ」「普通」では無かった事に。それでとても困って、悩んで、でもきちんと助けてくれる人を見つけて手を伸ばす事が出来た。

 あの街で、十五歳の『君』は幸せに生きていたんだね。

 泣いて、笑って、恋をして、焦って、悩み、それでも前を向き、繊細で多感な十代を有意義に生きていた。

 大人が聞けば「なんでそんなこと?」と思うような事に躓いて、本気で傷付く。経験した人からしたら過ぎた事かもしれないけれど、当事者にとっては人生で初めて出会す一大事をいくつも経験する。戦争で親を失った子供や不治の病と闘う人と比べられても、全然パッとしないくらいの絶望の淵に何度も立たされる。そんな事が、十代では毎日のように起きる。

 そんな時、側にいて否定せず、一緒に悩んでくれる人が居た。

 深く交わる事を恐れる君を、全て包んで守ってくれる場所があった。

 幸・不幸の度合いなんて、人によって大きく違うものだ。今日を生きるお金が無いのにハッピーな人も居れば、給食にブロッコリーが出ただけで絶望する人だって居る。それをちゃんと理解して、彼女が感じている事を全て正しいと認め、同じものさしで感じようとしてくれた人が居た。

 初めてを一緒に経験し、自と他を認識し、嬉しい時には嬉しいと、悲しい時には悲しいと、訴えて共有出来る相手が居た。

 それを一度なくしてしまったから、君はあんなに取り乱した。

 でも、もう大丈夫だね。


 言っただろう。

 君には愛される才能があると。

 それは君が人の好意に敏感で、向けられる好意を最大限に引き出すことができるからだ。

 愛を向けたら向けただけ、君は幸せを表現してくれる。

 与えた側が幸せになれるくらい大切にして、精一杯返してくれる。

 それが君の最大の魅力で、最強の武器だ。

 彼はそんな君を心から大切にしてくれるし、どんな君でも愛してくれる。

 決して離れて行かない。頼んだって無理だろうね。

 だってそれが〝約束〟なんだろう?


 ずっと君を愛してたよ。

 そしてこれからも、変わらず君を愛しているよ。


 君の生きていく新たな人生の一歩に、僕の名前が刻まれた事を誇りに思う。






(株)Royal works  代表

  貴崎 高嶺

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。