共同生活
ハルがユリと出会ってから四日ほど経った。
ハルは居候するつもりなどなかったのだが、ユリがハルを引き留めた。
助けてくれた礼として、声が出ぬことの心配として。ハルからすると、もう二度と出会えると思わなかった人間に感謝こそすれ、拒む理由がなかった。
ダンジョンを進むという目的はあるが、ダンジョンの扉は見つけられていない。また、体の変化も理由が判明しない。
扉が消えたことも、体についても、ハルには全く心当たりがない。今まで数えられないくらいにダンジョンの階層を進んできたが、今回のようなことは初めてだ。
いっそ、死後の世界だと言われた方が納得できる。年老いた剣士が一人、ダンジョンの中で死んだのだと。
ただ、そうするとダンジョンで使ってきた道具が手元にある理由も分からない。結局、何もかもが分からないので、現状維持のためにハルはユリとの生活を送っていた。
たった四日だが、森の探索は充分に進んだ。結論としては、なんの変哲もない森、である。
土がある、木がある、果物もあって、獣もいる。はるか昔の故郷そのままだった。
その代わりに、ダンジョンで見かけるような怪物はどこにもいなかった。意地の悪いトラップも、何に使えるかも知らぬ植物も。
ダンジョン慣れしたハルには、拍子抜けするようなくらいに平和な森である。唯一、何かあるとすれば、ユリが言う守護の結界だろうか。
森の木々のいくつかに、見たこともないような文様が刻まれていた。祝福というものらしい。
ユリの、亡くなった父が刻んだものだという話だ。ハルには感じ取れない不思議な力で、人間や獣が寄り付かないようになっているという。
なぜそのような仕掛けがあるのかは、尋ねなかった。ただ、
「最近、祝福の効き目が弱くなっている気がして……」
というユリの言葉が気にかかる。
父や母と住んでいた頃とは、森の事情が変わっているらしい。
以前は安心して暮らせていた森なのだが、最近は大きな獣が現れるそうだ。実際、ハルも何頭か見つけ、追い払っている。
先日、ユリが襲われていたのも、結界が弱まったせいだそうだ。結界を確認しに行った際に、遭遇してしまったらしい。
気になる話であった。獣ならば追い払うだけだが、人間が相手となるとどうなるか。
ハルは、今の場所に来て、ユリ以外の人間を知らない。知っているのは、記憶に残る家族と、ろくでもない連中ばかりである。
相手が善良だったとしても、ハルには手が出せない。声は、まだ戻っていない。下手にもめると、ユリに大きな迷惑がかかる。
そのため、ハルは森の巡回を日課にした。ただの森ならば、ダンジョンを巡るよりもはるかに簡単だ。
幸い、人間にはまだ出遭っていない。獣を追い払い、たまに仕留めて食事にしている。
ユリとの初めての食事が葉物ばかりだったのは、ユリに狩りができなかったという理由からだった。狩りは父親に任せていたらしい。
なので、その役をハルは引き受けた。巡回ついでに野ウサギなどを仕留め、食事の足しにした。
様々な状況を受け入れ、ゆっくりと馴染んでいくこと、さらに十日。
ハルがやってきてから二週間が過ぎようとしたところで、問題は起きた。
その日、ハルは道具の手入れをしていた。
道具といっても、ダンジョンで使っていた武具ではなく、ユリの家にあった農具だ。
小屋の近くには小さな菜園があり、そこでいくつか野菜を育てていた。小柄な農具で事足りるほどの小ささながら、二人分の食事を得るには貴重な場所だ。
ハルには作物を育てる知識はない。その代わりに、道具を手入れして、ユリが使いやすいよう調整している。
そんなさなかに、声は聞こえて来た。
悲鳴、それはいつか聞いたものそのままだった。
研いでいた鎌を握りしめて、ハルは走った。声の主は言うまでもない。木々の隙間を走り抜けて、一直線にユリの元へと向かう。
たどり着くと、そこには三人の人間がいた。
ユリと、見慣れない屈強な男が二人。
木の影に隠れて様子をうかがう。
男の片割れ、弓を持つ方が、ユリの方を掴み捕えている。ユリは必死に振りほどこうとしていたが、いかんせん力が及ばない。
「なんでこんなところに子供がいるんだ?」
子供を捕まえる大人、という構図に、ハルは過去を思い出す。思わず切り込みそうになるが、男たちに敵意は感じられなかった。
「おいおい、お嬢ちゃん、なんでこんな森に……。っていうか、こんなところに森なんてあったか?」
槍を持つ方は、ユリをなだめようとしていた。
男たちは、首をかしげていた。単に戸惑っているだけらしい。
「は、離してっ!」
むしろ、感情が高ぶっているのはユリの方だった。男たちに怯え、逃げようと涙ながらに叫んでいる。
「ハル! ハルさんっ!」
「お、おい、お嬢ちゃん、何もしやしないって……」
このままではらちが明かない。ハルは一歩目から全力で踏み込んだ。
木の裏側からすべるように、身を低くして影のように。ユリを掴む手をほどき、少女の体を抱えて飛びずさる。
「え? あ? あ、おい!」
ハルがユリを取り戻してから、男たちはこちらに気づいた。
「白髪の……坊主か? お前たち、なんでこんなところにいるんだ?」
ハルの芸当に気づいて、男たちはこちらをいぶかしむように見てきた。
ユリは、ハルの背にしがみついていた。話ができそうにはない。そしてハルも、事情を説明できない。
荒事にはしたくない。さりとて、逃げるだけでは、追ってこられてしまう。
ハルが考えあぐねていると、男たちは諦めたように、仕方なさそうに態度を変えてきた。
「なあ、事情が分からんので教えてくれないか。俺たちは見たことがない森があるってんで調べに来た冒険者なんだ」
「ああ。別にこの森に何かしようってわけじゃない。お嬢ちゃんには、まあ、悪いことしちまったのかもしれねえが」
弓と槍、両方ともばつがわるそうだ。
説明するなら、今しかないだろう。
ハルは、怯えているユリの肩を抱き、ゆっくりと落ち着かせてやる。大丈夫だから、と何度も背中をさすってやる。
「ハル……さ」
まだユリの瞳は涙で潤んでいたが、ハルは自分の口と、男たちを交互に指で示す。
「ぅ……」
説明して欲しい、という思いが通じたのか、ユリがゆっくりと口を開く。
「あ、あの、私たち、この森に、住んでいて……」
「森に……?」
弓の方が、驚いたように口を開けた。
「あまり、人が来ない場所だから、私、驚いて……」
「あ、ああ、そうだったのか、そりゃすまないことをしたな」
槍の方は申し訳なさそうに頭をかいた。
「こちらも、すみませんでした。私は人が苦手で……。この人は、声が出せなくて……」
うなずいて、ユリの言葉を肯定する。
男たちは、また困ったように顔を見合わせた。
「なあ、お嬢ちゃんに坊主。なんだって子供がこんなところに住んでるんだ? それに、この森は近くに村があるってのに、誰にも知られてねえ不思議な場所だ。何か事情があるなら、手を貸してやんぞ?」
男二人は、悪い人間ではないらしい。ユリやハルの姿を見ても、きちんと話を聞いてくる。
ハルも事情が分かり、説明できるならば男たちに同意してやりたい。ただ、ユリは小さな声で、何かを呟いていた。
「祝福・幻惑。この人たちを眠らせて」
ユリに意味を訪ねようとした時だった。男たちが、急に崩れ落ちた。
思わず身構える。それをユリがやんわりと抑え、
「あの、事情、聞いてくれる?」
ハルの腕を抱きしめながら、言ってきた。