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第十ニ話




 週半ばの夜十時半。残業を終えて帰宅する海貴也は、賑やかさの山場を越えた駅のホームで電車を待っていた。

 ホームを駆け抜ける夜風が、頬の熱を拐って行く。気温が一桁台にまで下がり、早く帰って熱い風呂に浸かりたくなる。

 乗車位置目印の番号の前で一人佇みながら、海貴也は一日を振り返って浅く溜め息を吐いた。


〈今日は、先輩たちからダメ出しされまくりだったなー。まぁ、流石にオレのが通るとは思ってなかったけどさ〉


 実務を任される前、海貴也も現在依頼されている案件のデザインを考えてみては?と、坂口から思いがけないチャンスをもらった。海貴也は意気込んで取り組んだが、デザイン案が通ったのは何年も経験を積んだ先輩デザイナーの方だった。

 恐らく、最初から採用するつもりはなかったのだろう。少しでも経験を積んでもらおうと、提案したのだ。おかげで、経験者と比べてまだまだひよっこだという現実と、プロとして活躍する日はまだ遠いと実感した。


「帰ったら、自分なりに練り直してみよう」


 今回のチャレンジの学習を心に刻み、明日からまた手伝いをしながら積極的に案件に関わっていこうと、次の機会への力にした。

 海貴也はバッグからスマートフォンを取り出そうとし、一緒に出たパスケースを落としてしまった。気付いて手を伸ばしかけると、通り掛かった人が気付いて先に拾ってくれた。


「あ。ありがとうございます」

「いいえ。……って」


 お互いに手を出して顔を合わせた途端、二人して「あっ」という表情をした。パスケースを拾ってくれたのは、何時もの深緑色のダウンを着た私服姿の恭雪だった。


「えーっと……。佐野だっけ」

「こんばんは」


 海貴也が会釈して挨拶すると、恭雪は「おう」と軽く返し、そのまま海貴也の後ろに並んだ。

 何で後ろに並ぶんだろうとちょっと不思議だったが、何処に並ぼうが自由だし、何でここに並ぶんですかと言って不満そうにされても嫌なので黙止した。けれど、色んな意味で気まずい。

 後ろの恭雪は、並んでから話し掛けてこない。そろりと背後を見ると、メッセージのやり取りに夢中になっているようだ。スムーズにフリック入力している。


「……仕事、残業だったのか?」


 文字打ちをしながら恭雪は話し掛けてきたので、少しギクリとしながら振り向いた。


「え?……はい。そうです」

「お疲れさん」

「……どーも」


 会話はたったの二往復。まぁ、友達でもないし大して仲も良くない。寧ろ、知り合ったばかりで打ち解けられていない相手だから、会話が二往復で終わっても仕方がない。しかもこの前と違い、海貴也には興味がなさそうな素振りだ。でも微妙な空気感が、海貴也を居心地悪くさせた。

 暫くして、ホームに下り電車接近の放送が流れる。駅員からのアナウンスもあると、右側から白い発光のあとに、シルバーボディーの車両が入って来た。目の前でドアが開き、人が降りきるのを待ってから乗り込む。

 この時間になると、そんなに乗っている人はいない。座席にも余裕で座れる。海貴也は、長い座席の真ん中辺りに座った。すると、恭雪が海貴也の左隣に座ってきた。離れた座席に行くと思っていたが、連れのようにごく自然に海貴也の隣を選んだ。


〈他にも席空いてるのに……〉


 ドア付近に立つ人もいるが、座席にはポツポツと空席もある。気が変わってそっちに移動してくれないかなと密かに念を送るが、特殊能力は微塵も持っていないので、一秒で諦めた。

 発車ベルが鳴り響き、人々を乗せた電車は走り出す。スローモーションでホームが横へ流れ始めたと思うと、あっという間に暗闇に飛び込み、建物の間を滑り抜ける時にはホタルほどの明かりが流星になった。

 隣同士で座った海貴也と恭雪だが、どちらからも会話のきっかけは生まれない。気にする必要はないと思った海貴也だったが、段々会話がないのが不自然のように錯覚してきた。

 そして、とうとう沈黙に堪えられなくなり、根負けしたかたちで自ら恭雪に話し掛ける。


「あの……。今日は、お店は休みなんですか?」

「え?…いや。休みじゃねーよ。用事があったから、従業員に任せた」


 恭雪の視線は最初の一瞬だけチラッと海貴也を一瞥いちべつして、またスマートフォンに戻った。


「何処に行って来たんですか?」


 恭雪が足元に置いている荷物は、リュックサックとスーツ一式が入ったガーメントバッグの二つだけだ。少ない荷物からして、泊まりではなさそうだった。


「あぁ。専門時代の同期が店出して、そのプレオープンに招待されたから神戸に行って来た」

「神戸ですか。日帰りで?」


 恭雪は手元から視線を外さずに、「そう」と簡潔に一言返す。


「何か、招待されるってカッコイイですね」

「そんなことねーよ。別に華やかなもんでもないし。狭い店に人がいっぱいいて窮屈だし。店の食いものが無料ってとこだけは、利点だけどな」

「それに神戸って響きも、高級感がある感じがして憧れます」

「それ、芦屋だけのイメージじゃね?別にフツーだよ。フツー」


 この前のと違う雰囲気で、今日の恭雪に嫌な印象はなかった。あの時感じたものは気の所為だったのかもと、何となく彼に持っていた苦手意識が後退していく。

 会話が一区切りすると、海貴也は手の中のスマートフォンの振動に気付く。一緒に仕事をしている十歳くらい年上のプロデューサー職の先輩から、メッセージが届いた。


 「今日ダメ出ししまくったけど、へこたれんなよ。イメージは悪くないから。お前なら良いものが作れる。頑張れよ」


 会議の時に少し厳しく指摘されて浅く心が抉れていたが、励ましの言葉は海貴也の心に浸透した。すかさず、感謝の気持ちと意気込みを送り返した。

 恭雪の方にも、新しいメッセージが届いた。神戸に出店した同期からの、今日のお礼文のようだ。しかし、恭雪は目を細めるとそのメッセージを無視して、スマートフォンをダウンのポケットに突っ込んだ。


「そういや。お前は何の仕事してんの?」

「広告制作会社で、グラフィックデザイナーやってます」

「グラフィックデザイナー?そういうのやってるようには、全く見えないな」


 海貴也は「そうですか?」と言いながら、他人の自分に抱く印象に何となく合点がいくなと思う。


「昔聞いたんだけどさ、広告の会社で働くの大変なんだろ?残業がすげぇ多いし、休日出勤は当たり前だし、デザインなかなか決まらないしって言ってたぞ。やっぱそうなのか?」

「そうですね。オレはまだ三年目ですけど、残業もデザインの考え直しも当たり前です。就職前からどういう職業かは聞いてましたけど、本当に根気がいるなって思います」


 今日のように心が折れかけたこともあるし、自ら選んだ道に迷いを覚えたこともある。けれど最終的に、諦めるという決断はしなかった。自分の中の情熱を、信じてみたいと思ったのかもしれない。昔からやりたかった夢だけは、挫折も後悔も味わうことなくやり遂げたいと。


「大変そうだな。そんなきつい仕事しそうにないのに、何でグラフィックデザイナーなんて仕事選んだんだ?」

「ずっと夢ではあったんです。大変な仕事だって聞いた時は、正直ちょっと悩みました。でも、それでも叶えたい夢だったので。もしやってみて続かなかったら、それは本当に心の底からやりたかったことじゃなかったって訳だから、呆気なく辞めてたと思います。オレ、ダメだと思ったことには執着しないので」


 本当に望んだ仕事ではなかったら、今頃は全く違う職場でアルバイトをしていただろう。実は、夢への情熱だけは自分でもちょっと意外に思っていて、唯一誇れることではないかと思っている。

 すると、隣から視線を感じたので振り向くと、恭雪がガン見していた。


「な……何ですか?」

「いや。想像してた人物像とちょっと違ったから、驚いてた」

〈どんな奴だと思ってたんだろ〉

「消極的で大人しくて、自己表現が苦手そうだと思ってたわ」

〈あながち間違ってない……〉


 海貴也の方は恭雪の本質をまだ掴めていないのに、観察力の優れた恭雪は三回目の会話にして、海貴也の性格を見抜いていた。ほぼ正解されて、何も返す言葉がない。取り敢えず苦笑いだけした。


「有間さんは、パティシエは夢だったんですか?」

「まぁな。やりたいことではあった。あの店、元々は親父の店だったんだよ。おふくろも手伝ってて。……生まれた時からずっと親父の仕事見て、親父が作ったケーキ食ってて、俺も何時か美味いケーキ作りたいって小さい頃に思った。俺が独立を考え始めたタイミングで店移転するって聞いて、そんで空いた店舗をもらったんだ」

「そうだったんですね」


 地元で店を構えることは考えていなかったが、隣の自宅も一緒に手放すと聞き、思い出や自分の将来のきっかけをくれた場所を失くしてしまうのは、残念な気がした。東京で店を出すつもりだったが、それは何年先でもできると思い、三年ちょっと前に恭雪は帰って来た。

 昭和レトロな雰囲気だった店舗は、イメージしていた西洋の片田舎風にする為に内装と外観はリフォームした。一方の両親はというと、現在は別の場所でこじんまりとやっている。

 電車に乗って約十五分。乗客もまばらになってきた。次が降りる駅だ。



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