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当時の幕府

1841年、伊藤博文が生まれた年に、11代将軍の家斉(いえなり)が死んだ。

老中の水野忠邦が天保の改革を行うが、

時すでに遅し。

50年以上、贅沢(ぜいたく)三昧(ざんまい)をしてきたツケは、もはや小手先の改革ごときでは、どうにかなるものではなかった。

1843年、天保の改革はわずか2年ほどで失敗する。老中の水野忠邦は失脚する。


1851年、元・老中の水野忠邦が失意のうちに死んだ。


年号が天保から弘化に変わると、

『天保』と書かれた紙を、ビリビリと破り捨てた。


1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。その年に、12代将軍の家慶(いえよし)が死んだ。


13代将軍に家定(いえさだ)がなるが、病弱で、いつ万が一のことになってもおかしくない状況だった。

そして、13代将軍の家定(いえさだ)も死んだ。


跡継ぎとなる男系男子がいなかったため、御三家(ごさんけ)や、御三卿(ごさんきょう)と呼ばれる分家から養子を迎えることになった。

徳川(とくがわ)将軍(しょうぐん)現人神(あらひとがみ)として崇拝されていた時代。

その徳川将軍の血筋が途絶えるということは、

そのまま国が滅びることに直結する。


水戸藩から一橋家に養子に入った、一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)を推す一橋派は、水戸藩主の徳川斉昭、福井藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬ら。

一方で、紀州藩主の慶福(よしとみ)を推す一派は、南紀派と呼ばれていた。


もっとも、俺らのような下級武士にとっては、そんな上級武士の、それも一番上の方の人たちのことなど、雲の上の出来事だった。


「次の将軍は誰になる?」

「まあ、よほどのことがない限り、一橋様だろうな。」


焦りを感じた南紀派。


ところが、この争いは南紀派の勝利に終わる。


南紀派は、譜代大名や、一橋派を良く思わない幕府の要職に就く者たち。

大老に井伊直弼を擁立する。

大老の井伊直弼の独断によって、一橋派は退けられる。

南紀派は幕府内でも保守派、一方で一橋派は、どちらかというと内部改革派といったところか。

結果的に、保守派が既得権益を守ったといったところ。

幕府の要職連中は、もう自分たちの権益を守ることしか考えていなかった。


井伊直弼は安政の大獄を行い、松陰先生や、福井藩士の橋本左内などを処刑した。


さらに下級武士たちの怒りを買ったのは、

処分内容だ。

一橋慶喜、徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬らは、大名だから蟄居(ちっきょ)に留めた。

松陰先生や、橋本左内らは下級武士だから、拷問もやり放題、挙げ句に死罪。

これは明らかに、身分によって処分内容に差をつけたと考えられる。


松陰先生は、老中の間部(まなべ)下総(しもうさの)(かみ)を殺そうとしたという嫌疑をかけられて、首をはねられたと聞いた。


松陰先生・・・松陰先生・・・


これを聞いた、松下村塾の塾生たちは、たいそう嘆き悲しみ、井伊直弼や、間部下総守や、その他、安政の大獄で捕縛に関わった者たちへの憎しみを募らせた。


いっそのこと、俺が間部下総守ってのを、殺しに行ってこようか。


その後、間部下総守は明治まで生き延びることになる。こういうやつほど長生きするんだよな。


そんな矢先、井伊直弼は桜田門外の変で、水戸藩の脱藩浪士たちに殺される。


井伊直弼、まさかのナレ死!


しまった、水戸藩の浪士たちに先を越された、と思った。


まあ、今回の主役は伊藤博文なんだから、この程度でもいいや。


幕府なんかこのまま潰れてしまえ。


さらに、老中の安藤信正も、坂下門外の変で、なんと背中から斬られ、お供の侍たちが斬られている間に自分だけ逃げたという、情けねえやつだな。今の幕府には、こんなやつしかいねえのか。だから潰れるんだよ。


安藤信正は、1871年に死んだ。


年号が安政から万延に変わると、

『安政』と書かれた紙を、ビリビリと破り捨てた。


その後、一橋派が再び勢いを盛り返す。

松平慶永が政事(せいじ)総裁職(そうさいしょく)という役職に就いたそうだ。

老中なんかもう、頼りにならないからか。

南紀派は空中分解、いえーい。

さらに、一橋慶喜が将軍後見職になる。

これって実質、慶喜が将軍みたいなものだろう。将軍とほぼ同じ権限。


それと、会津藩主の松平容保というのが、京都(きょうと)所司代(しょしだい)という役職に就任したという。

京都で天誅と称して、安政の大獄で捕縛に関わったやつらとかを殺しまくっている者たちがいるのを、その者たちを取り締まる目的で、京都(きょうと)所司代(しょしだい)に就任したという。

長州からも、何人か京都に行ったというが、特に殺戮を繰り返したのが、幕末の四大人斬りと呼ばれる4人だとか。

安政の大獄で捕縛に関わった、その主導的立場だった長野主膳が、天誅で殺されたのを皮切りに、その存在がクローズアップされたんだという。


伊藤博文は、京都には行かず、藩命を受けてイギリスに密航留学することになるのだから、剣の腕よりも頭の良さとか先見性で見込まれた、ということになるのだろう。


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