黒船来航
1853年(嘉永6年)、この国を揺るがす大事件が起きる。
アメリカから、四隻の黒船が浦賀に来航したのだ。
俺(利助)は、その知らせを国元で聞いていた。
たちまち国中の噂になった。黒船を直接見に行った人たちからの話を聞くことができた。
「黒船ってのは、とにかく我が国にある、一番大きな船よりも、さらに大きな船で、帆を張らないで、煙突から黒い煙を上げて動いているらしい。
なんでも、蒸気とかいうもので、蒸気ってのは、湯気のことらしい。
そんなもので、本当に船が動くのかって、信じられないような気持ちだったよ。」
幕府の老中、阿部正弘が交渉にあたった結果、
1年後にまた来るという。
その頃の我が家は、実に複雑な事情を抱えていた。
父の十蔵が長州藩の下級武士(蔵元付中間)・水井武兵衛の養子となり、その水井武兵衛が周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名した。
えっと、それはつまり、足軽の伊藤弥右衛門の養子が水井武兵衛改め伊藤直右衛門ということで、その伊藤直右衛門の、そのまた養子が、父、十蔵と、俺、利助という、なんともわけのわからないことになっているのだ。
そのため、父の十蔵と、俺もまた、伊藤家の養子に入り、伊藤の姓を名乗り、俺は俊輔と名乗ることになった。
その頃は、伊藤俊輔と名乗っていた。
現代にも、同姓同名で各界で活躍している人物たちが、複数いることだろう。
まあ、とにもかくにも、俺はようやく農民から武士となり、伊藤の姓を授かり、伊藤俊輔と名乗ることになった、ということだ。
これでようやく、生活もどうにかままなるということになりそうだ。
そういえば、勝手に黒船に乗り込んでアメリカまで行こうとした長州藩士がいたという話を聞いた。
その名は、吉田松陰というらしい。
俺は、その男と出会うことになる。
後に松下村塾を開くことになる、吉田松陰。この男の存在もまた、俺の運命を変えていくことになる。
その前から、日本近海には外国船がよく来ていた。
父がよく話していた。
「江戸には、徳川幕府があるが、もはや昔ほどの力は無い。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどの外国船が、最近では日本の近海をうろついているらしい。
我が国は、長らく鎖国をしてきて、清国、オランダ以外の国とは交流をしてこなかったが、この様子では、鎖国もいつまで続くことやら。」
はっきりした答えを出せないまま、あっという間に1年が過ぎた。
マシュー・ペリー率いる艦隊は、今度は七隻でやってきて、開国を強硬に迫った。
幕府はついに、その要求に屈して、日米和親条約を締結することを決め、下田、箱館の港を開くことを認めた。
ここに、約200年続いた鎖国体制は崩壊した。




