功山寺挙兵
長州藩の実権は、幕府の言いなりの、いわゆる俗論派と呼ばれる保守派に牛耳られ、俺らは長州藩の中でも孤立を深めていた。
俗論派に反対する者の多くが、家老などの高位の者も含め、投獄されたり、処刑されたりしていた。
「今度の家老たちは、幕府の言いなりで、我々の意見には、まるで耳を傾けない。」
そんな中で、八月十八日の政変で、京の都を追われていた、公卿の三条実美が、長州に来ているとの情報を聞きつけた。
ここは、藁にもすがる思いで、三条実美のもとを訪れることにした。
三条実美「私が、三条実美だ。」
伊藤俊輔「私は、伊藤俊輔と申します。」
三条実美「ほほう、若いながらも、なかなか良い顔立ちじゃな。
聞けば、奇兵隊の、力士隊というのを率いているとか。高杉晋作より、話は聞いておる。
ただ、今は長州藩でも、親幕派の、保守派が台頭し、尊皇攘夷派への弾圧が始まっているとのこと。」
三条実美は、しばらく腕組みをして、考え込む。
三条実美「そうじゃ、功山寺にて、挙兵するとよい。その方たちの思いを伝えるのじゃ。さすれば、耳を傾けるやもしれぬ。」
元治元年12月15日(1865年1月12日)、
高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、功山寺で挙兵すると宣言。
功山寺挙兵、またの呼び方を、回天義挙とも。
伊藤俊輔の力士隊も、その長州藩諸隊のうちの一つとして参加した。
最初に参加したのは、高杉晋作の直属の部隊と、伊藤俊輔の力士隊と、その他わずかな者たち、84名ほどだった。
そしてその日は、珍しく雪が降っていた。
しかし、その人数は徐々に増え、最終的には400名を越えるまでになっていた。
伊藤俊輔「我々は、まずは藩の会所を襲撃する!」
力士隊隊員「しかしまあ、なんだって同じ長州藩の者同士で争わなければならないのか。わけがわからないな。」
伊藤俊輔「とりあえず、その俗論派っていうやつらを倒して、正義派が再び実権を握ればいいってことだ。
俺らは、俺らのやるべきことを、指示通りにやっていればいい。それで報酬を受け取って、生活費や遊興にあてる。それだけのことだ。」
藩の会所。そこには、俗論派の者たち、それから、江戸から差し向けられた幕府の下級役人の姿もある。
「突入!」
俺らは、藩の会所を襲撃。
俺は、俗論派の連中を一人、二人と斬って捨てた。
会所にいた俗論派の者たちは、多くが力士隊らに斬られ、死傷した。
残りの者たちは脱兎のごとく逃げ去った。
俺は、幕府の下級役人たちも、一人、二人と斬って捨てた。
残りの下級役人たちは、やはり脱兎のごとく逃げ去った。その際に言ってやった。
「おい!お前たちの大将に言っておけ。
伊藤俊輔、この俺の名だ。いつか、お前たちに代わり、この国の頂点に立つとな。」
高杉晋作率いる正義派は、たちまち長州全域を制圧。俗論派を排除した。
長州藩は、正義派が実権を握り、倒幕へと方針転換することになった。
功山寺挙兵の件は、江戸の徳川慶喜にも伝えられた。
「申し上げます。長州藩の高杉晋作率いる諸隊が、功山寺にて挙兵、保守派を追放し、藩の実権を掌握したとのことにございます。
なお、その諸隊の中に、伊藤俊輔なる者が率いる、力士隊なる隊が存在し、その隊が、こたびの功山寺挙兵にて、多大なる戦果をあげたとのことにございます。」
将軍後見職 徳川慶喜
徳川慶喜「ほほう、伊藤俊輔なる者が率いる、力士隊なる部隊か。
その者、敵ながらあっぱれじゃな。
いずれ、直接あいまみえることになるやもしれぬな。」
ついに、徳川慶喜にも、伊藤俊輔の名が伝わった。
さらに、京都御所の、あの人物にも、伊藤俊輔の名は、知れ渡るところとなった。
公卿 岩倉具視
「ふふふ、三条実美から聞いたが、長州藩の伊藤俊輔なる者、なかなかおもしろそうではないか。」




