順番を決める
黒いすき間は、見つけたあとも、そこにあった。
屋根と壁の間。
小さな家の上の方。
昼の光が当たっているはずなのに、そこだけは暗く見える。細い白い糸が、すき間の端に引っかかったまま、風に少しだけ揺れていた。
創磨は、しばらくそれを見上げていた。
届かない。
見えているのに、届かない。
そこに何かの通った跡があるとわかっているのに、今の自分たちには手が届かない。
「そうま」
芽依が呼んだ。
「どうすると」
その声は、少し強かった。
怒っているわけではない。
でも、待ちくたびれている声だった。
「土、積む?」
「……」
「はしご持ってくる?」
「……」
「そうま」
もう一度呼ばれて、創磨はようやく目を下ろした。
芽依は家の裏側に置いた白い石と木片を見ていた。
白い石は危ない場所。
灰色の石はあとで見る場所。
木片は直す場所。
そう決めた。
決めたはずだった。
でも、石と木片が増えても、赤ちゃん村人の家はまだ帰れる家になっていない。
扉の前にも白い石。
家の裏にも白い石。
屋根と壁のすき間にも木片。
止まる印ばかりが増えている。
創磨は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
「また、見るだけ?」
芽依が言った。
小さな声だった。
でも、その言葉は、黒いすき間よりも創磨の胸に刺さった。
「……見るだけじゃなか」
言いかけて、創磨は止まった。
本当にそうか。
さっきも同じようなことを言った気がする。
見るだけ。
中に入らんために見る。
帰すために開けない。
危ないから止まる。
全部、間違ってはいない。
間違ってはいないけれど、そればかりになっている。
赤ちゃん村人の家を見つけてから、ずっとそうだった。
行く。
見る。
怖いものを見つける。
まだ、と言う。
石を置く。
帰る。
また来る。
それを繰り返している。
望来がつよし号の中で、白い花を握っていた。
赤ちゃん村人は、その横で扉の方を見ている。
扉へ行きたい。
でも行けない。
望来は赤ちゃん村人の手を握って、ずっと止めている。
「みく」
創磨が呼ぶと、望来は顔を上げた。
「なに」
「赤ちゃん、まだ行きたか?」
望来は赤ちゃん村人の顔を見た。
それから、うなずいた。
「行きたか」
「みくは?」
「みくも、行きたか」
当たり前みたいな返事だった。
創磨はうなずいた。
「うん」
それしか言えなかった。
行きたい。
帰したい。
でも帰せない。
その間に、時間だけが少しずつ減っている。
まだ昼だった。
朝に薬を飲ませてから、薬は減っていない。
残り二十七回。
十三日と半分。
今はまだ、そのまま。
でも、何もしなくても夜は来る。
夜が来れば、また一つ減る。
赤ちゃん村人の家の前で「まだ」と言い続けているあいだにも、薬は増えない。
たいまつも増えない。
パンも増えない。
木炭も、糸も、鉄も増えない。
創磨は、はっとした。
黒いすき間を見ている場合ではない、と思ったのではない。
黒いすき間だけを見ていてはいけない、と思った。
「芽依」
「なに」
「いったん、戻る」
芽依の眉が動いた。
「戻ると?」
「うん」
「また?」
その言葉には、はっきり不満があった。
「また戻ると?」
望来もすぐに言った。
「赤ちゃんのおうち、まだよ?」
「うん」
「みく、花、置いとらんよ?」
「うん」
「赤ちゃん、かわいそうよ?」
「うん」
創磨は、全部にうなずいた。
そのたびに胸が痛かった。
でも、今回は「怖いから戻る」ではだめだった。
「帰さんわけじゃなか」
創磨は言った。
望来が口を曲げる。
「じゃあ、なんで戻ると」
「順番ば決める」
「じゅんばん?」
望来は聞き慣れない言葉みたいに、少し首をかしげた。
芽依は黙っている。
創磨は、赤ちゃん村人の家を見た。
白い石。
木片。
黒いすき間。
白い糸。
扉の横のたいまつ。
ひとつひとつは、ちゃんと意味がある。
でも、意味があるものを置いていくだけでは、前へ進まない。
「今、全部いっぺんにしようとしよった」
創磨は言った。
「全部?」
芽依が聞き返す。
「赤ちゃんのおうちも見る。中も見る。屋根も見る。糸も見る。すき間も直す。みくも守る。たいまつも足りるようにする。夜もこわくないようにする」
「……うん」
「でも、全部いっぺんには無理」
創磨は、自分で言ってから、少しだけ息を吸った。
認めるのは悔しかった。
兄なのに。
知っていることはあるのに。
動画では、もっと早くできていたのに。
でも、ここは動画ではない。
自分は小三で、芽依は年長で、望来は三歳だ。
赤ちゃん村人までいる。
はしごに登れば膝が震える。
盾を持てば腕が痛くなる。
望来が少し揺れるだけで、つよし号を止めなければならない。
薬は朝と夜に減る。
食べなければ力が出ない。
眠れなければ頭が回らない。
「無理にやったら、失敗する」
創磨は続けた。
「おれ、落ちるかもしれん。芽依が登ったら危なかかもしれん。みくが赤ちゃん止めようとして、つよし号から落ちるかもしれん。たいまつ足りんまま夜になったら、またからんが鳴っても動けんかもしれん」
芽依は、唇を結んだ。
言い返さなかった。
たぶん、わかっている。
芽依もずっと、怖いのを我慢して動いている。
怒ったり、強く言ったり、石を置いたり、望来を止めたりしているけれど、芽依だってまだ五歳だ。
「じゃあ、どうすると」
芽依が聞いた。
今度の声は、さっきより少し低かった。
怒りではなく、ちゃんと聞こうとしている声だった。
「家に戻って、地面に並べる」
「なにを」
「やること」
芽依は少しだけ目を細めた。
「石で?」
「うん。芽依の石と木片で」
その瞬間、芽依の顔が少し変わった。
「めいの石?」
「うん」
「めいの木片も?」
「うん」
「じゃあ、する」
早かった。
創磨は少しだけ息が抜けた。
望来はまだ不満そうだった。
「みくの花は?」
「使う」
創磨が言うと、望来の目が少し開いた。
「使うと?」
「うん。でも、赤ちゃんのおうちの前には、まだ置かん」
望来の顔が、またゆがむ。
「なんで」
「花は、最後」
「さいご?」
「うん。帰ってよかってなった時の印」
望来は手の中の白い花を見た。
小さな花。
朝からずっと握っているせいで、少ししおれかけている。
でも、望来にとってはまだ大事な花だった。
「赤ちゃん、帰る花?」
「うん」
「今、置いたらだめ?」
「今置いたら、赤ちゃん行きたくなるやろ」
望来は赤ちゃん村人を見た。
赤ちゃん村人は、扉を見ている。
白い石がある扉。
まだ開けてはいけない扉。
望来は小さく息を吸って、赤ちゃん村人の手を握り直した。
「赤ちゃん、まだ」
その声は、さっきよりも少し震えていた。
「でも、あとで花」
赤ちゃん村人は答えない。
けれど、望来の手から逃げようとはしなかった。
*
戻る道で、創磨は後ろを振り返らなかった。
振り返ると、また止まりたくなる気がした。
赤ちゃん村人の家。
白い石。
黒いすき間。
それらをもう一度見ると、今すぐどうにかしなければいけない気持ちになる。
でも、今は戻る。
逃げるためではない。
順番を決めるために戻る。
つよし号は、ずず、と土の上を進んだ。
芽依は横を歩きながら、ポケットの中を何度も確かめている。
石の音がころころ鳴った。
「そんなに持っとると?」
創磨が聞くと、芽依は少し得意そうに言った。
「いるやろ」
「うん」
「ほら」
芽依は、歩きながら手のひらを開いた。
白い石。
灰色の石。
黒っぽい石。
小さな木片。
欠けた葉っぱ。
変な形の木のかけら。
「こんなに?」
「拾った」
「いつ」
「さっきも。昨日も。その前も」
「ずっと?」
「いるかもしれんって思ったもん」
創磨は何も言えなかった。
芽依の拾い癖。
家なら、母に怒られるものだった。
洗濯機でがらがら鳴って、ポケットを出しなさいと言われるものだった。
でも、この世界では、その小さなものが何度も役に立っている。
音を鳴らす石。
目印になる石。
たいまつを支える木片。
花の横に置く道しるべ。
そして今は、順番を決めるための道具になる。
「芽依」
「なに」
「それ、全部使ってよか?」
芽依は一瞬だけ考えた。
「あとで、めいのって言って」
「言う」
「じゃあ、よか」
*
自分たちの家の前まで戻ると、創磨はすぐには中に入らなかった。
家の前の平らな土の上にしゃがむ。
そこなら、つよし号も近くに置ける。
家にもすぐ戻れる。
たいまつの光も、夜になれば届く場所だった。
「ここに並べる」
創磨が言うと、芽依はすぐに隣へ座った。
望来はつよし号の中から身を乗り出す。
「みくもする」
「落ちんように」
芽依がすぐに服をつまむ。
「落ちん」
「花、落とさんで」
「落とさん」
赤ちゃん村人は、望来の横でじっとしていた。
でも、顔はまだ村の奥を向こうとしている。
望来はそれに気づくと、小さな声で言った。
「赤ちゃん、こっち。今、じゅんばん」
その言い方が少しだけ大人びていて、創磨は一瞬、目を細めた。
望来は全部をわかっているわけではない。
でも、「まだ」の中に「あとで」があることは、少しずつわかり始めている。
創磨は、地面に一本の線を指で引いた。
「まず、これが今」
手前に、小さな木片を置く。
「ここが、今のうちの家」
芽依がうなずく。
「うん」
創磨は次に、少し先へ白い石を置いた。
「これが、赤ちゃんのおうち」
「白い石」
望来が小さく言った。
「まだ危なかけん」
「うん」
創磨はうなずいた。
「まだ危なか」
望来の口が少し曲がった。
でも、文句は言わなかった。
創磨は、家の木片と赤ちゃん村人の家の白い石の間に、灰色の石を置いた。
「これは、やること」
「見る場所?」
芽依が聞く。
「今日は、見る場所じゃなくて、すること」
「灰色、すること?」
「うん」
創磨は一つ目の灰色の石を指さした。
「食べる」
「食べる?」
芽依が少し驚いた顔をした。
「うん。腹減っとる」
言うと、急に本当に腹が減っていることに気づいた。
朝から動いている。
薬を飲ませて、花の道を見て、赤ちゃん村人の家へ行って、扉を少し開けて、黒いすき間を見つけて、戻ってきた。
ずっと緊張していたから、気づかなかっただけだ。
体はちゃんと疲れている。
「食べんと、登れん」
創磨は言った。
「食べんと、考えられん」
芽依は少しだけ黙った。
それから、腹のあたりに手を当てた。
「めいも、お腹すいた」
「みくも」
望来がすぐに言った。
「みく、パン」
「パンは少し」
「大きい少し?」
「普通の少し」
「普通……」
望来は不満そうにしたが、いつものように強く言い張らなかった。
創磨は二つ目の灰色の石を置いた。
「次、たいまつ」
「増やすと?」
「うん。暗いところ多いけん」
三つ目。
「木と土」
「足場?」
「うん。でも、食べて、たいまつ増やしてから」
芽依が少しだけ顔を上げた。
「先に登らんと?」
「登らん」
「ほんとに?」
「うん。腹減ったまま登ったら、落ちるかもしれん」
芽依はすぐにうなずいた。
「それはだめ」
四つ目の石。
「黒いすき間」
白い石の手前に置く。
「そこを直す」
五つ目。
創磨は少し迷って、木片を置いた。
「中を見る」
望来が身を乗り出した。
「赤ちゃん、入る?」
「まだ」
創磨は言った。
「中を見るまでは、入らん」
「またまだ?」
望来の声が少し高くなる。
創磨は、すぐに言い返さなかった。
ここでまた「危ないから」とだけ言えば、同じになる。
だから、別の言い方を探した。
「みく」
「なに」
「これは、赤ちゃんを止めるまだじゃなか」
望来は首をかしげた。
「赤ちゃんが帰るための、まだ」
「帰るため?」
「うん」
創磨は最後に、木片のさらに向こうへ、何も置かない場所を作った。
「ここが、花」
望来の手が、白い花を握りしめる。
「みくの?」
「うん。最後に、みくの花」
望来はじっと地面を見た。
木片。
石。
灰色の石。
白い石。
その先の、何もない場所。
そこへ花を置きたい。
でも、まだ置けない。
望来の顔に、その二つがはっきり出ていた。
「……みく、置かん」
小さな声だった。
芽依が望来を見た。
「ほんとに?」
「置かん」
「えらい」
「でも、みくの花」
「うん。みくの花」
望来は白い花を胸の前に持ってきた。
それから、赤ちゃん村人に見せる。
「赤ちゃん、これ、あとで」
赤ちゃん村人は、白い花を見た。
そして、ほんの少しだけ、扉の方ではなく望来の方を向いた。
それだけだった。
でも、創磨にはそれが大きく見えた。
扉だけを見ていた赤ちゃん村人が、望来の花を見た。
今すぐ帰る場所ではなく、あとで帰るための印を見た。
「よし」
創磨は小さく言った。
芽依が地面の石を見ている。
「一、食べる」
芽依が指で一つ目の石をつついた。
「二、たいまつ」
二つ目。
「三、木と土」
三つ目。
「四、すき間」
四つ目。
「五、中」
五つ目。
それから、何も置かれていない場所を見た。
「六、花」
望来が言った。
創磨と芽依が、同時に望来を見た。
望来は白い花を持ったまま、真面目な顔をしていた。
「六、花」
もう一度言う。
「赤ちゃんのおうち、花」
創磨は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
まだ帰せない。
まだ直していない。
まだ中も見ていない。
でも、ただ止まっているわけではなくなった。
白い石の前で動けずにいるのではない。
花までの順番ができた。
「うん」
創磨はうなずいた。
「六、花」
芽依も、少しだけ口元をゆるめた。
「みく、覚えたと?」
「覚えた」
「忘れんと?」
「忘れん」
「お菓子の約束みたいに?」
「うん」
「それは絶対忘れんやつやん」
芽依が言うと、望来は少し得意そうにした。
「みく、忘れん」
創磨は地面に並んだ石を見た。
小さな石と木片だけの、頼りない順番。
大人が見たら、ただの子どもの遊びに見えるかもしれない。
でも、創磨には違った。
これがないまま進むと、また同じ場所で迷う。
怖いものを見つけるたびに止まり、止まるたびに石を置き、石が増えるだけになる。
でも、今は違う。
次に何をするかがある。
まず、食べる。
それは逃げではない。
動くための準備だ。
創磨は立ち上がった。
「家に入る」
「食べる?」
望来が聞く。
「うん」
「パン?」
「パンと、残っとるじゃがいも」
「きのこは?」
「きのこはまだなか」
「みく、きのこ好き」
「知っとる」
芽依がつよし号の横に回った。
「赤ちゃんも一緒」
「うん」
望来は赤ちゃん村人の手を握ったまま、白い花をもう片方の手で胸に抱いた。
「赤ちゃん、食べてから」
赤ちゃん村人は答えない。
でも、扉の方へ行こうとはしなかった。
創磨は最後に、村の奥を見た。
赤ちゃん村人の家は、ここからはもう見えにくい。
白い石も、黒いすき間も、屋根の端の白い糸も、今は見えない。
見えないからといって、なくなったわけではない。
でも、見えないものに引っぱられ続けるわけにもいかない。
薬は残り二十七回。
十三日と半分。
今はまだ、昼。
今はまだ、減っていない。
だからこそ、今のうちに順番を作る。
創磨は家の扉へ向かった。
地面には、芽依の石と木片が並んでいる。
一、食べる。
二、たいまつ。
三、木と土。
四、すき間。
五、中。
六、花。
白い花は、まだ赤ちゃん村人の家の前にはない。
けれど、初めて、そこまでの道ができた。




