第百話『影の目覚め』
逃れられない。
それはまるで、夢物語の悪人の末路のように。
それはまるで、約束された愛の実りのように。
それはまるで、歪んだ愛の悲惨な終わりのように。
運命からは逃れられない、それが人生の影であるならば尚更逃れることは難しくなる。
「今だ!逃げっ…」
「逃げ場などありませんよ」
そして今、影は形となって私たちを襲う。
カラスさんは閃光手榴弾を投げる、しかし一瞬の光に影の手は緩まるものの瞬く間に闇が支配する。
「首を捻れば終わり、王手、いえ、あなた達は詰みなのよ」
死の間際。
蘇る記憶は、いわゆる走馬灯と言われる。
私はゆっくりと、思い返していた。
あまり、いい人生ではなかった。
志東さんに出会うまでは、私は……。
わたしは?
私は一体何をしていたんだっけ。
記憶の引き出しが、まるで固く施錠されているかのように上手く開かない。
私は、志東さんに出会う前。
ずっと、あの部屋にいた。狭く、毎日が変わらない、朝も夜もない部屋。
そのはずなのに、何かが引っかかる。
志東さんに会うより前、けれどあの部屋に囚われていた日々より後。
まるで、その部分の記憶にだけ豪雨が降り続けているようで。思い出そうとしても、景色が激しい雨にシャットアウトされてしまう。
真っ暗な空の黒雨の中よく目を凝らすと、うっすらと、形が見えはじめる。
私は、自由だった。けれどひとりだった。ずっとひとりで、自由なのに何かに囚われていた。
私はどうして、志東さんと居るのだろう。
どうして、私は志東さんに嫌われたくないのだろう。
かっこいいから?
私を認めてくれたから?
本を持ってきてくれたから?
美味しいご飯を作ってくれるから?
怖い夢を見ると一緒に寝てくれるから?
私の赤く汚れた手を優しく握ってくれるから?
私が、志東さんのことを、好きだから?
どうして、私は志東さんのことが好きなのだろう。
彼は本を持ってきてくれて、面白い話を聞かせてくれて、外に連れ出してくれて、毎日壊すものを与えてくれて、優しくて。
ただ、そばに居たくて……。
……そうだ、理由なんてなかったんだ。
好きだからじゃなくて、捨てられるのが怖いだけだったんだ。
だから、私は志東さんの好きな存在じゃないといけないんだ。
志東さんは、私のことを好きでいてくれているのかな。
「あ、な、あなた、今、影を切って……!?」
長々と考えた束の間の果てに。
振るった刃が、影を切り裂く。
影から伸びた手が、暗闇に形を無くしていく。
「なんだ、弱いんだ」
思い出した、私は支配する側の人間なんだ。
影でさえ逃げることは出来ない、私こそが終わりそのものなのだ。
「おかしい、おかしいですあなた!あなたは一体何なのですか!?影を切るなんて到底生き物のすることじゃありません!!」
「私はあなたにとっての終わり、夜明けなんだよ」
いくら影から手が刃が私を阻止しようとしても、切り裂かれ闇に溶けていく。
相手の焦りが伝わる、でたらめに手の数を増やしても、かえってその甘い攻撃が捌きやすくなるだけだというのに。
焦りと、畏怖がよく伝わってくる。
相手が闇夜に現れた蛇なら、私は空を支配する鷹なのだ。
「あなたの姉の、頓死ね」
「…っ!!」
影は怒りのあまり、悪手を打ってしまったらしい。
逃げず私の元へと、殺意と共に向かってきた。
私は、それに応えるため刃を振り下ろした。
「姉よ、すま…ぬ……」
夢から覚めたような気分だった。
まだハッキリとしないような、けれど夢心地から這い出たような感覚。
「……うん、私だった」
久しく自分を、垣間見た。
運命からは、逃げることが出来ない。
そして私は、追う側の人間なのだ。
それをほんの少し、思い出した。