僕の侍女は聖女様【後編】
すべては、三年前から始まった。
あの頃から吸血種の討伐を神が与えたもうた使命にして正義とする教会が異界から『聖女』を召喚したという噂が世界中に広まった。
神に選ばれし『聖女』の血は聖血と呼ばれ、吸血種に対する絶対的な劇薬となるのだと。『聖女』は自らの血を民のために提供し、世界の平和を日夜祈っているのだと。
眉唾物の噂だと当初は言われていたが、それが真実であると世に認められるようになるまでに、そう時間はかからなかった。これまで聖水で清められた武器でかろうじて吸血種を討伐していた教会の祓魔師達の動きが変わったからだ。
『聖女』の聖血を用いるようになった祓魔師達は、吸血鬼を筆頭とした吸血種を、今までとは比べ物にならないほどに容易く屠るようになった。
それが三年前に起こった、『聖戦』と呼ばれる吸血種による大規模な反乱を招くことになったという事実は、まだ記憶に新しい。
その反乱を起こすにあたって、僕ら側を取りまとめたのは、白の――すなわちこの目の前に跪いている影の主である白炎公と呼ばれる吸血鬼だ。
彼は、徐々に数を減らしていく同族に危機感を覚えた訳ではなく、単に異界から来た『聖女』の存在を面白がり、興味本位の物見雄山気分で、自分の配下や、古い馴染みに声をかけ、王都の大聖堂を襲撃したのである。
僕も誘われたから参加した。人血を飲まなくなって久しい老いた身のこの僕が、わざわざそんな面倒ごとに首を突っ込んだことに、さしたる理由はない。
まあ単なる退屈しのぎだったとはジウには言えない僕の秘密だ。
そこでたまたま視界に入ったのが、例の『聖女』だった。
人の子にしては見目麗しいと言われるであろう若き祓魔師の青年達に囲まれ、守られながら、あの少女は僕に向かってこう言った。
――もうやめて! 争いからは何も生まれないよ!
周りの祓魔師の青年達はその台詞に、さすが聖女様だと感動した感銘を受けていたようだったけれど、僕にとってはその台詞はあまりにも陳腐なものとしてしか感じられなかった。三文芝居でももう少しマシな台詞が用意されているものだろう。
――私が貴方にさらわれてあげる! だから、みんなには手は出さないで!
自身に対する絶対の自信、男への媚びを宿した瞳、盛りのついた雌のような甘ったるい声音。
あれが聖女。笑わせるものだ。あれが聖女ならば、この国の中でも随一と謳われる花街の男を手玉に取り運命を狂わせる高級娼婦は女神だろう。あれとジウが同郷だなんて――いいや。そもそも、あんなものとジウと比べることこそおこがましい。
あの時、今にもこちらに駆け寄ってきそうだった『聖女』は、周囲の祓魔師達によって連れ去られ、僕は、僕への足止めとして残された祓魔師達と対峙した。
僕のこの老いた姿を見て僕を侮る彼らを地に伏せさせるのは、赤子の手をひねるよりも簡単だった。
本当は、いつ息絶えてもいいと思っていたのに。
この戦いの中でなら、僕を殺してくれるだけの実力を持ち合わせている祓魔師がいるかと思っていたのに。
まったく、現実とは残酷なものだ。
退屈と無関心は人を殺すと言う。ならば人に非ざるこの身を殺すのは何だろう。
何一つ変わらない毎日にはとうに飽き、退屈していた。それでもこの身は死にはしない。何事にも、何者にも興味が持てず、ただぼんやりと月日が流れていくのを眺めていくばかり。それでもこの身は死にはしない。
人血を求めるのを止めて身体がいくら老いたとしても、この身は死から遠ざけられたまま。口慰みに人の子が好んで食べるのだという甘い菓子の類ばかりを口にしていたら、付き合いの長い同族には『この悪食が』と笑われた。『偏食家と言ってくれないかな』と訂正させてもらった。
死にたいと思っていた訳じゃない。ただ、生きているのが嫌だっただけだ。
そう思っていた僕はきっと、生きている訳ではなく、ただ死んでいないだけだったのだろう。
そうして、そろそろ戦線離脱しようかと地に伏した祓魔師を見下ろしていたら、その中の一人に、何かを投げつけられた。
反射的に愛用の杖を使って宙で砕いたそれ――小さな硝子の瓶には、鮮やかな赤の液体が閉じ込められていた。硝子の破片と共に宙に散るその赤の馥郁たる蜜のように甘い芳香。
気付けばその赤を魔力で手に集め、それを口に運んでいた。それが毒であろうとも構わなかった。上等なワインよりももっとずっと僕を酔わせるその赤が、聖女の血、すなわち聖血であるのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
そして僕は、本来の姿――周囲からは『赤華公』と呼ばれる姿を取り戻した。
聖血を口に含み斃れるどころか、若々しく力を取り戻した僕を前にして、地に伏していた祓魔師達はその表情を驚愕から恐怖へと塗り替えた。けれど、その時の僕にはもう、そんなことはどうでもよかった。
口に含んだ赤と同じ匂いは、大聖堂に隠された地下牢へと続いていた。まるで導かれるようにしてそこへ向かった僕が目にしたのは、一人の少女。
数多の管に繋がれたまま、冷たい石畳の上に座り込んでいた少女を見つけた時、僕の身体を雷が貫いたような気がした。
無駄に持ち合わせている年の功のおかげでなんとか表面上は平静を保って彼女に――ジウに話しかけたけれど、内心は思春期の少年のように慌てふためき、そして浮かれていた。
ぼんやりとはめ殺しの窓から夜空を見上げている朔夜色の瞳に写りたいと思った。その瞳に、僕を映してほしいと思った。そう、僕は一目で、彼女に、ジウ・ホリィという存在に、恋に落ちたのだ。
枯れ木のように細い手足、こけた頬、艶の失せたばさばさの髪。お世辞でも決して美しいとは評せない少女に、僕は恋に落ちてしまった。
赤華公、枯れぬ薔薇王、始まりの六柱が一柱、始祖と呼ばれる原初の吸血鬼たるこの僕が!
彼女がためらうことなくこの手を取ってくれたことが、どれだけ嬉しかったことか。
そうしてジウをこの屋敷へと連れ帰り、ジウとの生活が始まった。
最初は何をするにも恐る恐るだった彼女は、少しずつ、硬く縮こまっていた蕾がゆっくりとほころぶように僕に心を許してくれるようになり、気付けば自然に笑うようになってくれた。
故郷で培ったのだという家事能力を惜しげもなく振るい、そしてそれに慢心することなく更に僕が与える知識を吸収し、ジウはこの世界に適合していった。
それがとても嬉しくて、けれど同時に喜んでばかりもいられなかった。僕が与えてあげられる世界は、ジウにとっては不自由はないだろうけれど、その分とても狭いものだということを、僕はよく解っていたからだ。
「君が望むなら、手を離してあげられる」
ある日、僕はジウにそう言った。まだ間に合うと思ったからだ。本当は手放したくなんてなかったけれど、真実ジウのことを思うのならば、彼女を教会の手の及ばない彼方へと運び、そこで自由を満喫させてあげるべきだと思った。
けれどジウは、僕の言葉にぼろぼろと泣き出してしまったのである。
「旦那様は、もう私がいらなくなってしまいましたか?」
そう涙ながらに問いかけられてしまっては、もう駄目だった。
そんなはずはない、叶うならばずっと共にいたいと、自分でも驚くほど必死になって言葉を連ねてジウのことを慰め、そして抱き締めた。
やがてようやく泣き止んでくれた彼女は、未だ涙に濡れる瞳で僕を見上げた。僕が一目で恋に落ちた、きらめく星の遊ぶ朔夜の瞳。
「そもそも旦那様は、どうして私を連れ去ってくださったんですか?」
「君の血がとてもおいしかったから、と言ったと思ったけど?」
「はい、そう伺いました。でも、その割に私の血をちっとも飲まれないじゃないですか。何か他に理由があるんじゃないですか?」
まさかいい歳したこんな爺が「一目惚れしたから」とは言いにくく、なんと答えたものかとしばらく困った。
血がおいしかったからというのは確かに理由の一つになり得るけれど、それですべてを説明できる訳ではない。ジウが疑問に思うのも、不安を感じるのも、当然の話だ。
だから僕はしばし考えて――そうして、正直な話をした。
「ただ僕はね、君と一緒にいたいと思ったんだ。一緒にいるなら君がいいと思ったんだよ。君と出会って、僕は今まで僕がひとりだったことを知ったんだ」
僕がそう、ぽつりぽつりと話すのを、ジウは最初は神妙そうに聞いていた。けれど僕の台詞が終わる頃には、彼女の表情は、何やら拍子抜けしたような、そしてどこか安堵したような顔になっていた。
普段はまだ十代という年若い実年齢よりも、随分と大人びた表情ばかりを浮かべていたというのに、その時の彼女の表情は、大層幼い、いとけないばかりのものだった。
その表情に思わず目を奪われて口をつぐむ僕に、ジウは小さく笑ってこう言った。
「つまり、旦那様は寂しかったんですね」
「……え?」
それは、思ってもみなかった言葉だった。
その時僕は、『寂しい』という言葉を、生まれて初めて聞かされたような気になった。
それなのに、不思議とその言葉は、すとんと僕の心の奥底まで落ちて、最初からそこにあったかのように落ち着いてしまった。
気付けば目を見開いてジウを凝視していたら、彼女は決意を秘めた瞳で更に続けた。
「私が側にいます。ずっと、ずっと、旦那様が許してくださる限り、この命尽きるまで、旦那様の側にいます。だからもう、旦那様は寂しくなんてないんです。……そうでしょう?」
最後の一言は、こちらの反応を窺うような、不安のにじむ小さな声音だった。じっとこちらを見上げてくるジウの頬を撫でて、僕はつい笑ってしまった。
「――――そうか」
目の前が拓けたような気分だった。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
そう何度も内心で頷いて、僕はジウをもう一度抱き締めた。
「僕は、寂しかったんだね」
いくら人血を飲んでも満たされなかったから、人血を絶った。身体が老いていくことなど怖くはなかった。どうせ人血を飲んでも満たされないのだからと諦めていた。
その判断はある意味では間違っていなかったのだと今なら解る。人血を飲んでも満たされないのは当然だ。満たされなかったのは、この腹でなかったのだ。この胸にあいた風穴が、その孤独こそが満たされなかったのだ。
そうしてその時、僕が何故ジウに恋に落ちたのか、ようやく理解した。
僕とジウは同じだったのだろう。僕もジウも寂しくて、胸に穴があいていて。
その虚空を埋める存在を、僕はジウであってほしいと思ったのだ。そしてジウもまた、自身の虚空を埋める存在が、僕であってほしいと思ってくれた。
――――――だからこそ、今の幸福がここにある。
その幸福は、僕が望む限り、ジウが望んでくれる限り、永遠に続くべきものであると僕は考えている。
過去に思いを馳せ、今の幸福を想い、思考に耽って黙りこくっていた僕を、目の前に跪いている影が見上げている。
僕が立ち上がり、白のと共に、教会を滅ぼさんと決起するのを、今か今かと待っている。
だけど、お生憎様。
僕は唇に笑みを刻み、毎朝整えている口髭を撫でた。
そして、影にとってはようやくと表現したくなるであろう時間をかけて、ゆっくりと口を開く。影が、影の主が、望まざる答えを。
「せっかくの誘いだけれどね。僕は今の生活がとても気に入っているんだ。教会がここを見つけられるとは思わないし、仮に見つけられたとしてもそれはその時、それ相応の対処をすればいいだけのことだ。僕は此度の戦には参加するつもりはないと白のに伝えておくれ」
ひらひらと手を振ってやると、影は驚愕に固まった。まさか断られるとは思っていなかったようだ。
最近の若造は、物事を都合のいいように考えたがるから困ったものだ。つい先日、町の教会にジウを拉致したあの祓魔師の若造もそうだった。
うーん、こんな風に思うこと自体が、僕が年を取ったことの証なのだろう。
まあこんな僕のことを僕は嫌いではないからいいのだけれど。何よりジウが好きだと言ってくれるから、だから僕は僕のことを好きでいられる。こんな爺さんには、彼女は本当に過ぎたお嫁さんだ。
厨房で製菓作業に励んでいるジウの笑顔が脳裏に浮かんで思わず笑みを深めれば、目の前で跪き続けていた影がゆらりと立ち上がった。その気配に、物騒な色が混じる。
おやおや、とわざとらしく目を瞬かせてみせると、影はその唇を震わせた。
「……赤華公が動かれないのは、あの小娘のためでいらっしゃるのですか?」
「うん?」
「あのような卑しい人間の小娘ごとき、赤華公がお気にかける必要など……ッ!?」
まったく。だから、身の程を弁えない若造は嫌いなんだ。
「我が花嫁への侮辱を、誰が許したか?」
「ヒ、ア……ッ!」
「今だけは見逃してやろう。そして白のに伝えるがいい。戦争がしたいのならば、やりたい者達だけでやっておくれとね」
魔力で締め上げていた首を解放して、ウインクを一つ投げかけてやると、影は大きく震えながら一礼し、その場から姿を消した。
やれやれ、これで静かになった。結界にわざと空けてやった穴を塞げば、ほら、何もかもが元通り。あと僕がすべきことはと言えば、ジウを待つことだけだ。
ああ、そうだ。ちなみにこれは蛇足なのだけれど、ひとつ話をしておこうか。
その、僕が待っているジウについて。彼女がしている、勘違いについての話を。
彼女は『異世界人の血』が『聖血』であると思っている。ジウと共に召喚されたあの少女の血にもまた、ジウの血と同じ効果があると思っているようだ。けれど、真実は異なる。
本当の意味で“特別”なのはジウだ。
“ついで”に召喚されたのはあのお飾りの『聖女』の方であり、真実『聖女』と呼ばれるべきはジウなのだ。
何故ジウなのかは流石に僕にも解らない。それこそ、神のみぞ知るべきことなのだろう。
だからこそ教会は、必死になって今、ジウの行方を捜している。教会がまた大規模な吸血鬼狩りを始めようとしているのは、貯蓄していたジウの血が尽きかけているからに違いない。
だが、残念だったね。僕はジウを彼らの元に返してやる気なんて、これっぽっちもない。出会ったばかりの頃ならばいざ知らず、ジウの魅力を毎日思い知らされているこの僕には、もうジウを手放すことなんてできやしない。たとえジウが教会に戻りたいと僕に訴えたとしても、僕はジウを手放す気なんて毛頭ないのだ。
かわいいジウ。かわいそうなジウ。僕のような化け物に捕まってしまうなんて、つくづく彼女は神から見放されているらしい。
誰よりも神に愛されるべき『聖女』が、誰よりも神に厭われる夜の眷属に愛されるなんて、とんだ皮肉もあったものだ。
ジウがそばにいてくれるからこそ、僕はもう寂しくはない。それは本当のことだ。その通りだとも。
けれど、だからこそ余計に、僕は足りないと感じていることがある。
ジウは僕のことを慕ってくれているけれど、その想いは恋ではない。恋などという美しくも醜い想いからは程遠いものだ。
崇拝、とでも呼ぶのが近いかもしれない、とても曖昧な感情なのだろう。あるいは生まれたばかりの雛鳥が初めて見たものを親と思い込むような刷り込みという本能か。どちらであるにしろ、それは僕が欲しいものではない。
だから、まだ駄目だ。
僕はジウのことを花嫁と呼び、彼女もそれを受け入れていてくれるけれど、ジウは本当の意味ではまだ僕の――吸血鬼の花嫁ではない。
『吸血鬼の花嫁』。それは単なる吸血鬼への血の提供者という役割だけじゃない。吸血鬼は、その永き生の中で、たった一人だけ、自身の血を分け与えることによって、互いの若さと寿命を共有することを許されている。誰に許されているかって? さて、神様とやらにではないかな。知ったことではないけれど。
なんであるにしろ、僕はジウの血を貰うことはあるけれど、僕からジウに血を与えたことはない。すなわち、そういう意味ではまだジウはただの人間であり、『吸血鬼の花嫁』ではないのだ。
ジウは愛情に飢えている。たとえるならば枯れかけの野花だ。ならば僕は、その花が枯れないように、その花が蘇るように、望んでくれる限りいくらでも愛という名の水をジウに捧げよう。そうしていつかジウ・ホリィという名の花が咲き誇ったら。その時、どうか僕にその花を手折ることを許してほしい。
ジウが僕に向ける想いが、崇拝から、恋慕に変わった時。その時こそ、僕は今度こそジウを本当の意味での僕の花嫁として迎え入れるつもりでいる。彼女の中を流れる甘い赤き血を啜り、僕の中を流れる青い血を与え、そうして共に永遠を生きたい。ずっとずっと、一緒にいたい。
「旦那様」
僕を呼ぶ愛しい声にそちらを見遣れば、ワゴンを押しながらジウがこちらに向かってくるところだった。
片手を上げてみせると、ジウは嬉しそうに微笑み、ワゴンを僕が座る椅子の横に付け、テーブルの上にワゴンで運んできたティーセットを移動させる。
「もう準備できたのかい?」
「いえ、お菓子は今焼いているところです。少しお時間を頂くことになるので、先に紅茶のおかわりをと思いまして」
「そう。ありがとう、嬉しいよ」
僕の言葉にジウは笑う。その笑顔に、僕も笑う。
幸いなことにまだジウは人の子の中においてもまだ年若いことだし、たとえ彼女が老婆になるまで時間がかかったとしても構わない。僕だってこんな爺さんの姿なのだから、むしろちょうどいい。願ったり叶ったりだとすら言えるだろう。
「ジウ」
「はい、旦那様」
「愛しているよ」
「ふぇっ!?」
ジウの顔が熟れた禁忌の果実よりも色濃い赤に染まる。あわあわと慌てる彼女を、椅子から立ち上がりざまに引き寄せて、その額に口付けた。
驚愕と羞恥に完全に硬直する愛しい僕の侍女は、こんなにもかわいい。
僕だけの侍女。僕だけの花嫁。僕だけの、僕を孤独から救う、愛しい聖女様。