099:鬼が出るか、蛇が出るか
勝利を目の前にして、ストークナー公爵夫人には油断するような詰めの甘さはなかった。
慎重に、十年間作り上げた”自分”を崩すことなく、ブルクハルトを追い詰めていく。
「そう、エリザベスさま。
まぁ、懐かしいわぁ、エリザベスさま……あなた、ご存知?」
他国の大使が知っている訳はないが、相手がどこの誰かなど構わないのがストークナー公爵夫人だ。
「どちらのエリザベスさまでしょうか……」
ブルクハルトはやっとのことで白を切った。そこに容赦なく、ストークナー公爵夫人の嬉々とした声がかぶさる。
「エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザさまよ!
チェレグド公爵家の。
とても美しくてお優しい方だったわ」
まだトーマスが生まれる前の娘時代の話となると、ストークナー公爵夫人はいつも饒舌になる。その頃の彼女には、一点の苦悩も不幸もなかったからだろうと、多くのものは考えていた。本人的にも、それほど気を遣わず話せる話題であるから、楽だったのだ。
しかし、今日は違う。苦い思いをしながら、彼女はエリザベス・イヴァンジェリンを語った。
「あんなに素敵な女性はいませんでしたわ」
にこにことストークナー公爵夫人が褒めそやしたエリザベスなる女性に、近衛兵は素直に感心した。よほど出来た女性だったらしい。
聞けば王のかつての婚約者で、大変、似合いの組み合わせだったという。
「本当に、誰にでもお優しくて、どんな人にも親切で。下々のものまで愛情を注ぐ、理想的な王妃になったことでしょう。
あの方が嫌う人間なんて、きっとこの世にはいないというくらい!」
「……れ……」
耐えきれずに漏らしたブルクハルトの言葉を、すっかり聞いた者はいなかったが、ストークナー公爵夫人はその口の形がはっきりと『黙れ』と形作ったのを見た。そしてその通り、黙った。
話し始めた時と同じくらい唐突に話を止めた彼女の態度に、近衛兵たちは不審に思った。ベルトカーンの大使が何か失礼な真似をしたようだ。
公爵夫人は怯えた様子で、身を守る様に両腕で自分を抱きしめているではないか。
「妻が何か失礼なことを?」
それまで傍観していたストークナー公爵もここぞとばかりに空とぼけて聞いた。彼の夫人は”ジョン・ペイン”が一番、触れられたくない傷をえぐり、塩を揉みこんだのだ。
スカートの中のマリーナは、人の大事なものを質にとって弄ぶその言動は、ブルクハルトと変わらないと感じたが、それがこの窮地を脱出する為と思えば、批判も出来ない。
つまりそういうことなのだ。
人は自分や自分の大事なものを守るためには、多少の残酷さを持ち合わせ、許容しなければいけないのだろう。特に、この王宮では。王宮で生きるということは、生半可な覚悟と精神では無理なのだ。それが出来なければ、王宮から距離を取るか、大事なものを奪われ続けることに鈍感にならなければ耐えきれるものではない。
『花宮』に籠った王太后は前者で、ニミル公爵夫人は後者という訳だ。
暗闇。熱気。恐怖。ストークナー公爵夫人の白い脛。マリーナはスカートの暗がりの中で、王宮の闇を見た。
けれども――と、彼女は母を思った。
王宮から逃れ、自由になったはずのエリザベス・イヴァンジェリンは実に勝手な理由で、ある種、純情な”ジョン・ペイン”を弄んだ。彼女の行為は気まぐれで、誰の為でもないものだった。その残酷さは、なんの責任も覚悟もなく、ただ、残酷なだけのものだった。
それが、カール・ブルクハルトという化け物を生み出してしまった。
その化け物と言えば、まさか”あのお優しいエリザベスさま”に蛇蝎の如く嫌われた挙句、いいように利用された上で、見向きもされなかった過去など口に出来ない。
悔しさと恋慕の情。憎しみと憧憬で、ブルクハルトの鋭さが鈍る。
「いいえ……急用を思い出しましたので……」
「そうですか? それならば良いのですが――」
ブルクハルトは逃げるように王太子の居室から去った。
残された近衛兵たちは清々したようだが、ストークナー公爵夫妻はまだ気が抜けない。
「どうやら妻がブルクハルト大使の気に障るようなことを言ってしまったようですね」
最愛の妻が他人に誤解されたことに心を痛めたようなストークナー公爵は、震える夫人の手を握った。
「トーマスはどこ? トーマスが帰ってこないの。
誰かが連れて行ったのよ! あの怖い人? それとも、あなた? あなたたち?」
夫の手を握りながら、公爵夫人は自分たちを取り囲む近衛兵たちを見回した。
今度は彼らがトーマスを彼女から取り上げた極悪人に見えるようだ。近衛兵たちは一様に、夫人を案じ、疑われたことを悲しんだ。
「申し訳ありません、公爵閣下」
「いいや、君たちも仕事だ。妻は動揺しているようだ。こちらこそ、申し訳無い」
「ありがたいお言葉です」
「――妻を連れて行きたいのだが、構わないかな?」
ブルクハルトの傍目から見れば謎の反応に、ストークナー公爵夫人の変調は当然と受け止められた。
「勿論です。あの……夫人にどうか、お心穏やかに……と。
この間、私の小さな妹にまで、美味しいお菓子をありがとうございました」
「私も……妊娠した妻に、栄養のある食べ物と、温かい毛布を頂きました」
「この間、剣術の試合で怪我をしたら、恐れ多くも手当てを……」
近衛兵たちは自分たちの姿や視線が、ストークナー公爵夫人に恐れを抱かせないように、自主的に部屋の隅に退いて、後ろを向いた。
「皆、ありがとう。
――セシリア? もう大丈夫だよ」
「もうあの怖い人はいない?」
少女のようにあどけなく聞くストークナー公爵夫人のスカートの中にはマリーナがいた。
「ああ、もう行ってしまったよ。家に帰ろうね」
「ええ、帰りましょう。
トーマスが戻って来ているかもしれませんものね。迎えてあげないと。
手を貸して下さらない?」
それが合図だった。
マリーナは慎重に、ストークナー公爵夫人と一緒に身を起こした。とは言え、スカートの中である。中腰で移動することになった。
ストークナー公爵夫人もゆっくりと歩みを進めたが、この速度ではいつまたブルクハルトの目に止まるかもしれないが、急げば、マリーナの一部がスカートの中から見えてしまうかもしれない。
それでもなんとかして馬車に辿り着かなければ。
歩きの優雅さに対して、内心は焦っている三人を呼び止めたのは、一人の老人だった。
「失礼ですが、お待ちくださいませ、ストークナー公爵夫人」
ストークナー公爵夫人は、敢えて無視しようとした。錯乱状態にある時ならば、相手が国王でも無い限り、それは許されるからだ。
なのにスカートの中のマリーナが何かを訴えるように足首に触ったので、止まることにした。夫人が止まったので、夫の公爵もそれに倣い、彼らを引きとめた老人を見た。
「ローレン翁ではないか。妻の具合が悪くてね、急いでいるのだ」
王宮の外で育ったストークナー公爵は、着付け係のローレンスの手を煩わせたことはなかったこともあって、彼のひととなりをそれほど良く知らなかった。信用してもいいものか、そうでないかも判断出来ない。
ローレンスは公爵の戸惑いなどお構いなしに、ストークナー公爵夫人に直接、話しかけた。
「具合も悪そうですが、スカートの形も乱れています。お直ししましょう」
またもや足首を触られたストークナー公爵夫人は、マリーナに従うことにした。
「あら? 気付かなかったわ。お願いします」
驚くストークナー公爵をしり目に、夫人はローレンスが指定した小部屋に入って行った。
***
扉が閉まるとすぐにマリーナはスカートの中から出た。
「助かりました、ローレンスさん!」
腰を伸ばし、新鮮な空気を吸うと、生き返る思いがした。
「まだ助かったとは言えんぞ、お嬢ちゃん」
「……そうでした」
マリーナは改めてストークナー公爵夫人に向き直った。
「助けて下さってありがとうございます。
でも、これ以上は、ご迷惑になるばかりです。
どうかお二人で先に逃げて下さい」
「あなたはどうするの?」
「なんとかします……大丈夫です。必ずここから出ます」
ストークナー公爵夫人は、スカートの中から出て来たマリーナの表情が以前とは違うと思った。田舎から流されるように出て来た少女だったのが、今は王宮で生きる女のような、いっぱしの顔になっていた。
本人は気付いていないようだが、王妃やロバートに対するアルバート見た時、マリーナが抱いた不安と同じものだ。
大事な物を守る為に、別の大事な物を手放そうとしている。
自分のスカートの中から生み出された化け物とはまだ言えないものの、その卵のような娘に、ストークナー公爵夫人は危ういものを見た。しかし、まだ卵から何が生まれるかは未知数だ。
「そう……その方がいいかもしれないわ。
あの男は、私があなたを匿っているのを薄々感づいていました。
馬車に乗り込む時に、あなたの足が見えないか、きっと見張っているでしょう」
「はい。むしろ、公爵夫妻があの男の目を引きつけている内に、別口で逃げた方が確実です」
「私たちを囮に?」
「父の教えの一つでなのです。
『確実に獲物を手にしたい時は、餌はをけちってはいけない』そうです。
餌だなんて物言い、大変、失礼ですが……ですが、私がいない方が、ストークナー公爵夫人も無事に王宮から出られる可能性が高いと思うのです。
捕まるのは私だけでいいでしょう」
ストークナー公爵夫人はマリーナが合理的でありがながらも、人を気遣う気持ちをまだ失っていないことを確認した。
「そうね。あなたの父親の言う通りだわ」
「そうして下さい」
額に汗をかいた若葉の瞳を持つ娘が毅然と申し出ると、ストークナー公爵夫人は手を差し出した。
「では、先に逃げさせてもらうわ。
――あなた、気を付けなさい」
「分かっています」
「いいえ、分かっていないわ」
「ええ?」
ストークナー公爵夫人は自分の手を取ったマリーナを引き寄せ、耳元に口を寄せた。
「あなたらしさを忘れないようにね」
「どういう――」
意味ですか? と問う前に、ストークナー公爵夫人「もう行かないと」と言って、夫の元へと戻っていった。
「どういう意味だと思いますか?」
ローレンスが密かに集めた召使の衣装を着つけられながらマリーナが疑問を口にすると、ローレンスは服以外のことなど考えたり助言したりするのは億劫だと言わんばかりの態度で鼻を鳴らした。ストークナー公爵夫人の対応が、普通だったことすら、彼にはどうでもいいことなのだ。
「お嬢ちゃんに言われたことならば、お嬢ちゃんが考えることだ」
「――そうですね」
こうして助けてもらっているだけでもありがたいのに、それ以上を求めてはいけない。マリーナはさっぱりと諦めた。
「さて、出来た」
女性の着付けは専門外と言いつつも、そこはローレンス翁である。小道具に洗濯物の入った籠を持てば、どこからどう見ても下働きの少女だ。
「ありがとうござます」
「礼はいらん。殿下を頼んだ」
「ローレンスさんはどうなさるのですか?」
「儂? 儂はここにいる。ここにしか居場所はないし、ここ以外、行きたい場所もない」
「なぁに、儂のことなど、誰も気にせん」とローレンス翁は、卑下する訳でもなく、むしろ誇らしそうに笑った。存在が目に付くような裏方など、裏方とは言えないという信念があるようだ。
「殿下を連れて、必ず戻りますから」
ローレンスに報いるには、ボタンの数が多い王太子以外にはないだろう。
そう言って、マリーナは一人、敵陣となった王宮を突破した。




