098:疑心暗鬼を生ず
アルバートが無事に脱出した一方で、マリーナはストークナー公爵夫人の巨大なスカートの中に隠れて難を逃れていた。
暗くて蒸し熱いが、見つかる訳にはいかない。
早く近衛兵たちが行ってくれればいいのに、彼らは王の命令で、王太子の居室を捜索し始めた。
その中の一人が革命派の新聞を見つけ、同僚たちに相談する声が聞こえる。
「これ、どうする?」
「どうするって……これが謀反の証拠な訳ないだろう」
「それは分かっているが、見つかった以上、上に報告しなければならないだろが」
「上? 上って誰だよ。
陛下は”花麗国”の愛人とベルトカーンの大使のいいなりだ……王妃よりも性質が悪い」
「王妃さまにも幽閉の沙汰が下ったらしい」
「これで殿下に有罪が確定なんかしてみろ、一大事だぞ」
ストークナー公爵夫人が正気ではないと思っている近衛兵たちは、彼女の存在を気にせず本音を漏らす。
「これからどうなるんだろう」
「分からん」
「とりあえず、この新聞は見なかったことに――」
戸口の近衛兵が咳払いをした。
夫人はともかく、夫のストークナー公爵に聞こえたらまずいと思ったのか。
――そうではなかった。
「なにか見つかりましたか?」
口調は丁寧だが、どこまでも冷たい声音がする。
ベルトカーン大使・カール・ブルクハルトである。
近衛兵は自らの職務違反を知られることと、ブルクハルトへの反発から押し黙った。そもそも、自国の王太子を庇うことは近衛兵としての職務に触れるものではないはずだ。
「特にありませんね」
「ブルクハルト大使。失礼ですが、こちらには何用で?」
他国の大使に命令される筋合いはない。近衛兵は苛立った。
「アルバート殿下の身柄は”保護”出来た様子ですが、ジョン・グリーンについての報告がまだだったので。
こちらの調べでは、あの小姓こそ、アルバート殿下を唆した疑いがあるのです。
彼を拘束して事情を聞けば、殿下の無罪が証明されるかもしれないということを、教えにきたのです」
ブルクハルトの言葉に、エンブレア王国の近衛たちがざわめく。誰しもアルバートを助けたいと思っている。その気持ちを利用して、”ジョン”を捕まえさせようとしているのだ。マリーナは見つかった時のことを想像して身震いした。
「先程も聞かれたが、ジョン・グリーンなる小姓は、すでに王宮を辞している」
ストークナー公爵が進み出た。彼はブルクハルトが自身の夫人を舐め回すように見ているのが気に入らなかった。ましてや、そのスカートの中にはジョン・グリーンことマリーナ・キールが隠れているのだ。まさか公爵夫人のスカートを捲り上げようとはしないだろうが、気が気ではない。
ブルクハルトも強引にストークナー公爵夫人の身を調べることは出来ないことは重々、承知である。
そこで、マリーナが自分で出てくるように仕向けることにした。
「ではチェレグド公爵の元に帰ったのでしょうか。
ストークナー公爵、彼はチェレグド公爵の縁故と聞きました。
小姓を通じて、アルバート殿下を陥れようと画策したのは、もしやチェレグド公爵ではないでしょうか?
王妃さまと親しかった者たちの多くが、チェレグド公爵の元にはせ参じていると聞きます。
なんといっても、チェレグド公爵家は先々代から王妃さまに対し、反発していたではないですか」
ブルクハルトの言葉は”毒”だ。”陸軍”近衛兵たちは、アルバートを助けたいあまりに、”海軍”大臣チェレグド公爵をも犠牲にしても構わないという雰囲気になった。
「チェレグド公爵はそのようなお方ではない」
ブルクハルトを、と言うよりも、近衛兵たちを一喝するようにストークナー公爵が言った。
黒幕はブルクハルト自身ではないか。それなのに、こうしてあらゆる場所に疑心暗鬼を撒き散らしている。
ストークナー公爵の憤慨に、ブルクハルトは臆することなく、さらに毒を浸み込ませていく。
「では、あの小姓の独断という訳ですか?
見た目は可愛らしい少年のようだが、中身は魔性のようで、殿下をすっかりと誑かしてしまっていましたね。
アルバート殿下は随分とご執心のようだ。心配していましたが……恐れていた通りになってしまった」
スカートの中で、ストークナー公爵夫人がマリーナを蹴った。怒りに任せて飛び出してはいけない。
アルバートが”ジョン”は自分を見限って出て行ったと言った時も、マリーナは蹴られていた。
何を言われても、ここで我慢するしかないのだ。マリーナは唇を噛む。気持ちが悪い。ストークナー公爵夫人のスカートの中は安全かもしれないが、まともな思考をするには新鮮な空気が足りていない。それでも必死に、彼女は理性を保とうと努力し続けた。
ブルクハルトは何がなんでも、”ジョン・グリーン”を捕まえたいようで、容易に引き下がろうとはしなかった。
王太子の居室をずかずかと進んだ。
「ジョン・グリーンなる小姓は、王宮を辞したと聞きますが、その姿が門から出るのを誰も見ていない」
「小姓一人の出入りなど、誰も気にしていなかったのでしょう。
なにしろ、ここ最近、アルバートの警護すらままならない有り様だった。
なぜそんなにあの子どもに拘るのですか? ただの子どもですよ」
ストークナー公爵は夫人とブルクハルトの間に立った。
「ストークナー公爵閣下こそ、いやにあの少年を庇いますね。
そう言えば……あのジョン・グリーンという魔性の小姓は、公爵夫人のお気に入りでもありましたね」
ブルクハルトは意味ありげにストークナー公爵夫人に目を向けた。まるで操られるように近衛兵たちも、そちらを見る。だが、無垢なるストークナー公爵夫人の表情に、皆、一斉に恥じたように目を逸らした。ただ、ブルクハルトだけは、彼女の中に隠されたものを見つけ出そうとばかりに見つめた。
「トーマスさまに似ておられますか?」
金髪碧眼だったトーマスと栗色緑瞳の”ジョン”は似ていないのを分かっていての質問だった。ただ、”トーマス”という名前を出すことでストークナー公爵夫人の感情を揺さぶりにかかったのだ。
ジョンが自分から出てこないのならば、公爵夫人から差し出してもらう。大きく膨らんだスカートを、ブルクハルトは疑っていた。
「トーマス? トーマスはどこに行ったの?
すぐに帰ってくるって言っていたのに」
ストークナー公爵夫人はブルクハルトの挑発を真っ向から受けて立った。
彼女のブルクハルトに対する心中は穏やかではなかった。
マリーナ・キールの懺悔が本当ならば、彼女の息子、トーマスを苦境に追いやる片棒を担いだ”ジョン・ペイン”などに、負けるわけにはいかないのだ。
公爵夫人の足が震えているのを知っているのは、スカートの中にいるマリーナだけだった。
表向き、ストークナー公爵夫人は狂気を装い続けた。
「トーマスさまは海にいるとお聞きしています」
「……そうよ。トーマスは海にいるの。私の可愛いトーマス」
「そんな可愛いトーマスさまに、王妃さまは酷いことをなさりましたね」
王妃が健在の時ならば、危険な発言だったが、今頃はもう別の近衛兵に連行されているであろう彼女を、誰も庇うものはいなかった。
ただ、一人だけ、ストークナー公爵夫人がその身を案じた。
「王妃さま? 王妃さまはお元気で?」
日頃から、トーマスにまつわる王妃の所業についての噂を、ストークナー公爵夫人は徹底的に無視していた。王妃の名を口にして、彼女の心を惑わせようとする者が多かったからだ。ストークナー公爵夫人は決してそれにのらないようにしていた。王妃の名で彼女を利用しようとするものは、味方ではない。
今回のブルクハルトのほのめかしも、なんなくあしらうストークナー公爵夫人だったが、スカートの中のマリーナはそのやり方に腹が立っていた。
人が大切にしているものを、誰かが誰かを守ろうとする気持ちを利用して、心を操ったり、裏切らせたりするなんて、やり口が汚い。
「王妃さまは捕まっておしまいになりました」
ブルクハルトは『良かったですね』と言外に含ませたものの、やはりストークナー公爵夫人の態度は変わらない。
「お可哀想に……王妃さまはお可哀想な方だわ」
「そうお思いになられますか? もしかすると王妃さまはトーマスさまへの仕打ちを教えてくれるかもしれませんよ。
私が得た情報では、あのジョン・グリーンの身内が関わっているそうです――」
ベルトカーンの大使が得るには不自然な情報だったが、近衛兵はその内容に驚き、隣の同僚とおしゃべりをする者や、改めて”ジョン”を探そうとする者などが現れた。
ストークナー公爵夫人はマリーナが素直で愚かな娘だったことを歓迎した。
あの娘があらかじめ真実を白状していなかったら、こうも平静に狂気を演じられなかっただろう。
「王さまは本当なら別の方と結婚するはずだったの……ああ、そうよエリザベスさまだわ!」
突然、母親の名前を出されたマリーナは、ストークナー公爵夫人が自分をブルクハルトに売り渡すつもりかと警戒した後、思い直した。
信じよう、と。
マリーナは胸の前で手を握り、祈るような気持ちで、次の展開を待った。
エリザベス・イヴァンジェリンの名前を出されたブルクハルトは、マリーナ以上に動揺していた。
常に余裕を持って人をあしらってきた男の顔色が代わったのを見て、ストークナー公爵夫人は微笑んだ。
その笑みは、宣戦布告だった。
「ジョンは可愛い子だわ。あの子、エリザベスさまに似ているの。私の憧れの女性だったわ。
ジョンの瞳はエリザベスさまに似ているのだわ」
近衛兵たちは、唐突に出て来たエリザベスいう、ジョンほどではないが、よくある名前の人間に心当たりはなかった。
けれども、ジョン・ペインことカール・ブルクハルトにはあった。
「エリザベス……さま……だと?」
その一音一音を発声する時のブルクハルトの崇めるような調子と苦しげな様子に、ストークナー公爵夫人は確信した。この男はエリザベス・イヴァンジェリンが関わると、冷静ではいられない。どんなに努力しようとも、感情が先行する。そうでなければ、他国の大使として近衛兵に白眼視されてもなお、”ジョン・グリーン”捕縛に拘り、この場に来たりはしないだろう。彼にとってエリザベス・イヴァンジェリンは今を生きる動機でありながら、過去に捕らわれ続ける楔。最大の弱点であった。それは彼女にとってのトーマスと同じ存在。
違うのはストークナー公爵夫人は十年という年月、絶えず王妃を前にし、トーマスの名に触れてきたことだ。
だが、人知れず生きてきた”ジョン・ペイン”の前でエリザベス・イヴァンジェリンの名を出す者などあろうはずがない。耐性がなかった――。
上手くこの場から逃れられるかもしれない。
ストークナー公爵夫人の足の震えが止まったのを、マリーナは見た。




