097:芸は身を助く
「サビーナの産む子どもを王太子にするには、サビーナを王妃にしなければならない。
ロザリンド王妃への重なる疑惑は、彼女を王妃の座から引きずり下ろすために仕組まれたことだろう」
ストークナー公爵は衝立の蔭でマリーナとお茶をしている自身の夫人の方を見た。今や自由に動けない王弟は、夫人を迎えに来たと言う理由で甥の元を訪ねていた。ついでに、マリーナをこっそり王宮の外に連れ出せる。
けれども、アルバートの身柄はどうすることも出来なかった。ストークナー公爵は、その身を案じているのだ。
「そうでしょうね。
そして、ベルトカーンの息がかかったサビーナの子どもがエンブレア王国の王位を継ぐ……」
ベルトカーン国王はいずれその子どもからエンブレア王国を取り上げるのだ。
そう言いたげなアルバートに、さらに深刻な顔でストークナー公爵は言った。
「もしかしたらサビーナの子どもの父親は、カール・ブルクハルトかもしれん。
姉の話を聞いただろう? 『花宮』に出る幽霊の話だ。あれは、”ベルトカーンの烏”がサビーナの元に通っているのを示唆していたのかもしれない」
ストークナー公爵の意見に、その夫人が衝立の向こうから歌うように疑問を挟んだ。
「いいえ、あなた。
あの娘、もしかしたら妊娠すらしていないかも」
「え?」
アルバートがすっかり正気になっているストークナー公爵夫人を見る。
「オーガスタさまもそうおしゃっていました。
殿下。私も、オーガスタさまも、子どもを産んだ身です。
サビーナは妊娠しているようには見えません」
「嘘をついていると? そんな必要が? バレたら困るのはサビーナ嬢ではないですか」
「いいや、アルバート。ブルクハルトは目論見さえ達成出来れば、サビーナが妊娠していようといまいと関係ない。
いざとなれば、流れてしまったと言うだろう」
「それはどういう――」
その時、王太子の部屋の扉が開けられた。
近衛隊の赤い制服が秩序正しく”乱入”してきて、アルバートの前に立つ。
「王太子殿下、申し訳ありませんがご同行を」
アルバートの所属する連隊ではないが、見知った顔の人間だった。近衛兵は自らの職務と感情の狭間で苦しんでいるように見えた。
訳も無い。これから自国の王太子を連行しなければならないからだ。だが、国王の命令だった。
たとえ王弟・ストークナー公爵が「無礼な!」と立ち塞がっても、実行するしかない。
「私を逮捕すると?」
落ち着いて対応しながらも、アルバートは『しまった』と舌打ちしたい気持ちだった。
「はい、殿下。陛下のご下命でございます。ご容赦を。
それから、小姓を一人、連れてくるように命ぜられております。
”若葉の瞳”を持つ小姓を――ジョン・グリーンを」
アルバートはそれだけは拒否しなければ、と思った。マリーナを望んでいるのが王なのか、カール・ブルクハルトことジョン・ペインなのか分からないが、エリザベス・イヴァンジェリンに因縁のある男に、彼女を渡す訳にはいかない。
けれども、こう囲まれては、どうやって逃がせばよいのだろう。
「まぁ、怖いわ……」
ストークナー公爵夫人の怯えた声に、近衛兵は剣先を床に向けた。ストークナー公爵夫妻に関しては、特に命令を受けてはいなかった。まして”憐れな公爵夫人”には常日頃、同情と敬意をもっていたからだ。
「ジョン・グリーンはどこですか?」
近衛兵は部屋を見回した。いつも王太子の側から離れない小姓の姿がなかったからだ。何人かが、隣の隠し部屋を見たが、そこにもいなかった。
アルバートも忽然と姿を消したマリーナを目で探した。すると、ストークナー公爵夫人と視線がぶつかる。夫人は小首を傾げて、目を二回、まばたきした。アルバートは「あっ」と思った。それから素早く立ちあがると、近衛兵に自らの身を委ねた。
「小姓は昨日、出て行った。もとから体調が優れず、一度、復帰したが、やはり駄目だったらしい」
「左様でございますか」
「ああ、今頃は、どこにいるのか――正直、体調不良は口実で、こうなることを見越して、そうそうに逃げ出したのだ」
ガタン、と音がして、ストークナー公爵夫人が立ちあがり、手を伸ばす。「ああ、トーマス、どこに行くの?」
その手を、アルバートが握った。
「”母上”、大丈夫ですよ。少だけ皆と乗馬に行くだけです。彼らは私を迎えに来てくれたのです」
ストークナー公爵夫人にはアルバートがトーマスに見えるのだ、と近衛兵たちは知っていた。だから、自分たちが彼女の大事な息子を奪う悪者になってしまったことを悟った。これ以上、愚図愚図していたら、ストークナー公爵夫人の精神状態が悪くなるだけで、それを見たいと望む者はいなかった。
小姓の身柄はいずれ探し出すとして、今は王太子を連れて行こうということになった。
国王にとってアルバートは王妃とともに、革命派に組した謀反人という理解であったが、近衛兵たちにはそうは思えなかった。
アルバートはトイ商会から王宮に戻る時の馬車を「まるで護送車のようだ」と愚痴ったが、本物の護送車は、それよりもずっと普通の馬車だった。窓も目隠しはされず、鍵も簡単なものだった。そこに近衛隊の気持ちが表れているようだ。
***
一人、馬車に乗ったアルバートは、自分がどうすべきか考えた。
サビーナの妊娠を理由に、ブルクハルトは王に働きかけ、王妃とアルバートを廃位させるつもりなのだ。その後に、妊娠は偽りだったと判明したら王はどう動くだろうか。
彼の知る父王は、自分が決めた事を覆すのが嫌いだ。正確にいえば、間違いを認めることが出来ない。
サビーナは処罰されるが、ロザリンドも復位することはないだろう。
あるいは、ストークナー公爵の言う通り、今回は残念だったが、次の機会があるとして、そのままサビーナが王妃になるかもしれない。偽りが明らかにならなければ、王の子を孕んだ娘は、王妃の他にはサビーナしかいないのである。王は可能性にかけたいだろう。
もしも、サビーナが本当に王の、あるいは、王のと称する子どもを妊娠出産した場合、彼女とその子を通じて、ベルトカーンが介入してくるはずだ。
どちらにしても、ブルクハルトの思う壺となる。
それを阻止するには、もはやストークナー公爵かウィステリア伯爵に、現王を追放して代わってもらうしかない。
ただし、どんな正当な理由があろうとも、民衆からの支持が高かろうとも、王位を簒奪した者と後々まで伝えられるだろう。二人は歴史の評価よりも、国の安定を優先してくれる人物だが、ベルトカーン王国は僭主と誹って憚ることはないだろう。
ストークナー公爵は愛する妻以外の女性と結婚する必要が出てくるし、ウィステリア伯爵は人気があるが、長くエンブレア王国から離れている身であった。反発を予想されなくもない。
そんな未来を、二人の内のどちらかに課す前に、自分には出来ることがあるはずだ。王位継承順位第一位として、まずは、自分が動くべきだ。
「このまま、幽閉される訳にはいかない」
折しも、彼の想いに応えたように、馬車が止まった。
アルバートは扉に手を掛けた。外から少年のまだ甲高さの残る声が聞こえた。
「あいたたたた! どうしてくれるんだよ! ぶつかったじゃないか!」
「うちの弟を引き殺そうとするつもり! なんてひどい奴!」
あの路地裏の姉弟だった。
真っ当な職に就いたはずなのに、また路地裏に戻って”当た屋”家業を始めてしまったのか。
――いいや、違う。彼らはそんな人間ではない。
アルバートが思った通り、馬車の扉の鍵があっさりと外され開くと、帽子を目深にかぶった男が彼に早口で言った。
「殿下、お迎えに参りました。急いで出て下さい」
止まった馬車に大勢の人間が集まって来た。いつものようなことでありながら、その動きは早く、人数は多く、それでいて秩序立っていた。
近衛兵はあっという間に丸腰の民衆に囲まれ、なす術なく当惑している。
「ありがとう。しかし、私がいなくなっては、近衛たちは大丈夫であろうか」
先程まで自力で逃げようとしていたのに、いざとなると、他人の心配をしてしまう人の良い王太子に、迎えに来た男、パーシー・ブラッドは肩をすくめた。
お偉いさんは、自分の利益の為に、下っ端は無情にも切り捨てるくらいの冷たさがあった方が、物事は上手く回ることもある。
そういう点で、彼の現在の上役、チェレグド公爵は容赦がなかった。
「大丈夫。代わりがいます」
「代わり?」
路地裏から”王太子の外套”を羽織った金髪の男が走って来た。アランだった。
「幽閉先には誰か入っていればいいんですよ」
「ばれたらただでは済まないぞ」
心配するアルバートに、アランは余裕の笑みで答えた。
「平気ですよ。近衛兵たちだって、自分たちの失態を王に知られたら処罰されるでしょう。
ならば王太子は”無事に”幽閉しましたと報告出来た方がいい」
「そのあたりのことは、こいつが手八丁口八丁で上手く丸めこみますよ」
「そうそう、こういうのははったりが大事です。私の大得意ですね。お任せ下さい。
王太子の幽閉先なら、三食昼寝付きの快適な部屋でしょう。
そこで絵を描いて大人しく過ごしますよ」
「いやぁ、気楽なものですね」とアランは笑いながら、アルバートを馬車から引きずり下ろし、急いで外套を交換した。
「私もあなたも同じく”花麗国”の王族の血を引いている身です。
見た目もなんとなく似ている。ごまかせるでしょう。皆さん、協力してくださいますよ」
そこに男がもう一人、やってきた。服装は質素だったが、チェレグド公爵に他ならない。苛立っ様子で、片手を振った。
「何を愚図愚図している。早くしろ」
アルバートとチェレグド公爵、パーシーは走って路地裏に駆け込んだ。チェレグド公爵が合図をすると、馬車に押し寄せた人々は、蜘蛛の子を散らすように三々五々に去って行った。
近衛兵たちは困惑しつつも、馬車の中に”王太子”がいることを確かめると、急いで馬車を目的地に走らせた。
馬車を見送ったチェレグド公爵は自虐的に呟いた。
「やれやれ、まさか人生で二度も賊として馬車を襲う手引きをすることになるなんてね」
「――なかなか、似合っているぞ、チェレグド公」
「勘弁して下さいよ、殿下」
そこにもう一人、馬車を止めた立役者がやって来た。路地裏のジョンだった。以前よりも、身なりが小ざっぱりしていたが、折角の服に泥が付いていた。
「怪我は無いか?」
「ある訳ないだろう。お手のもんだよ」
チェレグド公爵の労わりに、路地裏のジョンは人差し指で鼻を拭った。少年はつい最近まで、馬車の前に飛び出して怪我をしたふりをし、金を巻き上げる”当たり屋”を生業にしていた。
「ああ、よくやった。
しかし、今後、もう二度と、このような手段で馬車を止めてはならんぞ」
「やれと言ったり、やるなと言ったり、都合がいいな」
「それは分かっている。だが、お前にはもう、身を危険に晒して馬車を止めるる必要はないだろう。
今回のことを限りとして、きっぱり引退しなさい」
「はいはい、分かったよ」
ジョンの返事に、チェレグド公爵は眉を上げた。
「もしもお前がまた、”当たり屋”のような真似をしたと聞いたら、この私自らが、お前を鞭打ち二十回の刑に処す」
海軍艦長として、言うことを聞かない水兵たちを鞭打った経験のあるチェレグド公爵の言葉に、ジョンは青ざめて「決して、二度と、もうこんな真似はしない」と誓った。
しかし、ジョンはその誓いを破り、もう一度、馬車を体当たりで止めることになる。
昼間は造船所で懸命に働き、夜は学校に通い勉強をし、ついには船の設計士にまでなった青年は、貴族の娘と相思相愛になるものの、娘の父親の反対により、離れ離れにされそうになった。娘を運ぶ馬車を、ジョン青年は無理矢理止め、中から自らの花嫁を奪い取ったのだ。
それを聞いたチェレグド公爵は、約束通り、鞭を持ってジョンに会いに行き、彼を二十回、打ちすえた。
ただし、あれから二十年経ち、老人となったチェレグド公爵の力は弱々しく、屈強な青年に育ったジョンに僅かの打撃しか与えられなかった。最後の方は、腕も上がらず、ただ鞭で撫でるようだったという。
そして、”国王”から許しを得た上で、ジョンが嫁にした娘の家に赴き、正式に結婚を認めさせたのだが――それはまた別の話である。
まだ自らの将来を知らないジョンは、同じように不安定な未来の王太子に挨拶すると、急いで、仕事場に戻っていった。




