079:下衆の勘繰り
そんなある日、王宮で舞踏会が開かれた。それは社交の季節の開始を告げる毎年恒例の行事だった。伝統とは得てして困ったもので、”変える”ということが難しいものだ。宮内省の人間は迷ったものの、これまで通り、二人の人物を同時に呼ぶことになった。
それが、”花麗国”の大使とベルトカーン王国の大使である。
両者は公には敵対関係にはなってはおらず、エンブレア王国も、ベルトカーン王国との国交を維持し、大使の滞在を許していた。ここでベルトカーン王国の大使一人を除け者にすることは外交上も、慣例上も出来なかったのだ。
彼ら二人の他にも、神聖イルタリア帝国にサイマイル王国その他の大使、及びエンブレア王国の貴族たちが招待された。
その多くの者たちがベルトカーン王国のやり方を快く思ってはいなかった。衆人敵視の中、ベルトカーン王国の大使はどんな振る舞いを見せるのか、マリーナは関心を抱いていた。
ベルトカーン王国の大使・カール・ブルクハルトは、自国の伝統的な襟の高い、かっちりとした黒い服を着た、黒髪黒目の男だった。そのせいで、手に巻いた白い包帯がやけに目立った。
本人は何の気負いもなく、余裕を感じさせる微笑みを浮かべている。
四十近い男だったが、美丈夫で、どことなく人を魅了する色気があった。
「気になりますか?」
若々しい美青年である王太子が、対抗するように見つめているのがマリーナには気になった。
「ジョンだって」
そう言うマリーナも、ブルクハルト大使に目を奪われていた。
「あの人、海の香りがします」
かすかなものだったが、マリーナの敏感な”海の男”好きの性癖が反応したのだ。だが、初めてそれに不快感を抱く。
「海の香り?」
アルバートはマリーナの”海の男”に関する嗅覚が、常人には想像できない程、鋭いことを、もう嫌というほど知っていた。
「エンブレア王国と本国を船で往復しているから?」
島国であるエンブレア王国は海で、”花麗国”やベルトカーン王国といった国々のある”大陸”とは離れてはいたが、隔絶されるほどの距離ではなかった。もっとも近い場所では、天気が良ければ向かい岸が見えるほどで、船を使えば、一日で往復が可能であるのだ。
だからこそ、”大陸”の情勢は、エンブレア王国にも強い影響を及ぼす。
「そうなのですか? 正直、それだけでは、”海の香り”はしないと思います」
ただ船で往来しているだけの人間に、なぜ自分が反応するのか。
大体、『夕凪邸』に住んで居た時は、そんな性癖、気づきもしなかったから、自分でも、基準を把握出来ていない。
だが、確かに、カール・ブルクハルトと言う男からは、”海の香り”がした。
そんなマリーナにアルバートも思案顔で首を振る。
「分からない。基本的に駐在大使は任期中、エンブレア王国を離れたりはしないのだが――」
二人の話はそこで終わった。
アルバートには王太子の職務があり、マリーナにはストークナー公爵夫人の話し相手という役目が任されていたからだ。
「すまないねぇ。
妻が君のことを気に入ったようで」
ストークナー公爵はマリーナを見ると歓迎した。
すでに何度もストークナー公爵夫人と同席し、マリーナはすっかり気に入られていた。彼女はストークナー公爵夫人の話を誰よりも熱心に聞いたからである。ニミル公爵夫人やチェレグド公爵夫人もストークナー公爵夫人と懇意にはしていたが、二人とも自身の息子が健在であったため、後ろめたさを感じたり、あるいは、我が身に置換えて怯えてしまうのか、どこか身を入れて対応出来ないようなのだ。
マリーナも母親のことがあるので、心穏やかではなかったが、次第に、ストークナー公爵夫人の話が、とてもただの妄言とは思えず、気になってきていた。
彼女の話は、脈絡がなく妄想のような内容だったが、マリーナにはかつて聞いたことがあるような話でもあった。初めて聞いた時に思ったように『夕凪邸』の庭先で、かつての船乗りたちから聞いた話に似ているのだ。
脈絡がないのではなく、船で広い海を移動している。
妄想ではなく、海や遠い国には、エンブレア王国だけに留まっている人間には計り知れないような生き物や文化がある。
そう思って話を聞いていけばいくほど、ストークナー公爵夫人の話は”本当の匂い”がしてきた。
マリーナが自分の話を真剣に聞いているのに気が付いたのか、ストークナー公爵夫人はとても嬉しそうに、次々とトーマスの手紙を見せてくる。
その中に、マリーナにも覚えがある海戦や出来事を思わせる記述が、ちらほらと出てきた。トーマスを名乗る手紙の主は、船乗りだ。それも、現役で海に出ている人間にほぼ間違いない。
「あら、ジョン。今日も来てくれたの? 嬉しいわ。
セシリアも喜んでいるでしょう。
ほら、”トーマス”は忙しいようだから」
ニミル公爵夫人も”ジョン”の姿のマリーナを厚遇した。個人的に気に入っていることもあるのだろうが、いつも心配している弟の嫁がこの少年といると楽しそうなことが、何よりも嬉しいようだ。
アルバートは三公爵夫人に一番に挨拶に来たものの、舞踏会の人混みに消えて……ひどく目立つので、そうは簡単に見失ったりはしないが、とにかく、近くには居なくなった。
またしてもマリーナは三公爵夫人のスカートに埋もれることになった。
「トーマスから手紙が来たのよ」
楽しそうにストークナー公爵夫人がマリーナに手紙を見せた。ストークナー公爵が意味ありげに微笑んでいるのを見ると、どうやら、彼が夫人のためにトーマスのふりをして書いたのだな、と周りの人間は思った。
目の前に手紙を出されたマリーナは、そこから”海の香り”がすることに気が付く。いつもより強く感じるということは、ごく最近、届いたものかもしれない。
「あら、今度の手紙ではなんと?」
「海賊からお姫さまを助けたのですって!」
ストークナー公爵夫人はニミル公爵夫人に朗らかに答えた。
「それはすごいわ! トーマスは立派な海の騎士ね」
「そうなのよ。お姫さまを連れて帰ってくるかしら?」
「どうかしらねぇ」
ニミル公爵夫人は、批判がましい視線を弟に向ける。今度の手紙は作り話にしてもよくない出来だと言いたいらしい。ストークナー公爵は珍しく姉を怒らせたことに対し、なぜか不可思議な微笑みを浮かべ、どこかに行ってしまった。
「帰って来るわ! きっと帰って来るに違いないわ!」
あまりに興奮するので、さすがにまずいと思ったのか、ニミル公爵夫人とチェレグド公爵夫人がなだめにかかった。今日は内輪の集まりではなく、外国からの客も多いのだ。それでも、ストークナー公爵は夫人を隠そうとはせずに連れて来た。「家に籠ってばかりではいけないと思うのです。皆さんにはご迷惑を掛けるかもしれないが、どうか親切にしてやって欲しい。妻も皆さんと会うと、どことなく機嫌が良く見えます」
ストークナー公爵に異を唱える人間はいなかった。それは親切心もあれば、彼女の姿があると王妃が委縮するからという意地の悪い気持ちからのものでもあった。
気付け薬をかがされているストークナー公爵夫人の隣で、マリーナは”トーマスの手紙”に気を取られていた。綺麗な筆跡だ。紙の質も悪くない。どころか、最高級品だ。なのに、揺れる船内で書かれたせいなのか、羽ペンの調子が悪かったのか、いくつかの染みがついていた。
今までの手紙に、こんな染みはなかった――。
「あれ?」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
チェレグド公爵夫人がマリーナに反応した。それから彼女がただ座っているのを見て、少しだけ眉を潜め、「悪いけど、お茶を用意してくれない?」と”小姓”に命じた。
マリーナは慌てて、言われた通りにする。
カップを受け取ろうとするストークナー公爵夫人の手が震えていた。
姉のミリアムのようにカップを落として壊さないように、マリーナがストークナー公爵夫人の手に、自分の手を添える。
「あら、ジョン。ありがとう。あなたは親切ね」
「いいえ、お役に立てれば嬉しいです」
ストークナー公爵夫人に面と向かって感謝されると、マリーナは申し訳ない気持ちになる。
自分は母親の罪滅ぼしの為に、彼女に親切にしいているのではないか。これは偽善ではないのだろうか。
それでも、彼女は出来ることをするしかなかった。
マリーナ・キールが母親のしでかした『罪』に良心の呵責に苛まれているのと同じように、自分の家族の『罪』をストークナー公爵夫人に償いたいと思っている人間たちが、この舞踏会にはまだいた。
それがラブリー男爵と同夫人である。言わずもがな、ロザリンド王妃の両親である。
おずおずと三公爵夫人の集まっているテーブルに近寄ってきた。
「皆さま……ごきげんようございます――」
挨拶に来たものの、それ以上の言葉が続かない。その心情を汲み、チェレグド公爵夫人が朗らかに言った。
「ごきげんよう、ラブリー男爵、夫人」
沈黙が訪れる。
「いつも美味しいお菓子をありがとう」
チェレグド公爵夫人が無理矢理ひねり出した話題がそれだったが、ラブリー男爵は有難さに顔を輝かせた。
「ありがとうございます。あれは妻の得意な菓子なのです」
「あらまぁ、奥さまがお作りに?」
声を上げたのはニミル公爵夫人だった。発した本人は純粋な驚きを素直に口にしただけだったが、聞く人間によっては嘲笑めいたものに受け取るかもしれない。
エンブレア王国では身分ある女性は台所に立ったりはしない。それは公爵夫人もそうだが、男爵夫人でもそうだった。それがラブリー男爵夫人は自ら台所に立ち、菓子を作り、それを振る舞っているという。
「はい。私は……その……菓子を作るのが趣味なのです」
趣味と言えば、男装も菓子作りも許されると思ったら大間違いなところが、エンブレア王国の貴族社会である。
そこら辺をまったく意に介さないニミル公爵夫人は呑気さを発揮して、言葉を続けた。
「とても美味しいわ。見事な腕前ですこと。ご商売が出来ますわよ」
ニミル公爵夫人の素直な感想だったが、これまた嫌味に聞こえなくもない。耳をそばだてて三公爵夫人とラブリー男爵夫妻の話を聞いていた周りから失笑が漏れる。
耳まで真っ赤になったラブリー男爵夫人を見て、マリーナは、王妃がニミル公爵夫人に苦手意識を持った理由の一端を垣間見た気がした。ニミル公爵夫人はおっとりとした育ちで悪気はないが、その身分から繰り出される言葉には、やや配慮を欠いたものがあった。
それに、ニミル公爵夫人は二人の子どもたちの人生を王妃によって弄ばれている。どこかしら思う所があって、それがにじみ出ているのかもしれないと、受け取る側が邪推してしまうのだ。
またもや訪れる気まずい沈黙を破ったのは、ストークナー公爵夫人だった。
「あの菓子はトーマスも大好きなのよ。トーマスも喜んで食べているの」
ラブリー男爵夫妻は顔を上げた。ストークナー公爵夫人は彼らを真っ直ぐに見て微笑んだ。
「また送って下さると嬉しいわ。私も、トーマスも嬉しいわ。心遣い、ありがとう」
娘の王妃がやったとされる凶行に関して、ラブリー男爵夫妻は心を痛めていた。王妃は男爵家出身を恥と思いながらも、実家の家格を上げるのを拒み、援助もあまりしていなかった。
王妃の実家でありながら、慎ましい暮らしを余儀なくされていたラブリー男爵家では、せめてもの気遣いをしたくても、公爵家に満足な贈り物を出来ないでいた。
そんな中、公爵夫人たちの気を惹いたのが、ラブリー男爵夫人の実家に伝わった作り方で焼き上げた、なんのこともない素朴な菓子だったのは皮肉な話だった。
恥ずかしいと思いながらも、娘のことを想う両親は、少しでも良く思って貰おうと、公爵夫人たちに付け届けをしていた。
一番の気がかりであるストークナー公爵夫人は、すでに拘ることすら忘れてしまったような状態ではあったが、だからこそ、ニミル公爵夫人の言葉よりも素直に、男爵夫妻の心に響く。
「ありがとうございます。明日にでも……」
「ええ! 明日にでも作ってお持ちいたします!」
「胡桃をたくさん入れてね……ねぇ、トーマスのお友だちのジョンの分もお願いしたいわ。
ジョンは胡桃が好き?」
突然、ストークナー公爵夫人に言われ、マリーナは戸惑いつつも頷く。ラブリー男爵夫妻はそこに”男の子”がいることに、ようやく気がついた。どこの誰かは知らないが、ストークナー公爵夫人の仰せならば、異存などあり得ない。
なぜかマリーナは王妃の母親の手作りの菓子を貰うことになってしまった。




