080:李下に冠を正さず
王妃の両親の次はサイマイル王国の大使。それから、神聖イルタリア帝国、”花麗国”の大使が三公爵夫人の元を訪れた。
目的は、ヴァイオレット妃の母親、ニミル公爵夫人へのご機嫌伺いであった。ヴァイオレット妃はサイマイル王国と神聖イルタリア帝国では、非常な人気と敬愛を集めており、二人の大使はその母親であるニミル公爵夫人に対しても、敬意を表したいという気持ちを抱いていた。
ストークナー公爵夫人にもチェレグド公爵夫人にも、丁寧な振る舞いをし、「互いに協力をして困難に立ち向かいたい」という旨を、隠すことなく表明していった。
対して、”花麗国”の大使は少し違った心境だった。
彼は自身が大使として国を離れ、エンブレア王国に駐在していることを有難いと思っている口であった。つまり、任期が終わっても、帰国するつもりはない。祖国が大使の交代について考えが至らない、それどころではない状況を歓迎していた。下手に任を解かれたら、亡命貴族になってしまう。それは嫌なのだ。大使は、優遇されながら、安全地帯にいられるという、絶好の立場だった。
であるから、最も自国のバイオレット妃の身を案じなければならないはずなのに、全くその情報を持ちえていないと言う、ある意味、己が非を認識しているラブリー男爵夫妻よりもニミル公爵夫人に対して、不義理な人物だった。
彼は自国民についても冷淡であった。革命家を称する民衆や、そこから逃れた職人たち、残るしか選択肢の無い農民は勿論、亡命してきた貴族たちも、口では労わりながらも、心では見下していた。
そんな”花麗国”の大使が、三公爵夫人のテーブルの前で、表面的に恭しく挨拶をしている時、一人の若い女性が歩み寄って来た。
コルセットをきつく締め、あどけない様子ではあるものの、大人びた妖艶さを醸し出している。髪の毛は暗い茶色で、ともすれば黒髪に見えなくもない。同じく、光の加減で茶色に見える瞳。
『ごきげんよう、大使さま』
「これはこれは……サビーナ嬢」
エンブレア王国の三公爵夫人の前で、”花麗国”語で話しかける令嬢に、大使はさすがに気まずい表情になり、三人の夫人に詫びるように視線を向けた。
ニミル公爵夫人は鷹揚に頷く。
”花麗国”の大使によって紹介されたサビーナ嬢と呼ばれた令嬢こそ、あのアランの従妹であり、王の愛人であった。
彼女は”花麗国”の亡命貴族で、この国に来て間もなく、エンブレア語を習得出来ていないのだ。おまけに、『花宮』で暮らしていれば、エンブレア語など、必要ない。
ストークナー公爵夫人もチェレグド公爵夫人も、幼さの抜けきれない少女のような娘に、目くじらを立てるような人間ではなかった。
第一、三人は”花麗国”語を自国語と同様に操れるので、特に不自由も不便もない。ストークナー公爵夫人は言語が変わったのも気づいていないように、流暢な”花麗国”語でトーマスのことを話しはじめた。
ただ一人、マリーナだけは、”花麗国”語で繰り広げられる会話に置いてけぼりになった。
サビーナはなぜ、この場所で大使に話しかけたのだろうか。それが気になる。大使と話したければ、三公爵夫人への挨拶が終わった後でも構わないのに。
おまけに、”花麗国”の二人が話しているのに、よりにもよってベルトカーン王国の大使が近づいて来る。
「話が弾んでいますね」
サビーナが優雅な身のこなしで、ベルトカーン王国の大使に場を譲った。控え目に伏せた瞳に、強い光が宿った。
ベルトカーン王国のカール・ブルクハルト大使の登場に、”花麗国”の大使はへつらう様に笑う。彼は自国のために、ベルトカーン王国の大使とやり合うつもりはないようだ。”花麗国”崩壊後は、ベルトカーンに擦り寄る腹積もりなのだろう。
チェレグド公爵夫人は失望した。これ以上、あの男に失望することなど無いと思ってはいたが、それでも、こうもあからさまに任務を放棄する様を見せつけられれば、そうなるであろう。むしろ、果敢に無害さを強調するようにへりくだって来る、目の前の男の方が、好感を抱きそうになるのが不思議だ。
――なるほどブルクハルト大使には魅力があった。舞台で言えば、人気のある悪役のような魅力だ。
「皆さまにはごきげん麗しく」
一人一人の夫人と目を合わせて行く。ストークナー公爵夫人ともしっかりと目が合う。ストークナー公爵夫人は茫洋たる笑みを浮かべた。
「まぁ、ごきげんよう」
愛想は良かったが、彼がどんな身分のどんな立場の人間が、分かっていないような雰囲気を、これでもかと出している。
ブルクハルトは笑いかけ、そのまま、彼女の隣に埋もれるように座っている小柄な少年に目を止めた。
ベルトカーンの大使に見られたマリーナは、俄かに緊張した。これまで誰も、彼女の存在に、率先して気がついた人間はいなかったのに。この男は、それに気がついたのだ。それはブルクハルトがどれだけ周りを観察し、些細な変化も見逃さないように目を配っているのかの証だった。
「”彼女”は?」
ブルクハルトはベルトカーン王国の人間だから、エンブレア語の”彼”と”彼女”を使い間違ったのだと、マリーナは思いたかった。
すかさずストークナー公爵夫人が歌うように答える。
「ジョンよ。ジョン……なんだったかしら? ブラウン?
トーマスの友だちなのよ」
マリーナはストークナー公爵夫人に引き寄せられ、抱きしめられた。豊満な胸元に顔が埋まる。同性だから良いものの、これが異性だったら問題だ。大体、傍目から見れば異性である。マリーナは慌てて抜け出そうとして、ストークナー公爵夫人に周りから見えない方の腿を抓られた。
あ……。
驚くマリーナを余所に、ストークナー公爵夫人はしっかりと彼女を抱きしめ、繰り返した。
「私の可愛いトーマスのお友だちなの。とっても可愛い”男の子”でしょう?」
まるで幼子を愛でるような言い方だったので、”ジョン”がストークナー公爵夫人に熱烈に抱きしめられていても、それは母親の愛情の延長のようなものと受け取るしかない。
ストークナー公爵夫人のドレスは昔の形で、コルセットに膨らんだスカートは標準装備であり、袖は肩から大きく膨らんだ上に、肘からはレースが贅沢に垂れ下がっていた。その袖がマリーナの顔をブルクハルトから隠していた。
「そのようですね」
可愛いと言われても、肝心の顔を見ることは出来なかった。
ブルクハルトは目を細めたものの、それ以上の詮索はせずに、ニミル公爵夫人に向き直る。
「ヴァイオレット妃のご消息はお聞きになっていますか?」
「いいえ」
ニミル公爵夫人はおっとりと答えた。”花麗国”の大使は、”王妃”の母親の前で、大汗を掻き始めた。彼は善人ではないが、悪人とまでも言いきれない程度の人物だった。隣に立つナビーナ嬢は慎ましやかな表情で控えていた。
「そうですか。
聞くところによりますと、未だ王城に留まり、幼い王のために看病をしているそうですね。
まったくもって見上げた女性です。
私もですが、我が王も誠に感心しております。王はヴァイオレット妃がサイマイル王国に嫁いでいる時より、ずっと感心しておりました。
なにせ、あの当時のサイマイル王と言えば、当代とは異なり、いささか放蕩のきらいがありました。それにもかかわらず、幼い身でよく仕えていると、と。
神聖イルタリア帝国での活躍は、言うまでもないことです。
今回のことでも、王は、何かお手伝いできることがあれば、是非、そうしたいと申しております。
そこでバイオレット妃の母上であるニミル公爵夫人に、妃の様子を伺うように申し付かって参りました」
思いもかけぬ提案に、チェレグド公爵夫人は何か裏があるのではないかと勘繰った。
彼女は夫のチェレグド公爵の姿を探す。ストークナー公爵でもニミル公爵でも構わない。が、二人ともサイマイル大使と遠くで会話しているし、夫のチェレグド公爵は舞踏会がはじまって今まで、姿を見ていない。下手な受け答えは出来ないというのに、困った事態だ。
対して、ニミル公爵夫人はブルクハルトにも気安く答えた。
「ありがたいお言葉ですが、私は娘からなんの連絡も受けておりませんの。
そちらの方がお詳しいのではありませんか?」
ベルトカーン王国は”花麗国”を手に入れようと、軍を国境付近に集結させている。ならば当然、情報も様々なところから入手しているはずなので、その指摘は正しかった。
「むしろ教えて頂きたいですわ。心配しておりますのよ」
言うほどそうでもなさそうなところが、ニミル公爵夫人の物の言い方だった。
「いやいや、皆さまはベルトーカンが”花麗国”に対して敵対的な行動を取っていると誤解しているようですが、それは主観的な意見ですよ」
「そうではないと?」
チェレグド公爵夫人は姿が見えない夫の代わりに、果敢にも問いただす。
「ではなぜ”花麗国”に軍勢を差し向けようとしていますの? ベルトカーンの国王は”花麗国”の王権を主張しているそうではないですか」
「かつては……です。
我が王は、”花麗国”の王位継承権を有しております。幼子が王に立つと聞き、それでは国情が落ち着かないであろう、本人も重責を担うにはあまりにも頑是ないと、心配しただけのことです。
勿論、エンブレア王国のように、しっかりとした立派な後ろ盾があれば別ですが」
そう言いながら、ブルクハルトはチェレグド公爵夫人に一礼すると、続けた。
「我が王は、王たる身の苦労をよく知っておりますので。
親切心から出た言葉だったのです。ベルトカーンは決して”花麗国”を併合するつもりなどありませんでした。
彼の君が成長するまで、王位を兼務し、成人のあかつきには、返上するとの申し出をしておりましたのに……それをこうも邪推されるとは、悲しいことです」
「で、では軍勢は?」
いかにもこちらに非はないと言わんばかりのブルクハルトに、チェレグド公爵夫人も説得されそうな勢いだった。
「軍? それは我がベルトカーン国内に暴徒が入り込まないようにと、同時に、”花麗国”の良き人々を保護する為です」
「保護ですって?」
「はい。
エンブレア王国の軍艦も、周辺海域に展開しているではないですか。
それと何が違うのですか?
ウィステリア伯爵も、アシフォード伯爵も立派な艦長として、その任に当たっていますよね?」
「うちの子はまだ副長です」
チェレグド公爵夫人は律儀に訂正した。
それに対し、ブルクハルトの感情が僅か揺れた。
「そうでしたね……アシフォード伯爵の乗る艦の艦長は確か、ウォーナー艦長でしたね?
あの海の英雄と名高きキール艦長の義理の息子――」
マリーナはその言葉に不吉な響きを感じ取った。夜に扉越しでジョアン・ウォーナーと会話した時と同じだ。今、マリーナの視覚はストークナー公爵夫人によって封じられていた。そのせいで、顔の表情や、その他の情報に惑わされることなく、内面の些細な変化が伝わったのだ。そして、密着していた為に、ストークナー公爵夫人の身がピクリと震えたのも分かった。
ただ、ブルクハルトの口調はすぐに元に戻った。
「エンブレア王国と同じように、革命家と称する人間たちに追われた貴族や、資産家の方々も、国境まで逃れてくれば、我々の軍だって、彼らを保護出来るのです。
勿論、国境を一歩たりとて越えたりはしていません」
ブルクハルトがサビーナに対し、”花麗国”語で、自分たちが非道な真似をしていないことを、証明してくれと願った。
そこで、サビーナが進み出た。




