023:火中の栗を拾う
”高貴なるものの義務”だ――。
アルバートは言った。
マリーナ・キールは男爵家の娘。貴族の娘。
ならばこの国のために……。
「犠牲になれ、と?」
「犠牲?」
政略結婚に、家柄が釣り合う者同士の縁組。没落した家の娘は、商家に売られるように嫁がされることもあった。
貴族として生まれた以上、結婚に自分の意思など反映されるはずがない。王と王妃の方が例外で、それ故に傍迷惑な結果となったのだ。
その上で、マリーナ・キールは最上の相手と結婚出来て、この国のためになる。王太子はそれのどこが犠牲なのか、とんと理解していない様子だ。
そうは言っても、マリーナにはとても納得出来ない。
「犠牲ですよ! 大変、失礼な物言いですが、生憎、下賤の生まれなので、お許しください。
言うなれば、殿下のご両親の引き起こした事態の尻拭いをしろってことですよね?」
「そうだな……」
「そのために、なんの責任もないマリーナ・キールに好きでもない男と結婚しろとお命じになるのですか?」
王太子アルバートは無邪気さと色気を併せ持つ、魔性の魅力の男性だが、マリーナの好みとは外れている。よって、そう簡単には魔術にはかからない。
「――責任がないとは……」
アルバートが口を挟みかけたが、興奮したマリーナは一気にまくしたてた。
「おまけに、事あるごとに素晴らしい自国出身の異国の王妃さまと比べられる?」
「それはもうしないと約束しよう」
「挙句に、自国の王妃さまに脅かされ、それに加えて……」
「まだあるのか!?」
「あるに決まってます!
一挙手一投足を他の貴族たちに見られ、国民には愛されるような振る舞いをしなければならない!?
無理すぎますよ!」
「ああ、そうだね――ヴァイオレット妃もそんな気持ちだったのだろう。可哀想に。私は幼い彼女にそんな犠牲を強いてしまい、自分は安穏と生きていた」
『もうしないって約束したくせに!』
叫びかけの言葉は、ボンっ! と何かが爆発した音にかき消された。
マリーナは自分が怒りのあまり、自分が暴発したのかと思った。けれども、それにしてはキナ臭い。さらに、ボンっ! ボンっ! と続けざまに爆発音がした。
音の方向を見たマリーナは絶句した。
「『夕凪邸』が……!」
燃えていた。
丘から見下ろす『夕凪邸』から黒煙があがっていた。
マリーナは雪白に駆け寄る。あそこには母と姉がいる。ナタリーとノラ、パーシーもだ。
助けなければ。そして、『夕凪邸』の炎を消さないと。
「待て!」
アルバートがマリーナよりも先に雪白に乗った。
「お願いですから、雪白を貸して下さい!」
隣にはアルバートの乗って来た馬がいたが、気性が荒そうだ。大きな音にさらに興奮もしている。アルバートには容易に乗りこなせても、マリーナには無理だ。
「君を乗せて行こう。その方が早い」
「さぁ」と手を差し伸べられる。マリーナが迷っていると、肘をグイッと引っ張られ、引き寄せられると、腰のベルトを捕まれる。そのまま彼の前に乗せられ、と言うか、積み込まれた。あっという間に馬上の人となる。いつぞやのように、包み込まれるような体勢となった。
しかし、マリーナにはもう恥ずかしいとか、そんな感情を抱く余裕などない。
父と母が愛した『夕凪邸』が炎に包まれているのだ。
『夕凪邸』は丘の上からはすぐそこに見えたが、崖が真っ直ぐに進むのを拒んでいた。そこで遠回りになるが、一旦、『暁城』の方に出てから『東の森』を通らなければならない。
まどろっこしいが、ジョアンと合流出来る望みがあった。
しかし、ジョアンとコンラッドは、騒動を聞きつけ、すでに『夕凪邸』に向かったと言う。
「ジョアン兄さまなら、きっと、なんとかしてくれる!
火なんてすぐに消してくれる!」
マリーナの願い虚しく、彼女が生まれ育った館に辿りついた頃には、火は館の北半分を舐めつくしていた。
こうなるともう、建物のことなど心配しても無駄である。家族の無事の方が大事だ。
そこでマリーナは馬から降りて、母や姉の姿を探そうとした。
けれども、アルバートがそれを許さなかった。
「離して下さい! 行かないと!」
「――駄目だ……!」
男の狭い腕の中で、彼女はもがいた。どういうつもりなのか、苦労して相手の顔を見ると、その顔面は蒼白だった。
「なんてこと……母上は、ここまでするのか?」
その独白で、マリーナはこの事態を引き起こしたのが、王妃だと知った。
「どういう……」
理由を聞こうとした瞬間、彼女に耳慣れた、しかし、錯乱した叫び声が聞こえた。
「マリー! マリーがまだ中にいるの! 誰か、誰か……!!」
キール夫人が集まって来た村人に押しとどめられながら、炎が噴出している窓に向かって叫んでいた。そこはローズマリーがいつも寝ている部屋だった。今日も、そこで休んでいて、逃げ遅れたのだ。
マリーナの血の気が引く。
「ジョアン! ジョアンはどこ!?」
「奥さま、先ほど、コーナー家のマイケルさまが助けに入って行かれましたよ!」
「え……?」
思いもかけない名前に、キール夫人は一瞬、「なんでマイケル・コーナーが?」という顔になったが、娘を助けてくれるのなら、誰でもいい。マイケル・コーナーは義勇心溢れる青年だった。危険を顧みず、人助けに燃える館に飛び込んでくれたのだ。
かくして、炎の中からマイケルが出てきた。腕の中には濡らした白い布に包まれた人間がいた。顔は見えなかったが、栗色の髪の毛が一房、こぼれ落ちたので、ローズマリーに違いない。
「ああ! マリー!」
母親が感極まって男の手から娘を受け取ろうとしたが、どうも様子が変だ。
マイケルは安全な場所に出たことを確認すると、自分が助けた女性を力の限り抱きしめた。
「マリー! 良かった! 僕の愛しいマリー!」
マイケルはローズマリーを愛称で呼んだ。キール夫人もマイケルも、気が動転するあまり、ローズマリーを人前ではマリーとは呼ばない、といういつもの決まりを破っていた。
キール夫人はマリーナと混同しないように、マイケルは勿論、ローズマリーと密かに付き合っていることを世間に知られないための決まりを、だ。
ローズマリーもマイケルが命を懸けて自分を救い出してくれたことに感動し、抱きしめかえしていた。
「マイケル……きっと、来てくれると思っていたわ……」
アルバートの身が震えたのが、マリーナにははっきりと伝わった。
「あの、そろそろ降りたいのですが?」
今度はアルバートがマリーナを見下ろした。信じられない、と言った様子だ。
だが、今、マリーナはアルバートなんかどうでも良い存在だった。とにかく、家族全員の無事を確認し、『夕凪邸』からの延焼を防がなければ。
周囲に建物は無いが、『東の森』に燃え移らないように、木の枝を払ったり、水を掛けて湿らせておく必要がある。
「駄目だ……」
再三の求めにも、アルバートはマリーナを離さなかった。
段々と腹が立ってくる。
「降ろして下さい!」
「駄目だ!」
「なぜ?」
「危ないから……だ!」
「危ない?」
信じられない目で、マリーナはアルバートを見た。もしかしたら、侮蔑に近い表情だったかもしれない。
「殿下はおっしゃいましたよね? 『ここは私の土地だ。我が地にいる人間に危険が及ぶことなどない』と。
それがこの有り様ですか?
私の家は燃えてしまった。あなたのお母さまのせいでね」
なぜそうなのかは知らないが、息子がそう言うのなら、そうなのだろう。
「あなたはこの国を守れない。誰も守れない。そんな人に嫁ぐ女性は『可哀想』ですね」
「君は……」
轟音と共に、『夕凪邸』の一角が崩れ落ちた。
マリーナの前に、戸板に乗せられたパーシーが運ばれてきた。ただでさえ怪我をしていたのに、さらに増えていた。
アルバートの腕の力が緩んだので、これ幸いと雪白から降りる。
少しバランスを崩したものの、すぐに立ち直って、パーシーの元に向かう。だらりと垂れ下がる手を取ると、いつもは荒れているそれが、ぬるりと湿り気を帯びている。出血が酷い。
近くにはジョアンとコンラッドも居た。
パーシーはマリーナが来たのをはっきりと視認すると、ぐるりと目を回してから、言った。
「やぁ、ジョン。ジョンじゃないか? ジョン、俺は酷い目に合ったよ。
ジョンは、大丈夫か?」
この期に及んで、彼はマリーナを殊更、ジョンと呼ぶ。
それに合わせて、ジョアンやコンラッドまで彼女をジョンと呼ぶものだから、『夕凪邸』が轟々と燃える悪夢のような背景も合わさって、マリーナは自分が実は本当にジョンという少年なのではないかと錯覚しそうになった。
「ジョン、ミスター・ブラッドをコーナー家に運ぶ。
付き添ってくれないか?」
「勿論です」
ジョアンの言葉に、マリーナは頷いた。
彼女が未だ火の勢い衰えない『夕凪邸』を去る前に、アルバートの方を見た。
彼は茫然自失と言った表情で佇んでいた。
「運んで来て下さって、ありがとうございます」
一応、礼は述べた。
だが、アルバートはそれに関しては何も言わなかった。ただ、マリーナを凝視すると「君は……本当にジョンだったんだ……」と呟いた。
「何言ってるんですか? 初めからそう言ってますよね。私はジョンだって」
やけくそ気味に言うと、今度こそ、マリーナはパーシーに付き添って、コーナー家へと向かった。
***
「殿下……ここは危ないです。お下がりを」
アルバートの従者、ロバートがそう声を掛けた時も、彼は茫然と”ジョン”の去った方向を見つめていた。
「殿下……」
「危ないことなどないさ。
私はね……私だけは……」
いつだって、傷つくのは彼以外の誰か、なのだ。
「火の粉が飛んできて、火傷をなされるかもしれません。
煤が入って、目をお痛めになるかもしれません。
どうか『暁城』にお戻りを――」
近隣の村から集まった人々は懸命に、延焼を食い止めようとしている。それを手伝わずに帰るのは心苦しいが、ここにいて、彼に出来るのは、”ここにいない”ということだけだった。
「そうだな……」
自分の身に、少しでも傷がつけば、もっと大きな傷が他人につく。
それを知っているアルバートは、雪白の鼻を『暁城』に向けた。「そうか、ジョンは……ジョンだったのか……」ともう一度、呟いて。




