101:落花枝に返らず、破鏡再び照らさず
幼い頃から、サビーナにとって特権階級である貴族は憧れの存在だった。
愚かな従兄・アランの脱落によって伯爵令嬢になった時、彼女はその権利を当然のように受け取った。
自分は生まれながらに特別な人間なのだ。毎日、素敵なドレスを着て、美味しいものを食べ、歌って、踊って、楽しく暮らして、年頃になれば、素敵な”王子さま”と結婚して、末永く幸せに過ごすのだ――と。
それなのに、彼女を敬い、その生活を支えるべき人間たちが反旗を翻し、彼女を安楽な生活から追い出してしまった。
「なんなの? 一体、どういう権利があって私にそんな振る舞いをするの?
おかしいでしょう!?
私は自分の権利を取り返したいだけ。取り返したかっただけなのよ!」
サビーナの腹に、もしも本当に子どもがいれば、アルバートは落ち着かせようとしたかもしれないほどの激昂ぶりだった。だが、そうでない以上、このまま感情に任せてあらゆることを白状してもらわなければいけないだろう。
観客は少ないものの、サビーナは劇の終盤に入った女優のように、自らの境遇を訴えた。ただし、それは出来そこないの脚本のようにとりとめがなかった。
「穢れてしまった?
ええ、そうよ、私は穢れてしまった。
それもこれもあいつらのせいだ!
ブルクハルトは、私にエンブレア王国の王子を産んで欲しいって!」
「王子よ?」とサビーナは突然、虚無に襲われたようになった。
「王子……私は王子を産むはずだった。
あなたの息子。だってそうでしょう?
私が結婚するならば、あなた以外に他ならないもの。
なのに――なのに――」
アルバートは息を呑んだ。これ以上、聞きたくない。しかし、聞かなければならない。
サビーナはブルクハルト大使に言われ、”王宮”にやってきた。
夜陰に紛れ、馬車に乗せられた彼女にとって、”花麗国”の粋を極めた『花宮』の一室を王宮のそれだと言われても、疑問を持たなかった。その豪華な寝室の一つで、彼女は胸をときめかせて待った。
”彼”が来るのを。
そんな彼女の前に現れたのは、無情にも、憧れの王子さまの父親――エンブレア国王だった。
何が起きたのか分からないまま、彼女は純潔を失った。
「私はもう……穢れてしまった。
穢れてしまったのよ!
ブルクハルトは王が寝台にいる内に、私に会いに来た。
そうして言ったの。こうなってしまっては、もう私にまともな縁談は望めない。お前は王の愛人になるのだと。愛人となって、私の言う通りに、王の相手をするのだ、と。
そうすれば、ベルトカーンが”花麗国”を手に入れた暁には、その分け前として、伯爵家の財産を返してくれるって」
茫然自失した少女に、”ベルトカーンの烏”は囁いた。サビーナはそれを受け入れた。あの家宝の紫水晶の首飾りを取り返すのだ。勿論、土地も、財産も、手にした特権の全てを、自分の手に戻すのだ。
国王の愛人――悪くは無いはずだ。上手く立ちまわれば、王妃になれるかもしれない。国の妃だ。伯爵令嬢よりもずっとよい身分ではないか。
そんな風に自分を納得させなければ、彼女の精神は耐えきれなかった。
そして、今、アルバートにそれを指摘され、ついにそれは崩壊した。
「そうよ、だってあれは私の物だもの。お父さまが勝手に売ってしまった私の首飾り。ずっと欲しかった素敵な紫水晶の首飾り。誰もが羨んだのに、新しく来たヴァイオレット妃の瞳にあっさりと負けた紫水晶の首飾り――そう、こんな……こんな物の為に、私は穢されてしまった!」
あはは……あはははは……は――っ!
首かかった紫水晶を握りしめながら、フラフラと踊る様に部屋を歩いたサビーナは戸口に自分を穢した男が立っているのに気が付いた。
エンブレア国王は愛する寵姫の裏切りに、憤怒の形相だった。
「へいか……どうしてここに……」
「お前が私を裏切っていると聞いてきたのだ」
ギロリと国王は王太子を見た。
彼の考えでは、王太子がサビーナと密通しているのだと思っていた。が、事実はどうだろうか、それよりも酷い。おまけに、妊娠も嘘だったという。
「この淫売が!」
手にした杖で、サビーナを殴ろうとした王を、ニミル公爵が止めた。
「お待ち下さい、陛下。
もう少し、詳しく話を聞かなければなりません」
マリーナは物陰で、自問自答していた。
本当にこれで良かったのだろうか。自分たちがよってたかった憐れな少女を嬲っているようで、気分が悪い。たとえ、それが必要なことだとしても、理性と良心が警告を発している。
惑うマリーナの隣で、空気が動いた。
ニミル公爵夫人がそよ風のように薄絹の向こうから、王の前へと出て行ったのだ。
「陛下、お気持ち、お察しします」
「姉上――!」
ニミル公爵夫人は王の杖を持った手を優しく押さえた。王はどこからともなく現れた姉を怪しんだりはしなかった。王にとって姉は、いつも困った時に来て、慰めてくれる存在だったからだ。
「お可哀想に。王がお優しいばかりに、こんな目にばかり合ってしまって。
力になれずにごめんなさいね」
「ああ、姉上。
そうなのです。私はいつも人に裏切られる――」
王の気持ちがサビーナへの怒りから逸れ、自己憐憫の方に向かった。
”ベルトカーンの烏”よりもよほど、ニミル公爵夫人の方が王の操縦に長けているとマリーナは思った。そして、長い間に培われた信頼、美しい姉弟愛のはずなのに、どこか歪に見えて、胸騒ぎがする。
しかし、サビーナにしてみれば、胸騒ぎ所の話ではない。
「優しい? どこがよ!
私を慰み者にしたこの男を私は許さないわ! 許さない! 嫌だって言ったのに! 嫌だって言ったのよ!!
それなのに、今度は私を捨てようとするなんて!」
自分がもう許されないと知ったサビーナが、半狂乱になっていた。机の上にあった小刀を咄嗟に掴む。
「きゃあ!」
ニミル公爵夫人が叫び、口を手で覆った。そのせいで、王の手から彼女の手は離れた。
王は突進してくるサビーナから逃げ、中庭に逃げた。
アルバートとニミル公爵はそれを追いかけた。
「待て!」
そのアルバートにもサビーナは小刀を振るった。
「嘘つき! 私を助けてくれるって、言ったのに!
あなたも私を騙したのね!」
「そうだ」
そこで言い訳をしない所が、アルバートの良い所であり、最悪な所だった。
サビーナは絶望のうめき声を上げ、自らの首に小刀を突きつけた。
「もう終わりよ! 私は穢された! 生きていけない!」
『ならば、死ね――』
その瞬間、アルバートの目の前で、サビーナが血を吹いて倒れた。紫水晶の首飾りが千切れ、それを飾っていた宝石が地面にちらばり、血に沈んだ。
「――っ!!」
「国王陛下、アルバート殿下、ご無事で」
「ロバート……?」
そこには血に染まったロバートが立っていた。剣も血に濡れていた。それからもう一方の手には、布に包まれた、何か丸い物があったが、それはもう赤を通り越したどす黒い液体に浸っていた。
「なぜ……」
どうやってここにロバートが入って来たのかも分からないアルバートは、サビーナに駆け寄ったまま自らの乳兄弟を見た。
「エンブレア王国の王族に仇なす者を成敗しただけです。陛下、ご無事でしょうか?」
ロバートは王の前に跪いた。
「あ……ああ……よくやった」
束の間でも愛した女が血の海に沈んでいたが、王の胸には憐れさよりも、自分を愚弄した女が退治されたことで溜飲が下がる思いの方が強かった。そこで、もう一度、今度は王らしく強めに言った。
「よくやったぞ。この淫婦をよくぞ成敗した。さすが」
「はっ!」
王に褒められたロバートの表情は、アルバートが理解出来ない忠誠と誇りに輝いていた。
「もう一人、陛下の為に、妖婦を退治してまいりました」
「――なに?」
ロバートは手にした包みを王の面前に差し出し、訝る王の前で、その結び目を解いた。
「――――!!」
王が声にならない悲鳴を上げる。
アルバートはサビーナの脈が切れた手を離し、そちらに走った。力を失ったサビーナの手が落ち、掌から大きな紫水晶が転がり落ちた。彼女は最期まで、その宝石に執着していたのだった。
自分の正気を保てるか、自信がなくなりそうなまま、アルバートは乳兄弟が持ってきた包みの中身を確かめる。
「ハンナ!? ハンナなのか!!」
血に汚れ、苦悶の表情で固まった首だけの彼の乳母がそこにはいた。
王はすでに腰を抜かし、中庭にへたり込んでいる。それをニミル公爵が必死で支えていた。
「なぜ!? ハンナはお前の母親ではないか……!」
アルバートの問いに、ロバートは奇妙な冷静さで答えた。
「いいえ、殿下。この者は母ではありません。確かに、私を産み育てた女ですが、この者を母とは思えません。
この女は王妃さまを裏切ったのですから」
「王妃を?」
「そうです」
そこでロバートはアルバートを押しのけ、ニミル公爵にすがりついている王ににじりよった。
「ああ……来るな……こっちに来るな……」
怖気づく王を安心させるかのようにロバートは微笑んだが、それははっきりと狂気の笑みだった。母親の髪の毛を掴み、王の前に首を突き出す。
「陛下。この女です。この女が全ての元凶なのです。
見て下さい。ベルトカーンの大使からの手紙があります。
この女が王妃さまに濡れ衣を着せようと画策したのです。王妃さまが美しく、皆に愛されていることに嫉妬した、浅ましく醜い女の仕業なのです。
王妃さまは何一つ、悪くはありません。王妃さまをお許しください。
どうか、どうか。
王妃さまはただ一心に、陛下のことをお慕いしているのです」
王は迫りくるロバートを手で払う仕草をした。
ようやく衝撃から立ち直ったようなニミル公爵夫人が来ると、そちらに抱きついた。
「姉上……!」
「陛下、大丈夫です。私が付いていますからね。
しかし、私もお伝えしなければ。
私もサビーナ宛てのベルトカーンの大使からの手紙を持っておりますの。
『妊娠したと言うように』と指示してある手紙ですわ。
それを見て、陛下にどうか、お考え直して欲しいと」
ロバートの懐から出て来た血まみれの手紙の数々と、ニミル公爵夫人が持っている手紙――幽霊騒動で警備を厳しくした為に、届かなくなった手紙がサビーナの手元に渡ったのは、ニミル公爵夫人がわざと幽霊騒動は終わったと警備を緩め、故意に通したからだった。しかも、本物の手紙はニミル公爵夫人が持ち、サビーナには複製したもの渡した。サビーナはその違いに気付くほど、警戒心を養ってはいなかったのだ。
二つの方向から差し出された手紙は、はっきりとベルトカーン王国大使による、裏切り行為を示唆していた。
ここでもエンブレア国王の自尊心は傷ついた。久々にやる気を起こしたのに、またもや判断を間違えたのだ。
もう、何も決定したくない。
そこにいつも優しく、彼を決して裏切ったりしない姉が、囁いた。
「……ああ、お可哀想に。
大丈夫ですよ。
ちょうど、あそこにアルバートがいるではないですか。
あの子に任せればいいのです。ね?
あの子は、あなたを裏切ったりはしませんよ」
「あ……ああ……そうだ……アルバートがいる。私のたった一人の息子」
そのうわ言の如き言葉を聞いたニミル公爵夫人がアルバートを見る。
アルバートはあまりのことに固まっていた。
「アルバート!」
普段のニミル公爵夫人のものとは思えない、小さいが鋭い、ほとんど叱責の様な言葉が飛んだ。
王は自分の名ではないにもかかわらず、身を大きく震わせた。ニミル公爵夫人は弟を柔らかく温かい腕で抱きしめながら、アルバートには氷のような視線を向けた。
弾かれたようにアルバートは血に濡れた地面に滑りそうになりながらも、王の前に身を屈めた。
鈍っても、元が明晰な頭脳の持ち主のアルバートには分かった。これから、頼もしげに聞こえるように、しかし、決して脅威には感じられないような声と言葉を紡がねばならないことを。
緊張で、額から汗が落ちた。咄嗟に手で拭ったそれは、生温かく、赤い色をしていた。顔についていた返り血と混じり合ったのだ。
「陛下、どうか不肖な私に、挽回の機会を。
ベルトカーン王国大使・カール・ブルクハルトを拘束し、我が国を愚弄した奴に鉄槌を下しましょう」
アルバートの唇は震え、語尾が揺らいだ。




