50 「君と夢を追うことの以上の幸せなんて、あるはずないんだから」
ヴェルナーはヤスミンカの顔をまじまじと見つめた。
たっぷり十秒は黙り込んでから、ゆっくりという。
「ずいぶんと唐突だね」
「今のあなたの気持ちを、正直な気持ちを述べなさい。わたしの後学のために」
「お腹すいたなあ、じゃあダメかい?」
「それじゃあ勉強にならないでしょう」
ヤスミンカは少しばかり膨れていった。
ヴェルナーはしばしのあいだ顎の下に手を当て、それから口を開いた。
「遠くまできちゃったなあ、とは思っているよ。
遊びにすぎななかったロケットを本格的に打ち上げたり、軍からスカウトされてロケットを本当に乗れそうなくらいにまで磨きあげたり、ペーネミュンデで夜風にあたりながら君とこうして会話をしているだなんて、思ってもみなかった」
「つまり?」
「僕はいま、幸せだよ、ヤースナ」
「そう。それならもっと、しゃんとなさい」
ヤスミンカは彼の背中を叩いていった。
ヴェルナーは笑みを浮かべていう。
「ありがとう。ちょっと元気になったよ」
「ほんとう?」
ヤスミンカが彼を見上げた。
ヴェルナーはヤスミンカをみつめた。
彼の視線には、ちゃんと慈しみの心がやどっているし、その視線を独占できるのが、ヤスミンカの密かな喜びである。
「本当」
ヴェルナーがそういうので、ヤスミンカはとりあえず、うなずいてみせる。
やっぱり納得できない自分がいることを、彼女は自覚している。
自分としては楽しくて仕方がないロケット開発だ。
だが、ヴェルナーにとっては巻き込まれる形になっていて、どうしても付き合っているという風にしか考えられない。
自分が彼の立場に置かれたとしたら、きっと嫌だろう、というのがヤスミンカの分析だった。
誰かに迷惑を掛けられて、目の下を真っ黒にしてふらふらになることなど、許容できようはずがない。
だから、時々、機嫌をとりに彼のもとを尋ねることは、自分の義務であるとすら、ヤスミンカは思っている。
なにより、彼女は、実務的にはもとより、心のよりどころとして、ヴェルナーには側にいてもらいたがっていた。
研究所には、一部分ではあっても、自分の思考に匹敵する実力者がごろごろいて、精力的生産活動にはなんら不満はないのだが、どういうわけか安心して側にいられるのは、彼だけだからである。
それに、もうひとつ事情がある。
実務について考えを巡らせている限りは、自分が彼の視線から、どことなく物足りなさを感じていることを考えなくてすむ、という事情である。
彼女にとって、言葉にできぬ物足りなさが、時々胸のうずきとなって、彼女を悩ませるのだ。
そのうずきは、ふわふわしてとらえようがなく、そもそも実態としてあるかどうかもわからなくて、けれど口にすることがとてつもなく恥ずかしいという、いままで取り組んだどんな問題よりも、曖昧で解決の手段が見えない問題だった。
「それで、何を熱心に取り組んでいたの?」
ヤスミンカは、とりあえず棚上げして尋ねた。
ヴェルナーは、コートのボタンをとめる手をとめた。
「ペーネミュンデ学術都市開発計画について」
ヤスミンカは眉を寄せた。なにを言っているのかさっぱり理解できなかった。
「都市開発?」
ヴェルナーは大真面目にうなずいた。
ヤスミンカは思わず、机の議案書をてにとった。
ぱらぱらとめくる彼女に、ヴェルナーは説明する。
「なんだかんだ、工場ごと移動させるって大ごとなんだ。
僕たちだけでも、いっぺんに人数が倍になるわけで、それだけで目が回るくらい仕事が降ってくる。
この研究棟だけでも、食堂のローテーションだとか、機密保持の対策だとか、有事の際の安否確認の方法とか、いろいろ見直さなくっちゃいけない。
けれど、今回はご家族も一緒に移動なんだ。
なんたって、できるだけ生活を壊さない範囲で、というのが僕の譲れない一線だったわけだから。
宿舎だけでいいわけにはいかないから、日用品の買い出しができるくらいはさせてあげたいし、治安維持に兵隊さんを借りて来なきゃだし、市場の創設に娯楽を兼ねた酒場だって、増やさなくちゃいけない。
招いて来ていただいている以上、不都合なことがあってはいけないじゃない?
もっとも、予算が下りるかどうか、難しいところではあるけれど」
「それってあなたの仕事なの?」
ヤスミンカは非難するように顔をしかめた。
ここに研究所を構えるといったのは軍であり、連れてきたのはカミナギ大佐だ。
当初は、三千人体制だとかいう話を聞かされていた。
ヴェルナーが計画の立案に取り組むくらいなのだ。当初の計画が大幅に見直され、人数は増加の一途を辿るようである。
だが、それらの計画については連れてこられたヴェルナーではなく、大佐かその上の人間が検討すべきことのように思われる。
ヴェルナーは、ロケット開発のために必要だから、ここにいるのだから。
どことなく、自分の夢をないがしろにされた感じがして、ヤスミンカは面白くなかった。
抗議するように、口を尖らせていった。
「代わりのきく事務仕事は誰かに任せて、あなたはあなたのすべきことをするべきではなくって」
「ダメだよ。これは僕のやるべき仕事なんだ。なんたって、工場長たちは、僕がお招きしたんだから」
ヤスミンカはきょとんとした。
ヴェルナーは、どこまでいっても、ヴェルナーだった。
彼が時間を忘れて没頭していることは、書類を片付けることではない。
書類の向こう側にいる大勢の人々を見ていた。
そして、ロケットの開発だけで死にそうになっているのに、さらに大変になろうとしている。
だというのに、当の本人は、気楽なものである。
「でも、呼びに来てくれてよかった。工場長にとんだ失礼を働いてしまうところだったからね」
お人好しで、気遣いやで、でもここ一番で譲らない、頼りになるヴェルナー。
ヤスミンカは、胸の内がうずくのを感じた。
なにかしらを口にして誤魔化さないといけないと感じたヤスミンカは、からかうようにいった。
「あなたって、根っからの苦労人ね。わたしと一緒にいて、ちょっとくらい後悔とかないのかしら」
口にしてから、どきりとする。
軽いながれで言ってしまったけれど、彼の返答によっては、立ち直れなくなるほどに傷つくことになってしまう。
ヤスミンカの張り詰めた空気を感じたのだろうか。
ヴェルナーは、ヤスミンカを招き寄せると、彼女の頭をくしゃくしゃにした。
「僕は好きで忙しくなってるんだよ、ヤースナ。
君と夢を追うことの以上の幸せなんて、あるはずないんだから」
混沌とした感情が、ヤスミンカを襲った。
なにがなにやらわけがわからないけれど、その場ではいても立ってもいられなくなった。
心地よい彼の手のうちからさっと抜け出し、ヤスミンカは振り返ることなくドアノブに手をかけた。
「あれ、もう行っちゃうの? ちょっとだけまってよ。準備するから」
「ちょっと忘れ物。すぐ戻るわ」
ヤスミンカは回れ右をして、部屋をでた。
足早に廊下をとおりぬけ、自分の研究室に駆け込んだ。
しっかりと鍵をかけ、閉じたばかりの戸にもたれかかりながら、深く息をすって、胸の鼓動を抑えようとする。
その場で叫びたくなる。
足踏みしたくなる。
彼の仕草が、表情が、言葉が自分をおかしくしてしまうのだ。
走り回りたくなる自分を、必死になだめた。
顔も首も、おそらくは耳の先まで真っ赤だろう。
ヤスミンカは、大きなため息をついた。
もやもやした何かを吐き出してしまえるように、深く、長く息を吐いた。
けれど、彼女の胸の内のどきどきとした感覚は、一向に収まる気配をみせなかった。




