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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第一章 ヤスミンカ・べオラヴィッチ
20/138

20 「わたし、髪、切ったほうがいいかしら」

 街の角にひっそりとたたずむ古びたアパートの二階が、ヴェルナーの居室だった。

 ぎーこと錆びた音をたてて玄関の扉をひらくと、ヤスミンカが真先に滑り込む。遅れて入ったヴェルナーが照明をつける。

 ヤスミンカは遠慮という言葉を知らないようで、ヴェルナーの居間兼寝室の物色に余念がない。とはいっても、部屋にあるのは、ソファーとベッドと、枕元に寄せたテーブル。あとは部屋の一面が本棚でうまっていて、床には入りきらなかった本が積んであるくらいである。

 ヴェルナーがシャワーの準備している間に、ヤスミンカはいくつか本を手にとて、ぱらぱらとめくっている。


「我が家はお気に召しましたか、お嬢さま」


 ヴェルナーが勿体ぶって尋ねた。ヤスミンカは棚に本を戻すと、ソファーの埃をはらってから、ちょこんと腰掛けた。


「もうすこし清潔な部屋がいくぶん好みかしら」


「男の一人暮らしに求めてはいけないもののひとつだよ、それは」


 そうなんだ、とヤスミンカはわらった。よほど本が好きなのか、ヤスミンカの視線はずっと、背表紙を追っていた。


「意外と勉強屋さんなのね」


「お褒めの言葉、ありがと」


「皮肉じゃないわよ。あなたが探し物に図書館を選んだ理由がみつかって、喜んでいるくらい」


「学校の先生に訊いても、ちゃんとした答えは返って来そうになかったからね」


「でも、だいぶ本の内容は偏ってるのね。商人にでもなりたいの?」


「商人?」


 ヤスミンカは棚を指差した。

 競争優位の戦略、経営者の役割、頭脳への設計――。

 身の丈に合っていないであろう題名ばかりが並んでいることは、ヴェルナーも承知している。

 ヤスミンカが関心したようにいう。


「資本主義社会では、資本家にならないと豊かにはなれないと、気づいているんでしょう?

 いまどきの学生が経済に興味があることは、驚嘆に値するわ」


「君が資本論の本質を捉えていることのほうが驚きだよ」


 ヴェルナーはちっとも驚いてなさそうな声でいった。


「共産主義国家に住んだわけだから、多少はね」


 ヤスミンカは肩をすくめた。それから、彼女にしてはめずらしく、ひかえめな口調で尋ねた。


「でも、共産主義は、いまのこの国で学ぶのはちょっと問題あるみたいだけど」


「僕は別に共産主義を信奉しているわけじゃないし、共産主義者になりたいわけでもないよ。オーナーに勧められて、とりあえず持ってるだけだよ。何事も触れておくに越したことはないって」


「何事も、ねえ」


 ヤスミンカは、言葉の意味を噛みしめるようにいった。それから、なぜかしみじみといった。


「あなた、狙われてるわよ、リガルドさんだっけ? あなたの後見人の店長さん。

 彼に跡を継げって迫られていたりしない?」


「やっぱり、そう思う? 最近そうじゃないかって思いかけていたところなんだ」


 ヴェルナーはこわばった笑みを浮かべていった。

 『自分には知らない世界があることを、常に視界に入れておくのが大切である』

 誰の言葉なのか、ヴェルナーは知らない。

 だが、オーナーはこの言葉をいたく気に入っており、ことある事にヴェルナーは聞かされていた。

 気に入っているだけでなく、実践しているオーナーは、時折、差し入れと共にヴェルナーの部屋を訪ねては、難解な書物を置いていく。

 さっぱり内容の入ってこないオーナーの本たちは、ひとりでに増植し、今や完全に部屋の一面を支配下においている。

 この部屋を、という意味では正解かもしれない。

 ヴェルナーがこっそりぼやいていると、ヤスミンカは真面目な顔でいった。


「浮気はだめよ?」


 やっぱり、彼女は、下世話な話を重々承知しているんじゃないだろうか、という疑念を振り払って、ヴェルナーはいった。


「大丈夫だって。ヤースナ。名指しされたって、店は継がないよ。君の未来の旦那さんは、喫茶店の経営よりはエンジン開発に夢中だから」


 二人は交代で風呂に入った。

 ヤスミンカがシャワーで汗を流しているとき、ヴェルナーは本に視線を落としていた。読んでいた、とは違うところが味噌である。

 彼女がやってきてはじめて気がついたことは、浴室に着替えスペースがないことに困ることと、鼻歌が聴こえてくるくらいには、壁は薄い。鼻歌が聞こえるということは、シャワーの音もばっちりである。

一人暮らしではあり得なかったはずの住まいの悩みに、ヴェルナーは困惑したし、彼女に申し訳ない気持ちになった。

 けれど、お風呂あがりのヤスミンカは、そんな青年の悩みを一切汲むことなく言い放つ。


「のぞかないでっていうのは、のぞいてちょうだいねっていう言葉の隠語じゃないの?」


 ヤスミンカは、おろしたてのワイシャツ姿だった。

 いくぶん大きくはあったけれど、何もないよりましだとヤスミンカが所望したものである。袖も首回りもぶかぶかで、彼女が着ると、膝あたりまでが隠れるほど。

 意外と寝巻きとしては申し分ないサイズに、ヴェルナーは苦笑する。


 ヤスミンカはヴェルナーのとなりに腰掛けると、タオルを押しつけ、もたれかかった。頭を押し付けてきた。髪をふけ、ということらしい。

 タオルで髪の毛を包むように、優しく包んだ。

 白いうなじがあらわになった。肌の上に水滴がたれ、水滴は水たまになって、こぼれ落ちそうになる。そっと、タオルをそえると、水たまは綺麗に吸い取られた。きめ細やかな肌は、水を拭ってもなお、うるおいにあふれていた。弾力もいい。

 加えて、うるわしい肌の持ち主は、全幅の信頼を寄せて、自分に背を預けているのだ。男として、これ以上の環境はあるまい。

 無防備にもたれかかってくる彼女は、魅力的な女の子だ。

 けれど、同時に、まだまだちゃんと女の子だった。

 腰まわりのこわばりや、未だ膨らむことをしらない胸まわり、力を込めれば折れてしまいそうな細い手首。

 ここで手を出したら変態の仲間入りだ、と自分を戒めながらヤスミンカの髪を拭いてやる。


 ある程度乾いたところで、髪をおろし、指で何度かすいた。枝毛ひとつない、若々しい髪だった。ずっと触っていたいと思う。

 清き正しい学生である自分は、曲がり間違っても間違いなど起こしてはならない。

 相手が未熟な少女であることは歓迎すべきことである。

 問題なのは、その結論を自分は不満と思っているらしい、という事実にある。

 僕は、よっぽど女の人に飢えているんだなあ。

 とても悲しい気持ちになった。

 世の中は、エンジン以上に、ままならないことばかりだ。


「ねえ」


 ヴェルナーが思い悩んでいると、ヤスミンカが甘えた声をかけた。


「わたし、髪、切ったほうがいいかしら」


 相手をしなさい、とじゃれつく子ネコのように、ヤスミンカはヴェルナーにもたれかかる。

 彼の腕のなかで、見上げるよう上をむく。ヤスミンカが頭をかしげると、金色の髪がさらさらとこぼれ落ち、白い首元があらわになる。同時に、シャワーの後の石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。

 ヴェルナーは無意識に唾を飲み込んだ。


「どうしたんだ、急に?」


「この家に似合わないじゃない」


「どういう意味?」


「意味っていうか、恥ずかしいんだもの」


「ごめん、本当に意味がわからない」


「だって、いっちゃなんだけど、わたしみたいに立派でつややかな髪の女の子が住んでるのって、おかしいでしょう?

 身の丈にあわない服の袖をまくりあげて、大人の木の靴をはいて、子どもらしいさっぱりした短い髪型をして、髪を適当にピンで留めているくらいが丁度いいんじゃないかと思うのよ?

 そうじゃない?」


「妙なことを考えるんだね。今でも、肩までしかないんだから、十分短いと思うよ」


「別に気持ちだけのことじゃないの。

 わたしの髪って、結構いい値段で売れるみたいなのよ。家を売るときに、相手の方がいっていたのだけれど、わたしの髪は、まだまだ元気いっぱいらしいのよね。カツラにして売れば、ちょっとしたおこづかい程度にはなるらしいのよ。

 だから、似合わない髪の毛を売っちゃって、そのお金で、美味しいものでも食べに行きましょうよ?」


 どことなく浮ついた声だった。甘えてもいたし、軽い口調でもあった。ヴェルナーの反応を確かめるみたいに、鼻先を背中に押し付けたりしている。


「僕にはもったいないと思うんだけどな。そのくらいなら、僕が稼いであげるから」


「ほんとう?」


「そのくらいの甲斐性はあるつもりだ」


 その答えに満足したのか、ヤスミンカは大人しくなった。

 その隙をみて、ヴェルナーは逃げるようにシャワー室に向かった。

 彼がさっぱりして出てきたとき、ヤスミンカは片足をソファーの上にあげ、膝を抱えるようにして座っていた。そして膝の上に頬を乗せ、ヴェルナーの伏せていた本に視線を落としたまま、眠たげな声で、ねえ、という。


「ん?」


「いまの経済学って、ずいぶんと倫理学に寄ってるのね。わたし考えたんだけど、経済学をゼロサムゲームの発想を取り入れて整理すれば、新分野を立ち上げられそうな気がするんだけど。

 あなたはどう思う?」


「あいにく、僕の専門はエンジニアなんだ」


「そうよね。わたしが目指すのもエンジニアなのよね」


 ヤスミンカのまとうぶかぶかのシャツは、彼女が立ち上がると肩がずり落ちてきそうなくらいに大きい。

 彼女がベッドの上でもぞもぞするだけで垣間見えるうなじの辺りが妙に印象的で、ヴェルナーは慌てていう。


「寝るよ」


 なにかいけないものを見てしまった気がしたのだ。

 なぜ、そう思ったのか、自分でも説明はつかないけれど、そう思った。


「もう?」


 ヤスミンカは抗議の声をあげた。けれど、その声からも、眠気がただよっている。


「もう二十三時だ」


「あと十分まって。読み終えるから」


「はやくしなよ」


 親みたいな言葉を口にしつつ、台所で水を飲み、窓を開けた。

 ほのかな暖かさを含んだ夏の夜の空気が、ゆっくりと部屋をおおっていく。

 観念したようにヤスミンカが本を閉じたので、ヴェルナーは電気を消した。そして、ヤスミンカはベッドに、ヴェルナーはソファに横になった。けれど、ふと気配を感じてヴェルナーが目を開くと、枕を抱えたヤスミンカがいた。


「背中向けて。こっち見ないで。恥ずかしいから」


 ヴェルナーは黙って反対をむいた。狭いすきまに、潜り込んでくるヤスミンカ。先ほどと同じように、背中に鼻先を押し付けてくる。

 ヴェルナーは胸がどきどきしっぱなしで、なかなか寝付けなかった。

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