21 「夢を追いかける人間には」
ヴェルナーは目覚めたとき、とても神聖なものを目撃した。
ベッドの上に、脚を折りたたむように座っている女の子である。寝癖のついたぼさぼさ頭のままで、サイズの合わないワイシャツ姿で着替えることもしていない。
けれど、流れるような動作で何かしらを書きつける彼女の姿に、ヴェルナーは不思議なほどに圧倒された。
自分を囲うように、いくつもの本を開いてならべて、手ごろな本を下敷きにしてノートを抱えるようにもち、真剣な面持ちでペンをはしらせ、ときおり本のページをめくっては、またペンを滑らせている。
窓から差し込んだ陽光が、彼女の真剣な面持ちを照らしている。
ああ、真摯に向かうこの姿勢から、ロケットが生まれるのなあ、と。
だから、ヴェルナーが目覚めたことに気がついたヤスミンカが、子どもらしい表情に戻り、不満げな顔をしながらやってきて、自分の頬をびしゃびしゃ叩いたことの方が夢のように感じられたくらいである。
「お腹すいたわ」
服装を軽く整えて、財布だけを握りしめて、喫茶店へ向かう。
朝から贅沢だとヤスミンカはいうが、なんのことはない。向かう先はリガルドの経営する店であり、朝の準備を手伝うかわりに朝食をご馳走になっているのである。
もともと、月曜日の喫茶店『リガルドズ・カフェ』は忙しい。
客が多いのに加えて食材が山のように届くので、朝のうちに仕込みをしておかないと終日休みなしの立ち作業になってしまうのだ。ヴェルナーが抜けるようになって痛手なのは間違いなく、かつてお世話になった彼としてはせめて朝の店開きくらいは手伝うということで折り合いをつけていた。
いつものように通りに丸テーブルをならべ、カウンターの隅に置いた小型ラジオで朝のニュースを聞きながら、届けられたパンを手早く温める。
うっすら焦げ目がついたあたりで皿に並べて、届けられたパンに、自家製のマーマレードとゆで卵を添えてヤスミンカの前に並べる。
ヴェルナーの動きを興味深げに眺めていたヤスミンカの興味が、朝食にシフトするのを見つめながらも、ヴェルナーの意識はこれからのことについて考えを巡らせていた。
まず、ヤスミンカのご両親にあたらねばなるまい。母はなくなっているそうだから、父親だろうか。だが、家だとか土地を売るという話が耳に入っていないはずがなく、放任しているのだとすれば、どうやって探し出せばいいのやら。
それからヤスミンカとお金の話もしなければならないし、そもそも身の振り方を考えてやらねばならないし、それに。
ぐるぐる回る思考を飲み込むように、ヴェルナーは珈琲を含んだ。いつも以上に、苦かった。
「朝はいらないの、ヴェルナー?」
ヤスミンカがカウンター越しに尋ねてくる。さっきまで真剣な顔つきで、パンにマーマレードを塗ったりゆで卵の殻をむいていたはずの彼女は、あっというまに食べ終わってしまっていた。
「朝は珈琲だけって決めているんだ」
「朝を食べないと、大きくなれないのよ」
「それは子どものときの話だよ」
「あなたも子どもなのに?」
「身体はもう大人さ」
「違うわよ」
中身のない掛け合いをしていた丁度そのとき、掛け時計が七時を告げる。
ほとんど同時にガラス扉がひらき、からんころんと乾いた鈴の音がする。この店のオーナー兼ヴェルナーの保護者であるリガルドさんである。
リガルド店長は、まあまあの背丈で、鍛えていて二の腕とか首が恐ろしく太くて、鼻の下にちょっとだけ髭があって、頭の髪が薄かった。
「ヴェルナー。その子は?」
渋い声でヴェルナーのほうにいった。
「ええと……」
しどろもどろにいうヴェルナーの代わりに、条件反射みたいに立ち上がり背筋を伸ばしたのはヤスミンカである。
「ご無沙汰しております。
お会いするのは警察署以来ですね、先日は大変お世話になりました。
ヤスミンカ・べオラヴィッチです。彼の家に同棲させてもらってます」
ヴェルナーの言い繕う声の何倍も元気な声でハキハキと、ヤスミンカは挨拶する。
「これはどうもご丁寧に」
帽子を取り、彼女に向かって頭を下げたあと、リガルドさんがヴェルナーに意味深な視線を向けていう。
「大人の階段、登っちまったのか?」
「そんなことするわけないじゃないですか」
そういいながら、おどけるように肩をすくめてみせるヴェルナーであるが、奥へいこうという店長の有無をいわせぬ口調に、彼の空元気はしなしなになってしまった。
リガルドさんと二人して、カウンターの奥の休憩室に移動する。店長は椅子は荒々しく椅子をひき、どしりとすわった。椅子が、ひそやかにきしみ声をあげた。
直立したままのヴェルナーに、店長はいった。
「申し開きを聞こうか」
ヴェルナーはうなずいた。
屋根を吹き飛ばしたあとのことを全て。
ロケットの推進剤として、再度液体水素に手を出したこと。
液体水素を扱うために機材をそろえ、排熱の課題を解決するために、トトノ重工と繋がる溶接職人に機材を依頼したこと。試作機をつくって、燃焼試験をしたこと。
手応えのある、試験結果が得られたこと。
そして、肝心かなめの部分。
必要な機材一式や、試作機を組み上げるにあたり、ヤスミンカが自分の家を売ってしまったらしいこと。
「あの子をひとり、基地に置いておくことはできなくて」
リガルドさんは、すべてを聞き終えると、立ち上がった。棚のどこかから、マルボロの箱をもってきて、一本吸った。
「煙草、吸うんですね」
「三年ぶりだよ」
たいしてうまくなさそうに煙を吸った。ヴェルナーは黙っていた。
ゆっくりと一本を吸い終え、二本目をくわえたところで、店長はいった。
「お前は、どうしたいんだ?」
「ヤースナと、ロケット開発を続けたいです」
それは間違いなかった。いままで出会ったなかで、具体的なアドバイスをくれた唯一の人間だった。無理だという代わりに、根拠をもった設計だとか達成可能な目標の概算だとか、考え方を教授してくれたのだ。
そして、自力でのエンジンの開発に限界を感じていた自分たちをひっぱり、液体水素を用いた燃焼試験までやってのけ、文句なしの成功をやってのけた。大人ぬきの三人で。
彼女を欠いた状態でのロケット開発など、あり得ない。
「そのためになら、あの子を引き取ることもやむなしだと」
「それは、切り分けて考えるべき問題です。あの子が困っていたのに、手を差し伸べられない人間にはなりたくないですから」
「ひらきなおりだな」
ヴェルナーは沈黙した。
リガルドさんはもう一度、煙を吸って、吐いた。
「あの子の親は」
「わかりません。彼女に訊いてみないと」
「家を売るような子が、すんなりというとは思うか」
ヴェルナーは首をふった。
「店長のアパートに空き室とか」
「それは考えた。あいにく大繁盛でね。お前に住まわせてるので、満室だ。それに、俺が後見人になるとして、あの子が大人しく、家賃に金を使ってくれるのだろうか」
ヴェルナーはなにもいえなかった。一度家を売ってしまった彼女なら、家賃を研究費に変えてしまうことは簡単に想像できてしまう。
リガルドさんは、目元を抑えて、しばらく考え込んだ。それから、ゆっくりといった。
「ヴェルナー。世間は冷たいと感じることの方が多いし、事実その通りなんだ。
金の切れ目が縁の切れ目だってことは、よくある話でね。そういう意味で、お前の見込みは、甘すぎだ。
もちろん、人として正しいと思うし、誇らしくもあるがね。
だが、お前はまだ子どもだ。
子どもが子どもを守れるほど、金で動く世の中は甘くない。
反論はなしだ。
おまえがまだ学生服を着ている限り、俺たち大人は、おまえを子どもとして扱う義務がある。
これはつまり、お前たちが本当にまずい状況下にあると明るみになってしまったら、俺たち大人は容赦なく、お前たちに介入せねばならんということになる」
ヴェルナーは黙ってきいていた。彼の言葉はいちいちもっともで、顔を上げることができなかった。だから、次にリガルドさんがいうことを予想できなかった。
「結果を出せ、ヴェルナー。誰もが納得せざるを得なくなるだけの、圧倒的な結果を。結果だけが、お前たちを守ってくれる」
「見逃してくれるんですか」
ヴェルナーは目を丸くしていった。
リガルドさんはなにも答えずにマッチを擦って、火をつけた。煙を一口味わってから、低い声でいった。
「俺と三つ約束しろ。そうすれば、俺はおまえに、愛らしい親戚の女の子がいたことを思い出すことにしよう」
そういって忌々しげに、火をつけたばかりのタバコを灰皿に押し付ける。それから店長はヴェルナーを見上げた。
「まず、大人の階段はだめだ。おまえは準備ができているかもしれないが、あの子はだめだ。身体はもちろん、心もだめだ。
あの子の心の傷になるようなことだけは、絶対にするな。
人を愛し愛するとかいうことは、お前らだけで解決できない問題をひっさげてくるだろう。
街の誰かに頭を下げてすむ問題なら、なんとかしてやらんでもない。屋根をふきとばしたとか、そういう奴ならな。
だが俺は、青少年の健全な育成に関わるゴタゴタについては一切庇うことができないし、庇うつもりもない」
ヴェルナーはうなずいた。
「二つ目。夢を追う覚悟を決めろ。
若いお前にはわからんかもしれんが、夢を追うってことは、茨の道だ。
楽なことなんて一度もない。だから、一番前の見えない道を選んでおけ。一番困難な道を選び続けることが、夢を追うってことだ」
店長はまたタバコを吸った。灰を軽くおとした。
「三つ目は、そうだな。追い込まれたときは、あの子のことでも思い出してやれ。
無理だと思った時こそ視野を広く持て。
真に追い詰められたときこそ余裕をもて。
限界だと悟ったときに、あの子の笑顔でもを思い出してやれ。
そうすれば、大抵のことは乗り切れる。それから」
店長は、ここが肝心だというふうに、ヴェルナーの顔をみていった。
「なんでこんな事をいうかっていえば、お前がすでに、相当にリスクを背負い込んでいるからだ。
水素で火遊びするだけでも大した噂になっているところに、上乗せするわけだからな。
見ず知らずの子どもと一緒に暮らすってのには、限界があるってことだ。
うまくごまかしたつもりでいても、どこかで真実が漏れていくものだ。
いつがリミットだかわからんが、それはそう遠い未来じゃない。
まあ、やってみろ。
さっきも言ったが、結果だけが、お前らを守ってくれる。誰がなんと言おうと、結果を出せる奴であれば、欲しがる輩はでてくる。
自分にとって有益な能力であればなおのことな。
うまくいけば、三食昼寝付きで住み込み可の職場だってあるかもしれんぞ。
お前が、ロケット開発を続けたいと心から願うのであれば、結果だ。ヴェルナー」
「わかりました」
ヴェルナーは深く頭を下げる。
話は終いだと言わんばかりに今朝方届いたばかりの新聞を広げるリガルドさんに、ヴェルナーはひとつだけ、質問をぶつけた。
「あの、ひとつお伺いししても」
「ん」
「なぜ、ここまで良くしてくれるんですか」
「俺の見込んだ男だからだ」
リガルドさんはさらりといった。
「夢を追いかける人間には、それだけ人を惹きつける力があるってことだ」
奥の部屋から出てきたヴェルナーに、ヤスミンカが緊張した面持ちを向ける。
ヴェルナーが右手の親指と人差し指で小さな丸を作ると、緊張の糸がとけたらしくヘナヘナとカウンターにうつ伏せになった。
「さっきは、ずいぶんカチコチだったね?」
ヴェルナーが軽く声をかけて頬をつつく。ヤスミンカは彼の指をぎゅっと掴むと、そんなこともわからいの、と非難轟々な視線を向けた。
「だって、店長さんに気に入られないと、あなたと一緒に住めなくなっちゃうじゃない!
わたし、めちゃくちゃ緊張したんだからねっ!」




