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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
134/138

64 「髪、直していいですか?」

 いかに天才といえど、思いつきで宇宙にものを打ち上げることは叶わぬはずだった。兼ねてからの計画を練っていた、イリーナ以外には。

 かくして、史上最短の宇宙開発プロジェクトは、彼女の陣頭指揮のもと、完遂の日を迎える。

 当日は、あいにくの曇り空。風はとうに冬のそれに変わっており、いつ雪が降ってもおかしくない環境だった。


 だが、機体は万全である。

 かつての失敗を鑑み、Oリングでシールドされている箇所には、ヒーターが取り付けられている。

 各ブースターへ供給するターボポンプと配管はかつての失敗を活かし、改良を加え、実績を積んでいる。

 打ち上げの日の朝。上空の風速を調べるために、観測用気球が挙げられる。

 風速一一○ノット。

 許容範囲である。打ち上げが決行される。

 人類にとって、宇宙へ踏み出す道が開いた瞬間だった。

 慌ただしく、燃料が供給される。と同時に、クリーンルームに詰めていたイリーナも、宇宙服に包まれていく。

 髪をひとまとめにして、後ろでくくる。頭以外をすっぽり覆った後に、ごわごわの服をまとったイリーナが、トラックに乗りこもうとして、苦笑する。

 彼女を見送るヴェルナー顔が、あまりにも真っ青だったから。


「いまにも死にそうな顔をしていますよ、兄さん」


「ほんと?」


「ええ。大佐と随分違うので、驚いてしまいます」


「大佐は、何か言っていた?」


「もう、永遠に会う事はないでしょう、と」


 ヴェルナーの顔に赤みがさしたのを見計らって、イリーナはいう。


「冗談です」


「君の冗談は、わかりにくすぎて困る」


「でも、元気が出たでしょう?」


「確かに、そうなんだけど」


「兄さん、お願いが」


「なに?」


「髪、直していいですか?」


「誰の?」


「わたしだと思いますか?」


 愚問だった。

 イリーナの髪は、既に耐熱布で覆われている。

 彼女のいまの様子は、どちらかというと、宇宙服から顔だけが出ていると表現した方が正しかった。


 拍子抜けした顔をしながらヴェルナーは少し膝を折る。

 イリーナはすこしだけうつむいて、もじもじと両手を身体の後ろで絡ませたあと、突然ヴェルナーに覆いかぶさった。

 頬を両手で押さえ、体型を隠してしまう耐熱耐G服からはわからなかった膨らみが胸に押しつけられ、しっとりとした唇が、重ねられようとして、おでこをぶつけた。

 ヴェルナーが目を見開く。


「えへ、失敗しちゃいました」


 二の句を告げないでいるヴェルナーに、イリーナは軽い表情で笑いかける。


「では、お元気で」


 素っ気ないほどの短い一言。

 それが、ヴェルナーが交わした、イリーナとの最後の言葉になった。




「イリーナ。君は、感情の表現が下手くそすぎる」


 管制室で一人苦悩するヴェルナーは、彼女の行動が示した事柄についてひとりごちる。

 彼女が何を差し出したのかということに関して、ヴェルナーは正しく理解した。

 下手だということは、つまり経験が少ないということ。

 少ないという言葉では、正しくなく、おそらくは初めての行為であろうということ。

 だからこそ、彼は苦悩する。


「何かあったの?」


 大佐が目を細めて尋ねる。ヴェルナーは黙殺した。打ち上げから帰還まで一○八分。

 ヴェルナーにとっての、正念場である。冗談に付き合っていられるだけの余裕が、ヴェルナーにはなかった。

 半地下の管制室では、彼の同僚が冷静かつ慎重に射出準備を進めている。報告を受け、状況を判断し、決断することが彼の仕事である。

 実務として手を動かすことはなく、不安を紛らわせるものはない。パネルの前を行ったり来たりしているところを、からかわれる。


「通信確認です。こちら管制」通信担当が呼びかける。


「こちらイヴァン、感度良好。どうぞ」


 搭乗員はイヴァンと呼称される。

 イヴァン・イリーナヴィッチなる人形が搭乗員ということになっているためである。

 ロケット開発に関わる面々の存在は秘匿されるべきであり、さらには失敗した場合を考慮すると、政治的理由から、人形が乗っていた方が都合がよい。

 そんな思惑が透けて見えるのは、打ち上げ直前に、党から暗号名が通達されたためである。

 つまり、人間を打ち上げるためのサブミッションであったと、言い訳するための呼称。

 関係者の誰もが理解しており、だからこそ、誰もが軽い口調でいう。


「確認完了。気分はどうだい?」


「ドクターの方が把握しているでしょう?」


「脈拍七四、呼吸二六。ちょっと緊張しているわね」と医療担当の女性がいう。


「当然じゃないですか。人形のふりをするのは大変なんです」


「了解。それもあと、数時間で終わる」


「ぞっとしないわね。通信終わり」


 気の通じ合ったもの同士のやり取りだった。イリーナがざっくばらんに話しているところを、ヴェルナーは初めてみた。

 発射まで三十分を切ると、さすがに、皆が時間を気にし始める。あらゆる担当がヴェルナーに報告を始める。異常はどこからも、報告されていない。


「機内圧力正常。船内の与圧もばっちりです」


 最後の報告。船内が完全に与圧されていることが、生還への絶対条件である。彼らの報告が、要だった。

 ヴェルナーがマイクをとる。全方位へのチャンネルを解放して伝達する。


「管制から各位。天界への門は開いた」


 皆が息をのむ。緊張が、マイク越しに伝わってくる。

 ただ、イリーナだけは素っ気ない。


「イヴァン、了解」


 ヴェルナーはなにも言えない。僕たちの技術を信じろ、とでも言えばいいのだろうか。彼女が造ったロケットなのに? 

 ヴェルナーは、無意識に拳を握りしめた。


「ずいぶん懐かしい表現ね」


 ひとり、大佐が呟いた。




 十九時時二分。

 鍵が回された。

 メインエンジンを含む、五基の、計三十二基の点火が確認される。ロケット全体が持ち上がり、姿勢が安定したタイミングで、発射台が予定通りに倒壊。


 イリーナを乗せたR-7は、火の中をゆったりと上昇を始める。大地を引き裂くような、地鳴りのような音を立てている。

 赤い数字が、すごい勢いで変わっていく。ヴェルナーは、祈るように数字を見つめる。

 高度計の値は大きくなり、厚い雲の高度を抜け、さらに高みへと登へ。

 機体の加速は、十一Gを超える。




 七分後、役目を終えたブースターの切り離しを確認。

 上段ロケットの点火が確認されたところで、ヴェルナーらのいるエリア七八基地局から追跡が不可能になる。

 不気味な沈黙の後、モスコーまで点々とする各基地局がデータを受信し始める。予算が無制限になった事で、サ連の支配域に無数に配置させた基地局は、計画通りに機能していた。

 機体は、予定どおりの軌道にある。

 脈拍も呼吸も正常。さらに。


「こちらイヴァン。一応、まだ呼吸をしています」


 管制室は盛大な管制と拍手に包まれる。

 機体は、進行方向を軸に、僅かにスピンしているらしいが許容範囲内だった。だが。


「冗談じゃないんだな。本当に、温度が上昇し続けているんだな」


 ヴェルナーが強い口調で確認する。

 通信に割り込みたいのをぐっと堪え、通信担当からの返答を待つ。

 肯定だった。


「原因は?」


 ヴェルナーが地上担当に聞く。同時に、彼自身も仮説を立てる。


「機器は、太陽光パネルの異常を示しています」


「あれの品質は、折り紙付きだったと聞いていたけれど」


「パネルはそうです。ですが、どうやら展開が上手くいっていないようです。イリーナ主任(イヴァン)が、目視で確認しています」


 鳴物入りで採用した太陽光パネルが開かないという大問題に対し打つ手はない。いちるの可能性にかけて、イリーナに機体に体当たりするよう指示する。

 しかし、改善されることはなかった。


「船内温度、三十から上昇しています」


 磁気テープの値を報告が聞こえる。


「医療班。脈は」


「駄目です、使い物になりません。ノイズが乗って、ひとの波形だと思えないくらいに、早くて微弱なんです」


 悲鳴のような回答。

 手の施しようもなく、機体は地球の陰の部分に入ってしまう。

 歯痒く、いてもたってもいられない九十分が始まった。

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