61 「恋をしたからでしょう?」
イリーナの計画にほとんど沿う形で、機体は組み上げられていた。
彼女の思うようにロケットが組みあげられ、彼女自身が自分の身体に合わせて設計したコックピットが出来上がりつつある。
想定される不安要素は可能な限り潰し込み、迅速に組み上がっていく様は、イリーナの持ちうる力の集大成とも言えた。
同時に、ヴェルナーは搭乗者が生きているということを、地上に伝えるためのシステムの構築に力を注いでいた。
「これが、僕たちが地上で観察できる、君が生きてるというデータだ」
無言でうなずくイリーナの態度が、どことなく距離をとられているように、ヴェルナーには感じられた。
上手い言葉を見つけられなかったヴェルナーは、針の動きに注目した。彼女の心拍、脈拍に、体温などの生体データが、縦横無尽に紙の上を走り回る針によって、吐き出されていく。
「あれ、脈拍と心拍数が上がってるけど、なにかあった?」
大きく波打つ心拍の波をみて、ヴェルナーがいう。
「兄さんは変態さんですね」
そっぽを向いたまま、しれっと言われてしまい、彼は情けなさそうにしょぼくれた。
「僕が見るわけじゃないから」
「なんだか、もっと嫌です、それ」
ヴェルナーは輪をかけて情けなさそうな顔をする。
イリーナが纏うのは、ごわついた与圧服だった。
ナキア中央研から無理をいって借り入れた、高速戦闘機用の耐G仕様をイリーナの背丈に合わせて調整したものである。
重量だけで二十キロもある代わりに、高度八○○○メートルでも地上と同様の一気圧に保つことができた。
ただし、生命維持装置を独立して持つことはできず、気圧が固定されるのは、宇宙船の座席に固定されている限りにおいて、という条件付きだった。
オレンジ色を基調とした服の下には、彼女の白くみずみずしい肌の上に丸い吸盤が、これでもかというくらいに貼り付けられている。肘や膝、背に腹、心臓の周りは念入りに、ぺたぺたと貼られている。
訓練も何もない。身体を追い込む時間もない。
だから、医師が彼女の体調を確認したいと望むのは、彼女の生存を望むためではなく、貴重なサンプルとしてデータを取得し、次の成果へ繋げるため。
そもそも、現時点で人類は、無重力環境下が人体にどのような影響を与えるかについての知見に乏しい。
戦闘機の急降下により、擬似的な無重力を作り出すことは出来たが、もってせいぜい三十秒。
だが、今回イリーナが地球を一周するのにかかる時間は、約九十分。
そんな長時間、人類が無重力環境にさらされたことはない。
医学は、あくまでも統計の上に成立している学問である。
大量の事象を観察し、傾向を掴むという、統計からくるデータの収集と分析こそが真髄であり、未知の現象に対しては無力である。
未知の機能に対しては、対処療法しか手段がない。
イリーナが足を踏み入れるのは、未知の世界だった。
従って、本当に、何が起こるかわからないのだ。
無重力が血液循環を阻害するかもしれない。肺に空気がたまらず、窒息するかもしれない。
心臓がうまく血を送れなくなるかもしれず、三半規管が混乱をきたし、直ちに意識不明に陥るかもしれない。
そんな議論が、まことしやかに、ではなく、実際に起こりうる現象として真剣に議論されている。
直近で人類は、放射線の大量被曝という新しい死に直面したばかりであり、人類にとって宇宙へ行くということは、人類史に新たな死に様を発見しに行くことと同義だと考える医者もいるほどだった。
だが、そんな医師の議論よりもヴェルナーの心理に負担を強いたのは、イリーナ自身が、自分がモルモットにされていることを自覚していたし、許容してもいるようだということである。
その姿勢が、ヴェルナーを困惑させる。ただ、受け入れてしまっているという、無気力さが、背後に潜んでみえたからだった。
自分の何もかもをデータに置き換えること。それが、自分の生きた証だとでもいうように。
けれど、ヴェルナーはかける言葉を見つけられず、イリーナも、黙り込んだままである。
気まずい空気を壊したのは、第三者の登場だった。
「イリーナちゃん。男はみんな野獣なんだから、気を許しちゃだめよ?」
鋭い短剣を思わせる、低く、けれどよく響く声。
コロリョフ大佐である。彼女は大股で歩み寄りながらいう。
「未来の宇宙飛行士であるあなたに、第一書記から言伝があるのだけれど」
そう言いながら、意味ありげにヴェルナーに視線を向ける。
視線の意味を正しく察したヴェルナーは頭をかきながら、ため息をつく。
「わかりました。ちょっとお茶の準備でもしてますよ」
二人きりになった居室で、大佐は当然のように葉巻に火をつける。
イリーナは、煙が機器に与える影響について指摘するべきか二秒ほど思案し、結局何も言わないことにした。
「あの子、おかしな言い訳を使うのね。お茶の準備は副官の仕事でしょうに」
「少佐は優しいお方ですから」
「違うわ。あれは、推しの強い女にとことん弱いのよ。尻に敷かれるのが大好きなのよね、きっと」
イリーナは小さく笑った。的確な指摘で、彼女も同意するところだった。
「だから、とことん、主導権を握るのが正解よ。もっとも、肝心の、一番欲しい部分だけは無茶苦茶にガードが硬いのだけれど。
その点、今回、あなたは上手くやったわね。
あなたがなまじっか優秀なだけに、ヴェルナーは対応をあやまりつつあるわ。
あなたがおかしなことを言っているのか、勝算があるのか、彼自身、判断がついていないもの」
ずっと、自分が見ていなければならないと思っていた彼女が、自分の想像できない計画を持ってきたこと。
それをあっさり形にしてしまったこと。
ヴェルナーの考える常識を打ち砕いてしまい、彼は何が正しいのかを見失っているのだと、大佐は指摘する。
イリーナは微笑んだ。大佐の言うことが、珍しく全面的に同意できて、すこしだけ、良い気分だった。けれど、すぐにまた、ほの暗い感情が支配する。
「それで、正直ベースで話して欲しいのだけれど」
それまで軽い口調で話していた大佐は、突如低い口調でイリーナに、詰め寄るようにいう。
「あなた、帰ってこれるの?」
イリーナがなんの表情も浮かべないのを見て、大佐はいう。
「愚問だったわね」
大佐は目を細め、火傷の痕が引きつっているにもかかわらず、一見無邪気にみえる笑顔を浮かべて、にっこりと告げる。
「あなたが、帰還率が絶望的なプロジェクトを無理やり推進している理由を、あててみましょうか」
大佐の紫煙が、埃ひとつないクリーンルームを汚染していく。まるで、自分が汚されていくような錯覚を覚えた。自分とロケットを重ねて考えていることに、驚きながら。
「恋をしたからでしょう?」
イリーナが息を呑んだ。大佐がまた、紫煙を吐いた。
「でもって、叶わない恋ね。残念ながら。まったく、あれがわかっていないことの方が腹立たしいわ」
そして、手元でアルニーニャの時計を開いたり閉じたりともてあそびながら、大佐は尋ねる。
「ときにイリーナちゃん。幸せってなんだとおもう?」
イリーナは、答えられなかった。大佐も返事は期待していなかったようで、一息つくと話し続ける。
「幸せって、ひとそれぞれなのよ。
食べていられれば幸せだっていうひとがいるわ。作者と対話する読書こそが幸せだというひとがいて、全力で何かを勝ち取る行為こそが幸せだというひともいる。
自分が前に進んでいる実感こそが幸せだというひとがいる一方で、誰かの足を引っ張ることに幸せを感じてしまう困ったひともいる。
もちろん、恋をしている事もそうで、この場合は多分、誰かの幸せが幸せだと感じるのでしょうね。
ちなみにわたしも昔は、食べていられれば幸せだったわ」
大佐はくすくすと笑う。彼女に似合わぬ、子どもが悪戯を思いついたときの笑みである。
「イリーナちゃん、ナキアミ地区って知ってる? 知ってるわよね。あなたの生まれた街のすぐ隣だもの」
イリーナが目を見開く。知っているもなにも、そこは――。
「わたし、そこの出身なのよ」
大佐はいつものようにひとを喰った笑みを浮かべてはいたが、彼女の目は真剣だった。
大佐は続ける。
「わたしはいま、幸せだわ。充実を感じている。過去に支配されるつもりはないし、支配させるつもりもない。わたしは前だけを向いて、わたしの望むことをする。つまり、何が言いたいかというとね」
ふうっと煙を吐く大佐。
煙は輪になり、ふんわりと浮かんで、やがてゆっくりと消滅した。
「何を幸せと感じるのかは、その時々の環境によって、しかも本人の感じ方によって変化するということよ。
環境によって変わるということは、自分が何を幸せだと感じられるか理解しなければ、幸せだとわからないということになる。
環境が変わった後で、自分が幸せだったと気づくだけの人間は、なくした事にしか気づくことができず、従って永遠に不幸になる。
要するにね、イリーナちゃん。
幸せになりたいのなら、自分がどういう時に幸せであるか、自分の心の囁きに耳を傾けることね」
大佐は手元のアルニーニャ製の懐中時計をのぞき込み、ぱちんと閉じる。
「わたし、月がチーズであるかどうかは、欠片も興味をもてなかったのだけれど。あなたは、どう? いま、宇宙飛行士になれて、幸せ?」
大佐はイリーナの肩を叩くと、大佐は訪ねてきたときと同じような気軽さで帰っていく。
たたずむイリーナを残して。




