60 ――叱られて終わるんだと、思っていました。
組織のトップは孤独である。
誰にも相談できない。目指すべき方向を聞いてくる部下はいても、正しい道を教えてくれる先達はいない。
いま、自分が感じているのは、かつてヴェルナーが感じた孤独なのかもしれない。そう考えると、少しだけ慰められるような気がするイリーナだった。
彼女はひとり、夜空を見上げていた。今宵は新月で、つまり月明かりはない。
星々は、天高きところから、自分を見下ろしている。
命の木霊が呼んでいるような、はかない明るさだった。あの中に、自分が打ち上げた人工の星が加わっていただなんて、数日たった今でも冗談にしか思えない。
自分は星に呼ばれているのかもしれない、と柄にもなく思う。詩的な表現を使っている自分を発見して、イリーナは苦笑した。
ひざの上で丸まっていた猫ちゃんが、イリーナの心の不安を察したように、にゃーごと鳴いた。猫ちゃんの喉もとをかいてやりながら、はやりイリーナの視線は、いまだ宇宙へ向けられている。
彼女の思考を邪魔するものはなにもない。イリーナは、散発的に頭に浮かんでくる事柄を、吟味していく。
自分は、事実を正しく認識している。
少なくとも、そう思い込もうとしている。
成功したのは、一回のみで、統計を取れるだけの数をこなすだけの資金も機会もない。
――叱られて終わるんだと、思っていました。
イリーナはぼんやりと思った。
式典までの期間は、残すところ一ヶ月。
計画を進めていけたとして、仮に欠陥が見つかった場合、解決策を見出すための時間はない。ひとを打ち上げた後、バックアップとして救援に向かえるような技術もない。
無事に帰還するための方策は、いまだ未熟なままであるとの認識は、なにもヴェルナーだけのものではない。
宇宙へ臨むイリーナ本人が、技術的困難を認めていた。
だが、ヴェルナーは気づくことができなかった。
現場から離れてしまっていたからか、イリーナの実力を読み違えていたからか、あるいは、その両方か。
とにかく、彼は見逃した。
自分が、はじめから、帰ってくる気がないことを。
スプートニクは、打ち上げからおよそ三ヶ月で、地球の重力に引かれ落下し、大気圏で消滅する。
重量を削減するなかで、必死に盛り込んだ温度センサーが、彼のために貴重なデータを残してくれることを期待している。そして自分も、スプートニクと同じように、知見を残して消えるだろう。
理論による試算では、五○○○度を下らない。
大気圏再突入時、ベリリウムが十分に熱を溜め込んでくれるという、確信が持てない。
唯一の可能性は、エンジンの燃焼試験時に見つけた、プラスチック部材。
ロケットノズルに利用した際、ガラス繊維を配合したプラスチックに覆われた部分だけ、意外なくらいに熱に耐えていたことを、たまたま発見したのである。
イリーナの経験に裏打ちされた勘が告げる。これが、今後一○○年に渡っての最適解になる、と。
だが、自分の部下たちは、ガラス繊維との配合比も、母材の樹脂を量産できる技術も、それを衛星に貼り合わせる十分な加工技術も、持ち合わせていない。
おそらく、ヴェルナーのチームにも、知見はないだろう。
だからこそ、彼は聞き、イリーナははぐらかした。
それでも、イリーナがやりたいと望み、結局は、彼女の望みを達成するために動いてくれるという。
――なんて、優しいひと。
彼を想う心に、偽りはない。
だから、十三・七Gの根拠についても、誤魔化すことしかできなかった。
――まず僕は、この十三・七Gという数字の根拠について聴きたい。
彼が問うたことの意味をイリーナは痛いほど理解している。
自分がロケットを通して学んだことは、まさにこの根拠を持つということなのだから。
でも、その根拠をイリーナは語らない。
語れない。
語るつもりもない。
本当に知る必要などないのだ。
サ連がかつて、月を目指したことがあるなどということは。
極限環境への挑戦。
ひとはどこまで耐えられるのか。なにをすると、死に至るのか。
仮想敵国に対する、科学的な絶対優位性の確保を目的に、科学者が暴走した事案。
独裁者スターリンが科学者をシベリヤに追放した、本当の理由。
かつて、陸海空軍から独立した連邦宇宙軍なる組織が存在したことなど、知らない方がいい。
科学者が粛清対象になった最大の理由であり、イリーナが通訳として生きることになった直接の原因。
――まさか、唾棄すべき過去が役にたつなんて。
でも、だから、言う訳にはいかなかった。
――兄さん。あなたにはわからないでしょう。あなたの心の片隅に、わたしの存在を刻み付けておきたいと願う気持ちは。
覚えておいて欲しい。
願わくば、綺麗なままの自分を。
望まなければ、楽だった。
気づかなければ、傷つかなかった。
きっと、いまの自分に必要なことは、人形になりきって、魂の震えを抑えることだろう。
ロケットに本気になっているという前向きな感情以外に、何もないと自分を騙すのだ。
彼と共に勝ち取れるものに価値を感じ、その上で、彼を自分の計画に引きずり込むことが、記憶してもらうための絶対条件。
通信の届かない、地球の裏側まで、たった九十分程で行って帰ってくる。
そして、灰になって、燃え尽きる。
これで全て、綺麗さっぱりだ。自分にとっても、彼にとっても、この国にとっても。
また、猫ちゃんがにゃーごと鳴く。
捕まえるまもなく膝から飛び降りると、何を見つけたのか、ベッドの下に潜り込んでしまった。
ぽかぽかしていた膝元が、急に冷え始める。
そのひんやりした感覚が、先ほどから感じていた孤独を増長させる。
――わたしはいま、まともなのだろうか。いびつで、嫉妬に狂って、いるのではないだろうか?
何度問いかけても、結論は出ないまま、夜は更けていくのであった。




