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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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44 「わたしは消えるのですか」

 イリーナが通された部屋は、それほど広くはなかった。精々、大人が二人ばかり横になれる程度だった。

 もっとも、そう感じたのはところ狭しと並べられた数多くの道具があるせいで、かもしれなかった。

 机に置かれたランプが弱々しい光ながらに周囲を照らしている。

 揃えられた設備や道具が、抑えられた照明をうけて、暗い影をつくっているために、いっそう不気味さがかき立てられる。


「試してみるかね?」


 酒に焼けたようなかすれた声で、看守がいう。彼が示したのは、なにをどう使うのかもわからない道具だった。

 正確には、どう使うのか考えない方が良い道具だった。

 ひとがまたがれるくらいの、三角形に尖った木の台は、先端がどす黒く染まっている。

 何度も焼かれて黒くなった鉄の棒があり、身体の自由を奪う鉄腕がある。

 前時代的だと、イリーナは笑い飛ばそうとした。

 科学が幅を利かせる世の中になって、人類は空を飛ぶ力すら手に入れているのだ。そんな人間が、同胞を痛めつけるためだけに、力を尽くすことはないだろう、と。

 自分が縛りつけられるだろう椅子を見つめた。床に固定されたそれは、大きくのけぞってもびくともするまい。

 両手も両足も拘束されて、例えば足の裏に、真っ赤に焼けた鉄の棒を押しつけられて、そして。


 顔を蒼白にして、イリーナは首を横にふる。

 せめて気丈に胸を張っていることが、彼女の最後の誇りだった。

 看守は肩をすくめる。


「もちろんわたしたちは、文明人だ。こんなものは、使わずに済むなら、その方が良いだろうことは承知している。

 それに、肉体の苦痛に耐えられるものなどいない。これは統計的に導きだした結果というやつでね。

 なに、準備はすぐに整う。しばらく待っているのだな」


 不気味なほどにこやかな笑みを浮かべてみせる。

 その統計をとるために、どれほどの人を苦しめたのかについて、イリーナは尋ねる勇気はなかった。


 ――わたしは、何度も何度も、やめてくれと泣き叫ぶことになるだろう。

 やめてくれと慈悲を乞うにちがいない。許されるなら、彼らの足にしがみついて。

 それでも彼は聞いてくれず、いやむしろ面白がるように、わたしが苦しむのを見て笑うのだ。




「――っ!」


 惨絶な悲鳴に、イリーナは飛び起きる。その悲鳴が誰のものでもなく、あえて言えば自分のものだとわかって彼女は、額にびっしりと浮かんだ汗をぬぐった。

 イリーナが寝ていたのは、病院で使われているような、無骨な鉄製のベッドだった。取手に塗られていた白いペンキが剥げてしまっている。

 そこは個室で、部屋の半分がベッドで占められている。壁と天井は白く、床はリノリウム。ドアの横には洗面台があった。

 病院特有の消毒液の香りがすれば、そこは病室といって差し支えない部屋だった。違うのは、一切の窓がないことくらいである。

 彼女は、身を隠すように、あるいは怯えるように、シーツを胸元あたりまで引っ張り上げる。

 彼女が夢見たよりも、もうすこしだけ文明的な、昨日の取り調べを思い出しながら。




「君が真に正直に事実を告白するならば、党は決して悪いようにはしないだろう」

 取り調べは、そんな文言で始まった。

 尋問は、常に二人。

 はじめは、やや高圧的な態度で質問をうけた。

 名前から始まり、経歴や研究内容、そして一週間ばかりの行動について。ミサイル開発に取り組む理由など。


 取調べそのものは、至極文明的なものである。

 ただ、淡々と質問が重ねられる。


 あなたには、どんな敵がありますか?

 友人はありますか?

 夜は眠れますか?

 眠る前になにをしますか?

 あなたは執念深くありませんか?

 レーニン主義をどう思いますか?

 開発計画についてどう思いますか?

 帳簿のエンジン開発費の推移について意見はありますか?

 あなたのやっていることは、意味のあることだとおもいますか?


 イリーナが沈黙を守っていると、やがて尋問官が入れ替わる。

 彼は両手に珈琲を準備していて、一方を自分に、一方をイリーナに差し出す。

 そして、砂糖やミルクで味を整え、旨そうに飲む。

 あちっ、と言いながら、少しこぼす仕草で、イリーナの笑いを誘う。


「わたしはどうにも、おっちょこちょいでいかんなあ」


 そんなことを言いながら、茶目っけたっぷりに語る。

 昨晩負けたカードの額、妻と連れ立って歩いた湖畔の景色、昔読んだSF小説の感想など。


「そうだよなあ。わたしも、宇宙旅行を夢見たことがあるんだよ」


 悲痛な想いを込めながら、小さく笑う。

 同じバックグラウンドを経験しているという印象の操作だった。

 尋問官の穏やかな態度が、イリーナに争う身構えをときほぐし懐柔するのだ。

 最初の高圧的な人間ならまだしも、彼であれば、話を聞いてもらえるのではないか、と。

 人間の判断基準は曖昧で、直前に受けた経験から相対的に比較してしまう、悲しい生き物だ。

 通常であれば、二人組の態度が尋問の常套手段であると看過し、イリーナも取り合わなかったことだろう。


 だが、今の彼女は、背後に銃口を押しつけられているに等しい。

 これまでの生涯で、かつ経験したことがないほどに、死を意識させられているのだ。

 そんな極限の環境で、相手が共感を寄せてくる。

 どれだけ屈強に鍛えたものであろうと、容易に耐えられるものではない。

 取り調べる相手との共感こそが、相手の心を開き、望みの答えを引き出せるようになるという、長年の経験と研究から編み出した、国家安全委員会の取り調べである。


「わたしは消えるのですか」


 イリーナが、ぽつりといった。

 ずっと感じながらも、胸の奥に秘めていたものが、弾みでこぼれ出てしまったのだ。

 震えた声で。

 希望の道を断つことが、恐怖から逃れる唯一の道であるかのように。

 その供述こそが、委員会の引き出したかった文言である。

 一度の妥協で十分。あとは、如何様にでも供述は引き出せるし、書き換えられるのだから。


「君が真に事実を告白するならば、党は決して悪いようにはしないだろう」


 二人目の尋問は、同じ言葉を何度でも繰り返す。

 決して声を荒げることはない。

 優しく、諭すように、これから待ち受ける運命に怯える人々を優しく包みこむ。

 無理やり押しつけられるより、逃げ道を用意されて追い込まれていく方が、何倍も危険だった。

 そして、銃口に怯えた彼女には、その唯一の道を行くしかない。

 その逃げ道には、巧妙な罠が仕掛けられていると知りながらも。

 尋問という言葉の意味を、イリーナは初めて実感する。


 肉体的に壊されない代わりに、心が崩れてゆくのだ。

 拷問にかけられた罪人が選べるのは、屈服するか死ぬかである。

 だが、彼らの尋問もまた、告白するか死ぬかであった。しかも、優しい言葉で、ゆっくりとほぐされながら。死と生の両方をちらつかされて、耐えられる人間は、そう、いない。


「あなたは、秘密裏に衛星を開発していました。そうですね?」


 イリーナが息を呑みながらも沈黙していると、彼らはさらなる質問を投げかける。

 目の前の少女に、自分の立場を思い出させるために。


「あなたは、通訳だったはずです。なぜ、わたしたちに連絡をくれなくなったのですか?」




 イリーナは引き寄せたシーツを握りしめたまま、静かに宙をみつめていた。


 ――なんと答えるべきだったのだろう。

 詮なきことだと、自嘲する。どうせ、行き着く先はわかっている。


 もうすぐ、消えるのだ。

 名前もなく。写真もなく。面影や形跡もなく。

 公的な記録から、自分の存在した証は一点の曇りもなく削除され、なくなるのだ。

 遺体には油をかけて焼かれ、灰となって風に舞うのみ。

 墓すらない。

 人々は、自分が消えたことに気がつきつつも、自らに危害が及ぶのを恐れて、誰も口にしない。

 そして、数日が経てば、自分がいないことが新しい常識になり、日常になる。

 仕方がない、と思わないでもない。

 自分は、生きたいように生きてきたのだから。


 彼の重しにはなりたくない。

 だから、胸の奥の深いところで生じつつあった浮ついた感情の一切を心から締め出し、それにとって変わるロケットに注力した。

 ロケットは興味深かったし、自分で出来ることが広がっていくのは楽しかったし、なにより彼の力になれるのが喜びだった。

 何かに打ち込むというのは初めてだったし、そんな自分や、彼を裏切ることはしたくなかった。自分で自分を汚しているような気がして、だからいつしか、通訳の仕事から距離を置こうとした。

 けれど、けれど。


 ――どうしたら良かったのだろう。


 通訳から距離を置き、報告書の提出を怠っていたのだから、いつかこんな日が来ることはわかっていた。わかっては、いたのだ。

 でも。

 再び詮なき考えに陥り、堂々巡りをしている自分をみつけ、イリーナは静かに目を閉じた。

 あと数日もない命なのだ。

 留置所に更迭されて、時計も日差しも入る余地のない環境が長すぎたために、いまが昼か夜かもわからない。

 弁護士も証人もなく、最後の時を迎える場所がどこであるかも知らない。

 確かなのは、まもなく自分は死ぬということ。

 身体は拘束され、それ以上に精神が、ひとつの観念の中に監禁され、蹂躙されつつあった。


 いま、もっとも恐ろしいこと。

 それは、消えてしまうだとか、暴力を振るわれ、あらゆることを告白する人形にされてしまうことでもない。


 悔しいという気持ちを忘れてしまうことだ。


 自分が辿ってきた道は間違いだったと、後悔してしまうことだった。

 イリーナは、兄さんが通訳だったらよかったのに、と思った。

 そうすれば、彼のことだ。間違いなく、自分で取調べにあたったことだろう。

 でも、やっぱり、兄さんが通訳じゃなくてよかった、と思い直した。


 なぜならば――。

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