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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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35 「命を燃やせということですね」

 アラル海にほど近い、バイコヌール地方の一角。エリア68。

 モスコーから二○○キロ。

 汽車と車で三十六時間という、背の低い灌木しか育たぬ荒れ地に、宇宙を夢見た一群の人々が、ロケット発射場を建設していた。

 R-7が、発射台にぶら下がっている。イリーナが開発した、完全同調型(クラスタリング)エンジンを抱いて。


 愛称、セミョールカ。

 R-7は、各ブースターが円錐形状をしている。それらが、ロケット本体にそうように、全長の中程から沿うように配置されており、遠目には、末広がりに大きくなっているように見える。それが、女性のスカートのように見えることからついた愛称である。

 セミョールカのノーズコーンの中には、ダミーの核弾頭が備え付けられている。書類の上では核弾頭ということになっているが、イリーナたちエンジニアの間では、人工衛星であることは周知の事実である。政治家とエンジニアという、信念も目的も異なる集団で、目的だけが一致した結果だった。

 資金を借り入れている以上、書類の上では核弾頭であり、一度の機会すらも無駄にはできない現場は、重量だけを合わせた衛星を、こっそりと搭載する。現実と虚構の折り合いが、書類の上でついている形である。

ちなみに、その核弾頭兼人工衛星は、重量も構造もぎりぎりで、一寸の余裕もない。イリーナのチームが作り上げた、最高傑作である。


「失敗したらどうしますか?」


 イリーナは努めて軽い口調でいった。


「五億ルーブルが掛かった、失敗になるね」


 開発予算の全体を把握していなかったイリーナは、反射的にぎょっとし、ついで深呼吸をしてから、聞き間違いだったらいいな、と現実から目を逸らしながら尋ねた。

 なにがまずいかといえば、イリーナ自身がこっそり衛星開発のために使い込んだ金額が五千ルーブルだったからである。聞き間違いでなければ、全体の予算の五分の一を使い込んでいたことになる。

 ヴェルナーは、頼めば頼むだけ予算を積んでくれていたのだ。だから、彼が躊躇なく支払いを持ってくれているうちは、問題ないと勝手に思い込んでいた。だが、衛星開発は、プロジェクト成否を当然のごとく左右する立場にあったのっだ。


 ばれている。

 彼に隠れて造っていたはずの衛星開発プロジェクトは、ばっちりと全貌を掴まれている。きっと、第一設計局の間でも、イリーナの衛星開発は誰も口にしないだけの、公然の秘密なのだろう。


「五億ルーブルって、どれくらいの金額なのでしょう」


 イリーナはすっとぼけることにした。あとでお叱りを受けることになるとしても、打ち上げ直前の高揚感を無為にしてしまうことはあるまい。

 最善が望まれることは承知しているが、程々が好まれることもある。こと、人間関係に関しては。

 もっとも、問題の先送りには、大抵利子が付いてくることを、つまり余計に面倒くさくなることは、イリーナの十七年に満たない短い人生のなかでも、なんとなく理解している。


 だから、今日の打ち上げの成功をもって、利子も含めて返済する。

 彼女にとっての誤算は、ヴェルナーが極めて数字に、ことお金に関して敏感な人間であったということと、問題の先送りが大嫌いな人間であったということだ。

 彼は、あらかじめ訊かれることを想定していたように、あっさりと断言する。


「サ連邦政府予算の五パーセントに相当するね」


「それ、真面目にいってます?」


 イリーナは念のために確認する。胡散臭いことこの上ない作り笑いだったら救われるのだけれど、という想いで彼の顔を盗み見る。もっとも、現実は非情である。


「もちろん、僕は大真面目だ。だから真剣に予算の使い道については検討しているつもりだし、使った予算に対して、相応の成果はあると期待しているんだ」


「失敗することで、技術は前に進んでいくんでしたっけ」


「その通り」


「それなら、今日は失敗しても構いませんよね?」


 ヴェルナーの笑みが、今ほど怖いと思ったことはない。


「おかしいな。今日は失敗する前提で話が進んでない?」


 イリーナは慌てて取り繕う。


「そんな消極的なエンジニアだったら、いまこの瞬間を迎えられてはいませんよ。

 目指すは、バルコヌールから、およそ六四○○キロ離れた、カムチャッカ半島。世界最大の大陸、ユーラシアの三分の二を飛翔する、記念すべき日なんですから」


「そうだよね。君は馬鹿でもないし、無責任でもないよね。だから、今日は歴史が前に進む日だって僕は確信しているよ。君はどうなの? 副官どの」


 ヴェルナーは大真面目に訊き返してくる。下手くそで胡散臭い作り笑いを浮かべているだろう自分を心底情けないと思いながらも、しかしイリーナは今更ながらの責任の重さに、言葉を探しあぐねていた。


「――いずれにせよ」


 緊張感に満ちた空気の中に、妙にとぼけた声が一石を投じる。

 煙草の炎がゆらりと揺れる。夜光虫のような小さな明かりを手元の灰皿でもみ消しながら、口を挟んだのは、コロリョフ大佐だった。


「この試験がうまくいけば、あなたたちの悩みは、明日の二日酔いだけよ」


 視線だけを二人の方へ向け、唇だけの笑みを浮かべる。

 煙草を呑んでいただけの彼女が、権威も立場も関係なく、一番上の立場だった。


「準備はいいの? 今日は中央委員会からお偉いさんが視察に来なさっているのよ」


「それについて、本日は急用で外させてもらうと、先ほど連絡をいただきました」


 ヴェルナーがいう。


「あら、それなら今日は、わたしが立ち会う必要もなかったのね」


 そういって、大佐は葉巻の火を、揉み消し始める。


「見ていかれないので?」


「わたしは忙しいのよ。それに、あなたたちを見ていると、それだけでお腹いっぱいなのよね」


 大佐は肩をすくめると、火傷で乾いた頬に、笑みが引きつっている。

 大佐は何者なのだろう、とイリーナは思う。

 ロケットや宇宙に想いを馳せるでもなく、どうやら兵器としてのミサイルにも興味がないらしい。エンジニアとして開発に加わるわけでもなければ、見学していく理由は好奇心からではないらしい。

 大佐は、後をよろしく、といって本当に立ち去ってしまう。ヴェルナーがぽつりという。


「ごめん、ちょっといじめすぎたね。失敗の責任は、結果で返してくれればいい。それが、僕が考える責任の取り方だよ」


「それじゃあ、失敗したら、わたしに命を燃やせということですね」


 イリーナは軽口で応じる。


「鬼ですね。いいですよ、やってやりますよ」

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