32 「エンジニアは、ものを造るだけじゃない」
イリーナは、頭があまり良くないことを自覚している。
そもそも、自分の頭の出来が良いだなどと考えたことは、産まれおちてからこの方、一度も考えたことがない。
けれど、頭の出来について自覚していることと、だから手加減してほしいという言い訳を述べることは、残念ながら繋がらないのである。
だからイリーナは、己の脳を全力で使って、昨日までは専門外であるから聞き流してよいと判断していた呪文のような言葉の羅列に、必死に耳を傾けていた。
「MII−A 無線誘導システムの周波数帯についてご相談が」
一人目は、仰々しい男だった。
イリーナを見て、軽く目を見開いたあとは、ひたすらに技術の話をし続けた男だった。ずっと紫煙の匂いをまとわせている四十代。
はじめのひとりと真剣に向き合っただけで、すでに頭がくらくらした。
「SKB−56 テレメトリー担当です。今日はお時間をいただき感謝します」
二人目か、三人目だとおもう。街の小競り合いの仲裁でぶいぶい言わせていたような、三十をすこしくらいの男だった。
イリーナの苦手な、喧嘩っぱやい人種。
「自動追尾システムのために積載量を譲歩していただきたく」
イリーナに重量の融通を打診しにきた彼はたしか、二十分で説明を、という約束のはずを、四十分も熱弁を奮ってくれた学者肌の男だったと思う。
他にも、圧縮性流体解析班、弾道解析、地上管制システム、高度測定装置開発等々、延々と顔合わせが続く。蓄電に、太陽光に、各種センサー系についても忘れない。
ヴェルナーが繋がっていた専門家の手広さを見せつけられて、自分の無力さをイリーナは噛み締めていた。
専門だったから、と任されていた燃焼の分野がひどく手狭に感じるくらい、この街に集うエンジニアたちは自分の世界をもっているのだ。
数の暴力としか思えないほどの膨大な知識の大海を前にして彼女が感じたのは、言葉にできない戦慄である。無理やり形容するならば、ひとり荒野に置き去りにされたような孤独と、無力感。
あるいは、鬱蒼と茂る深い深い森の中で途方にくれている子どものような、寂しさと恐怖だった。
彼女の前に道はなく、また、方角すらもわからない。
イリーナは、執務室の机にぐったりともたれかかっていう。
「兄さん、道がありません」
全てを覚えていられるわけがない。
それができるのであれば、神業か、狂気の領域だ。時間が飛ぶように過ぎていったという事実だけが、イリーナにとっての現実である。
イリーナが恨めしげに視線をむければ、ヴェルナーは、教え子を見守る教師そのままの表情をしている。
「足跡つけ放題ってことだね」
彼の余裕が悔しくて、イリーナは珍しく皮肉を口にする。
「やっぱり、兄さんが特別なんです」
「まさか。適度に肩の力を抜けばいい。彼らが何をしたいのかを理解するだけでいいんだから」
「そもそものとっかかりが難しいんです」
誰ひとりとして議論についていけないのではないか、とイリーナは思っている。彼らと対等に議論しあう光景は、どうしたって想像できないのだから。
「自分には知らない世界があることを、常に視界の端にいれておくんだ。はじめはそれでいい。いつか有機的に繋がって、君の力になってくれるんだから」
そんな日が来るんだろうか、とイリーナが口を尖らせる。彼の言うことは正しいが、まだまだ素直に受け止められなかった。
「次が最後なんだけど」
そんなイリーナをみて、ヴェルナーは一瞬だけ苦しそうな顔をした。しかしすぐに、いつもの困り顔に戻って尋ねてくる。
お呼びしても良いかい、と。
ヴェルナーはいつも、強要はしない。口ではなんと言おうとも、あくまでも、イリーナの意思を重んじている。彼の元で学んで二年あまりである。そのくらいのことは、イリーナもちゃんと気づいている。
彼はきっと、自分が投げ出しても、叱りはしないだろう。手をあげたりもしない。むっとしたりもしない。ただ、きっと、悲しそうな顔をして、肩を落とすだけなのだ。想像でしかないけれど、そうなるという確信めいた予感がある。
そうなれば、負担は間違いなく軽くなる。
けれど、彼ががっかりするだろうということと、ロケット全体を任せてもらえるチャンスは、もうないだろうということは想像できる。
なにより、彼の期待を裏切る選択は、イリーナには問題にすらあがらない。
「もう少しだけ、頑張ります」
「わかった」
頷いて、ヴェルナーは受話器をとって二言三言告げる。
秘書は自分のはずだったが、いつのまにか彼と立場が入れ替わっていることを奇妙に感じつつ、イリーナは知っておくべきことを問う。
「次は何の専門家ですか?」
「材料屋さんだね。金属加工が専門だって」
材料となると、加工技術になるのだろうか。
ちょうど、四○○○○回転に耐えられる軸受けの材料を探していたところだった。比強度が高いチタンを使いたけれど、加工が難しくて断られてばかりだった。この点について、少しは参考になるかもしれない……。
苦しい気持ちをため息をともに吐き出しながら、ちらりと時間を確認してイリーナは驚いた。
すでに十八時を過ぎていたからだ。
そういえば、執務室で唯一の窓からは、西陽が差し込んでおり、まもなくの日暮れを演出している。
――そうか、もう定時なんだ。
イリーナはいっとき、考え込む。
一日の時間をかけてやったことは、ひたすらに人に会うことだけではないか。今日という日を実験に注ぎ込めば、どれだけ実験が進められたか想像しようとして、やめた。悲しい結果にしかならない気がする。
まもなく入室してきた材料屋は、三十をいくつか過ぎたくらいの男性である。今日で何度目になるかわからないお決まりの挨拶を述べ、彼に椅子をすすめて自分も席につく。ここまではいつも通りだったのが、彼の第一声でイリーナは言葉を失った。
「イリーナさん。その節は、お世話になりました」
イリーナは、ぽかんとを見上げた。どこかで会ったことがあるだろうか。
イリーナは改めて、材料屋さんを見直した。けれど、気になったことは少々頬が痩せこけていることくらいで、若干神経質そうではあるが、全体的には柔和な印象の男性である。
少々、身だしなみがだらしなくはあるけれど、娼婦と遊びにくるような種類の人間ではない。
つまり、お世話をした記憶など、まるでない。
「どういう意味でしょう?」
イリーナがとりあえず手元のペンを回しながら尋ねる。
「覚えていらっしゃいませんか、娘にリボンをくださったでしょう? 娘はいたく気に入りまして。おしゃれがしたかったんだと、はじめて気づかされました。
あの後、すぐに服を買いにいったんです。おしゃれはまだ早いと思っていましたが、女の子はいくつでも女の子なんですね」
記憶を辿っていたイリーナは、はたと手を打った。目の前の男の記憶はないが、女の子の髪をすいてあげた記憶はある。
「あ、あの時のお父さんですか」
材料屋さんは微笑みながら続ける。
「おかげさまで、ボサボサの頭だと娘が家から出してくれなくなりまして」
「そうでしょうとも」
イリーナが力強く同意したので、彼はちょっとだけびっくりした顔になり、それから喉の奥で笑った。
「それで、今日はわたしの知識がお役に立てるとのことですが」
「専門は金属材料だとか」
「ええ。加工技術にはそれなりに精通していますが。何かお困りごとでも?」
「チタンを加工できますか?」
「ずいぶんと抜き打ちですな。どの精度をお求めで?」
「髪の毛一本分以下の誤差で」
「なぜ、必要なんです?」
イリーナは背景を手短に説明した。
ロケットエンジンの簡単な原理として、液体水素のような零度以下ものを燃焼室に送りこみ、燃焼させること。ガスは数千度まで上昇し、推進力として吐き出されるが、その際のエンジン内部は、直列の系に低温と高温が共存する、ひいては低圧と高圧が面合わせに存在する環境であること。
その環境に、燃料を供給するするには、圧力差をものともしない強力なポンプが必要になること。必要スペックは四○○○○回転/毎分であり、強度が高く、壊れにくく、かつ軽い材料がチタン以外に見当たらないこと。などなど。
ちなみに、素人のイリーナが軽く目を通した書籍によると、チタンは難切削材に指定されているらしい。切削加工時に、発火する可能性が高く、たわみやすくて精度を出すのが難しい、というのが注釈に書いてあり、絶望したのをよく覚えている。
イリーナが話し終えても、材料屋さんは難しい顔で沈黙を守っている。
ああ、やっぱり無理ですよね、と言葉を逃しかけたその時。
「わかりました」
ぎょっとしたのはイリーナである。
「髪の毛一本分ですよ?」
「ええ。わたしの研究分野そのものです。不水溶性潤滑油と刃工具の当て方で、なんとかなると思います」
どうやって? と聴こうとしてイリーナは思いとどまる。ここで深入りすると、知識の底なし沼に足を踏み入れることになると、流石に学んでいる。
「では、よろしくお願いします」
「ただ、刃工具がすぐにダメになりますので、時間と替えを用意いただきたいのですが……」
今までと打って変わった、歯切れの悪い口調で男がいう。
「どのくらいですか?」
額が額だと自覚しているためか、具体的な数字を述べたときの彼の声は尻すぼみになっていた。イリーナは、肩をおとした。けれど、傍観者に徹していたヴェルナーはあっさりという。
「出せるよ。そのくらい」
イリーナは狐につままれた顔で、材料屋さんを見送った。
数週間、解決策が見当たらず悩んでいた問題が、一瞬で解決してしまった衝撃に、イリーナはうちのめされてしまっていた。
その様子があまりに表に出過ぎていたのだろう。ヴェルナーがからかうようにいった。
「地が出たって感じだね。そのくらい力ぬいた方が、魅力があると思うよ」
――なんて恥ずかしいことを言いやがるんですか!
思わず口を開きかけ、結局、なにも言わずにうつむいた。
まさに、彼の言った通りだったからだ。
やっと理解した。ヴェルナーのお人好しの真意に。
それは、あなたの仕事なんですか、と尋ねた、あの業務。
一週間のうち、まるまる一日を、人々の相談に費やすという無駄に思われてならなかった行いは、自分への投資に他ならなかったのだ。
ヴェルナーは、うつむくイリーナの髪を軽くなでながらいう。
「君の言葉でいうところの、もちつ持たれつ、だよ。エンジニアは、ものを造るだけじゃない。チームも創っているんだ」
イリーナは、頷いた。
ロケット開発に不可欠な学びであると、深く実感しながら。




