第八十二話 涙の理由
――目が、覚めた。
「……」
ぼんやりと見慣れない天井を見上げる。
まどろみの中、無言で佇んでいると、すぐ傍から上ずったような声が聞こえた。
「姫、様?」
普段は冷静な表情を崩さないテオの顔が驚愕に彩られている。
一体どうしたのだろうか。
「……ぁ」
上体を起こした私は、テオの驚きの原因に気が付いた。
頬を伝う雫がゆっくりと手元に降り注いでいく。
手の平を顔に当てると、なんだかとても熱かった。
(私……泣いてる?)
あの夢のせいだろうか。
懐かしき日々。
本当に幸せだった毎日。
あれからも色んな事があったけれど。
ルークと過ごした日々は褪せることなく、今尚私の中で圧倒的なまでに輝いている。
「お加減が悪いのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
幸せな日々を思い出して泣いているのか。
それとも。
もう一度。
もう一度あの日々が訪れる予感が――。
「……テオ、ルノワールがどこにいるか分かる?」
「えっ?」
突然ファウグストス家の従者の名前を出されて戸惑ったのだろう。
「ルノワールさん、ですか?」
常の彼女にしては珍しく、確認するように私に聞き返した。
「ええ、そう」
「今日は、もう既にメフィル様と御一緒に学院に向かわれましたが……」
「……そう」
訝しげな表情のテオを見上げながら、私は言い訳するように言う。
「いえ、今日の夕食は何かな、って気になっただけよ」
苦笑しながら。
私は右手の薬指に視線を落とした。
☆ ☆ ☆
夜。
「……」
私は屋敷内をそれとなく、散策しながら『その時』が来るのを待っていた。
使用人のウェンディさんと談笑していると、やがて件の人物が2階からゆっくりと降りて来る。
横目で窺うような真似はしない。
私は誰よりも『ルノワール』という人物の強さ・勘の良さを知っている。
僅かにでも意識を向けようとすれば、即座に怪しまれることは間違いがないだろう。
(入った……っ!)
ルノワールが入って行った場所――それは浴場だ。
彼女はいつも浴場には絶対に最後に入るらしい。
鍛練で遅くなる事が多いから、とか。次の日の食事の仕込みがあるから、などと理由を付けて。
そんな習慣も私に疑念を抱かせるには十分だった。
さり気無い素振りでウェンディさんと別れ、自室に戻るように見せかけた後。
「っ!」
そのまま全速力で、浴場に向かって駆け出した。
心の中にある思いはただ一つ。
(ルノワールの正体を確かめる!)
半ば愛しき少年だと確信しているが、それでも決定的な証拠が無い。
風呂場であれば、彼女とて衣服を脱ぎ捨てるだろう。
もしも男の身体であるならば――。
私は浴場の脱衣場にルノワールのメイド服があることを確認し、風呂場の扉を勢いよく開けた。
「……っ! いない!!」
しかしその場には誰も居なかった。
一体どこに――などと考える私ではない。
私は彼のゲートスキルを知っている。
この状況も織り込み済みだ。
先程彼女は部屋を出て浴場へと向かった。
それは間違いない。
そして屋敷の使用人の部屋は内側からしか鍵が掛けることが出来ない造りになっている筈だ。
つまり急げば――ルノワールの部屋に入ることが出来る。
一目散に再び駆け出す。
王女として恥ずべき、はしたない振る舞い、野蛮な行為である。
それは自覚している。
だけどそれでも。
私は止まらなかった。
☆ ☆ ☆
(不味い不味い不味いっ!)
カナリアが浴場へと駆けてくる気配を感じて、思わず自分の部屋へと転移してしまった。
この部屋には僕の魔力が込められた物がたくさんあるので、転移する分には何の支障もない。
いやそんなことは今どうでもいい。
突然の行動に動揺していたが故に現在何も身に纏っていない。
微かに濡れた身体をそのままに、なんとか落ち着こうと試みるも焦燥感が募るばかりだった。
(やっぱり、怪しまれている?)
そうとしか思えない。
かねてよりカナリアの振る舞いの端々から疑念の色は感じられていた。
彼女は風呂場で僕の裸を見て女性かどうかを確認しようとしたのではないか。
まぁ実際は僕の身体は現在、正真正銘(一部を除いて)女性そのものであるから、問題は無いのだけれど……。
「……ん?」
再び屋敷内を駆け抜ける誰かの気配を感じる。
僕は自分の間抜けさを呪いたくなった。
(あっ、しまっ――)
慌てて部屋の扉へと向かうも時すでに遅し。
素早くドアノブが回され、一人の人間が部屋へと入って来た。
「……」
無言のまま鋭い瞳を向けられ、僕は思わず一歩後ずさった。
「……か、カナリア様」
さぞや僕の声は上ずり、震えていることだろう。
「急に失礼するわ……」
軽く頭を下げながら。
彼女は不敵な微笑みを顔に浮かべていた。
「『ルノワール』、さん?」
含みのある言い方。
目の前には挑むような視線を僕に向けるカナリア=グリモワール=ミストリアの姿があった。
☆ ☆ ☆
案の定、部屋にいたルノワールの姿を見て私は、更なる確信を深めていた。
「……貴女さっきまで浴場にいなかった?」
私の問いかけに対し、彼女は明らかに動揺した。
「へっ? え、えぇっと、それはその」
「私、確かにルノワールが浴場に入っていく所を見ていたんだけれど」
追い打ちをかけるように言うと、ルノワールは目を白黒させ、宙で指をくるくると回し始める。
「そっ、そうですか? あ、アリーさんじゃないですか? ほら、私と同じくらいの身長ですし、後ろ姿が似て」
「同じ長身でも貴女の方がずっと髪が長いし、見間違える訳もないと思うけど」
そもそもルノワールを狙って浴場に押しかけたのだから、間違える筈もない。
付け加えるなれば。
アリーさんに対しては失礼な物言いになってしまうが、ルノワールと比べると、その差は一目瞭然である。
どうしても身に纏うオーラが違い過ぎるのだ。
隠しきれない華やかな気配。
明らかに一目で別人だと断言出来る。
正直に言って、同じなのは身長くらいだ。
というかそもそも。
「……貴女何故裸なのかしら、ルノワール?」
私の問いに慌てつつも頬を朱に染める彼女。
現在の彼女はタオルを一枚手にしているだけであり、衣服は何も身に纏ってはいない。
羞恥心を滲ませながら胸元を隠すような仕草で仰け反った。
「うぇっ!? あ、いや、その。そう! 着替えようかと」
「濡れたままで?」
「うっ……」
言葉に詰まる彼女に、私は一歩詰め寄った。
「ねぇ……」
すると彼女は私の動きに呼応するかのように一歩後ろに下がる。
「は、はい?」
「……」
まるで逃げる彼女を追うように。
もう一歩進む。
だが彼女は一歩下がる。
「どうしたの、ルノワ――」
ふと視線をテーブルに向け――私は目にした。
(あれ、は……っ!)
綺麗な額縁に収まった、素人目にも優れた作品だとは感じられない一枚の絵。
絵の描かれた紙は既にボロボロであり、色も霞んでいる。
とりわけ何か感動を誘うような代物ではない。
この芸術の都アゲハで目にする絵画としては、はっきり言って御粗末の一言に尽きる。
だけど。
みすぼらしい、その絵画を私は知っていた。
昔見せてくれた人がいたのだ。
『――実はこれ、僕にとっては宝物なんです』
これが自分の宝物なのだ、と。
『小さい頃から大事にしていて』
はにかみながら。
『お守り、というのでしょうか』
大好きな母との思い出を交えて。
私に語ってくれた少年がいた。
嬉しそうに話す彼の横顔を見ているだけで。
私は途方もなく幸せだった。
そうだ。
(……そう、この上ないほどに)
幸せ、だったのだ。
「……」
瞳が揺らぎ、肩が震える。
何かが……胸にこみ上げてくる。
『カナリア』
頭の中で――優しい声が木霊した。
傍で私に語りかける、愛しき少年の慈愛に満ちた声。
「……っ!!」
溢れそうになる嗚咽を噛み殺し、私はベッドの上にルノワールの身体を押し倒した。
「か、カナリア様……っ?」
私の口から漏れた声は、まるで幼子の泣き声のようだった。
「貴女は……っ!!」
ルノワールの瞳を間近で覗き込む。
整った容貌だ。
瞳の中は濁り一つ無く透き通っている。
肌は艶やかで、優しい眦は慈愛に満ちていた。
彼もそうだった。
中性的な面立ちの少年。
私に安らぎを与えてくれる。
こんな風に綺麗な顔で、私に笑いかけてくれて。
「貴方、は……」
もはや間違いない。
これだけ近くにいるのだ。
ただ傍にいるだけで。
こんなに温かな気持ちになる。
こんなに心が安心感を覚える。
こんなに――鼓動が早くなる。
意を決して私は言葉を紡ぎだす。
「貴方は……ルーク=サザーランドなのでしょう?」
ルノワールの瞳が大きく見開かれた。
「ど、どちら様で……」
「とぼけないでよっ!」
「っ」
「とぼけ、ないで。お願いだから……」
掠れた声で。
私は縋り付くようにして、ルノワールの胸に顔を埋めた。
「か、カナリア様……」
「……っく……ぁ」
嗚咽を噛み殺せない。
母親を見つけた子猫のように私はルノワールにしがみついていた。
☆ ☆ ☆
しばしの沈黙。
再び顔を上げてルノワールの顔を見つめる。
気付けば私の目から零れ落ちた涙が彼女の頬を濡らしていた。
「姫様、泣いて……」
憂いを帯びた表情で私を見上げるルノワール。
その顔は誘拐犯から私を救ってくれた時に見せたルークの表情と、全く同じだった。
懐かしき日々が私の頭を過ぎる。
今朝、夢で見たからだろうか。
鮮明に蘇る幸せな景色が私の心を揺さぶっていく。
「会いたかった……」
どうしようもないほどに。
狂おしいほどに。
ただただ。
貴方に会いたかった。
「会いたかったの……」
もう一度あの声で。
カナリア、と。
私の名前を呼んでほしい。
流れる涙を拭うこともせずに、まるで幼子のようにルノワールにしがみついた。
まさか願いが届いた訳ではないだろうが、小さな呟きが聞こえてきた。
「……カナ、リア」
茫然とした様子だった彼女の手がゆっくりと持ち上がる。
やがてその手の平が私の頬を優しく撫でた。
そっと私の涙を拭いながら、彼女の表情が変化していく。
真剣な眼差し。
ルノワールの瞳に決意の色が浮かんだのが見えたような気がした。
「私、は……いや」
小さく頭を振ったルノワールの声が耳朶を打つ。
「僕は――」