エピローグ
202X年、秋。
――『人喰い残月』と呼ばれた熊の死が確認されてから、18年余りの歳月が経っていた。
秋田県上津野市。
奥羽山脈の山並みに抱かれ、比内地鶏の産地としても知られるこの市のとある山際に、1軒の養鶏農家があった。
古くからこの地に根ざした農家ではない。
3年前に都会を抜け出し、この地に移住して養鶏家を志した男の家だ。
東京から引越して来た男は、購入した土地に大きな平飼い用の鶏舎を建てた。
今、その鶏舎の中では、すくすくと育った数百羽の地鶏が元気よく駆け回っていた。
ふと地元の猟師が、この男の〝城〟として生まれ変わった土地の前を通りかかる。
「――兄ちゃん、景気良さそうだなぁ」
「兄ちゃん」と呼ばれたのが、この〝城〟の主――東京から移住してきた30代の養鶏家の主人だ。
「いやあ、ぼちぼちですよ」
たまたま鶏舎から出てきた男は、はにかみながら応えた。
タオルを首に巻いたその装いは、この片田舎によく馴染んでいた。
彼の言葉は控えめだが、態度から喜びが隠しきれていない。
経営が上手く行っている証拠だった。
「……見回りですか?」
養鶏家の男は、猟銃を担いだ猟師を見てそう訊ねた。
狩猟が解禁されるのは1か月以上先だ。ふつう、この時期に猟師が銃を持っていることは考えにくい……と思われるかもしれない。
だが――
「んだ。熊が出たら危ねぇからな」
猟師は、さも当然のようにそう言った。
――そう。
この202X年の日本における狩猟関係の法制度は、かつてのそれとは大きく異なっている。
熊のような危険な猛獣を駆除する上で猟銃は欠かせない。そのために、いちいち行政の許可を得るようなプロセスは不要になった。
……もちろん、前提としての銃猟免許や銃所持許可は必要だが。
「ハハッ。頼りにしてますよ」
養鶏家の男は、軽い口調で言った。
別世界の誰かと同じように、彼は熊が本気で目の前に現れるとは思っていなかった。
――だがこの世界の彼の場合、ちゃんとそう信じるに足る根拠があった。
17年前の法改正によって、熊は積極的な駆除の対象となっており、ここ数年で人里に野生の熊が出没することはほとんどなくなっていたのだ。
そのおかげもあって、3年前に東京からこの市に移住してきた彼は、養鶏を始めて以来、一度も熊害に遭ってはいない。
それから猟師はしばらくの間、見回りに行かずに男と雑談を続けていた。
「お前ぇ、次の年末はどうすんだ?」
「……そうですね。一度、子供を連れて両親に顔を見せようと思ってますけど」
「そいつぁええな。……宮城だっけか?」
「はい」
猟師は東京から移住してきた男が、この土地に着々と根を張っていることを嬉しく思った。
養鶏家の妻は、地元である上津野市の女性だ。
市役所の職員をしていた彼女は、男が養鶏業を始める際の事務手続きを担当し、親身に世話を焼いた。
2人はそれをきっかけに仲を深め、昨年の春にめでたく結婚を迎えた。
もちろん、その前には互いの両親の元へ挨拶にも赴いている。
――この町に来て良かった。
養鶏家の男は、心からそう思っていた。
最初は不安だったが、事業も上手く軌道に乗ってきた。
一念発起して、脱サラした甲斐があった。
何より、妻と子供という大切な宝物を得ることができた。
人生、順風満帆だ。
――最近の男はときどき、このように万感の思いに浸るのであった。
気づけば、猟師の話は20年近くも昔の出来事に及んでいた。
「……昔はおっかねぇ熊がいたからな〜。知ってっか? 『人喰い残月』っちゅう奴でよ……」
猟師の言葉を聞き、養鶏家の男はピクリと片眉を上げた。
「――あ。俺、知ってますよ。ソイツのこと」
「ホントけ?」
猟師は疑いの目を向けるが、無理もない。
当時、男はまだ中学生に過ぎなかった。
……とはいえ、男の言葉に嘘はない。
――自分のような体験をした者など、他にいないはずだ。
それは男が自信を持ってそう言える、人生で最も強烈な体験だった。
……ある意味で不幸な偶然ではあったが、幸いにも無傷で生還することができた。
しかも、その時にあの有名な〝熊殺し〟の女英雄に助けられたのだ。
災い転じて福となす――とは、よく言ったものか。
その縁で、男は今もときどき彼女と連絡を取り合っていた。
(――俺が今度〝あの人〟に狩猟を教わるって言ったら、猟師さんびっくりするだろうな……)
そう思い、男は内心でそっと笑みを噛み殺す。
彼女は今も、凌雲平で猟師を生業としているそうだ。
「実は俺、――――」
男の話を聞いた猟師がひっくり返るほど驚くまで、あと数秒――。
青空に浮かぶ残月が、男を見守っていた。
(了)
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
後書きに代えて、noteにブログのような記事を書きました。
https://note.com/uduki_ikuya/n/n6ea12a2e80ba
本文とはややトーンが変わりますので、少し間を置いて思い出した頃にでもご一読いただければ幸いに思います。




