1.花火の夜に
「アリサ早く! 花火があがっちまう!」
「ま、待ってったら! 坊っちゃま」
赤茶色のおさげ髪を揺らしながら、必死に追いかける。
私のことを急かしているのは三歩先行く黒髪の男の子。
彼のことは皆「坊っちゃま」と呼んでいたから、何の迷いもなくそう呼ぶようになったのだけど……私が呼び方を決めた時、なんだか彼が不満そうにしていたことを覚えている。
歳の頃は、私の一つ上の6歳。私の住むセントクリフ子爵領にやって来たご貴族様の息子で、やたらと綺麗な見目をしていた。
対する私はごく平凡な町娘で、彼と仲良くなったきっかけは覚えていない。まあ、子供同士なんてそんなものだろう。
「もう、早く!」
焦れたような坊っちゃまは、振り返るなり私の手を掴んで修道院の廊下を駆ける。そのまま中庭を囲う回廊へ向かう。
あたりに人気は感じない。
今日は町のチャリティーフェスティバル。
今、私たちがいるセントクリフ修道院は町外れの白亜石で形成された岬の先端にあって、フェスティバルの夜には、ここから花火があげられる。子爵領と修道院きっての一大イベントだ。
通常、セントクリフ修道院の建物に部外者は立ち入れない。男子禁制の、修道女たちのために作られた修道院だったから。
だけど、男である坊っちゃまだが「貴族様への特別待遇」やらによって内に入ったことがあるらしい。私が花火をとても楽しみにしていると話せば、「花火を最も大きく見れる場所を知っている」と言い出した。そしてそれは、この修道院にある「中庭」だと言う。
そうしてこっそり裏口からここまで忍び込んで来たのだが……裏口とは生垣に開いていた穴だったわけでーー
過去一度に来たことがあるだけというのに、よく気づいていたなあとびっくりもした。
さて、回廊へ繋がる扉を開き、ひやりとした夜の外気が頬を撫でた時。
「誰かいる」
「え? わっ!」
坊っちゃまは短く言うなり、私を背中に隠した。
脇から顔だけ出せば、薄い月明かりの下、回廊の柱にぐるりと囲まれた中庭に大人が二人、いるように見えた。
言葉まではよく聞こえない。しかし、二人は厳しい口調で会話をしている。
ふいに、一人のセリフが耳を突いて来た。
「だからこそ『青い薔薇』をーー!」
……青い薔薇?
同時に、言葉に反応するように坊っちゃまの身体がぴくりと動いた。
「坊っちゃま?」
「しっ!」
問いかけた私に、坊っちゃまは人差し指を顔の前で立てる。しかし、そのまま彼は「青い薔薇って言った? それって確か」と独り言を繰り返す。眉間に皺も寄っていた。
確かに、私にも「青い薔薇」と聞こえた。
「薔薇には青い花を咲かせる種類はないのよ」と母さんが言っていた。私は色の中で青が一番好きだったから、青い薔薇が存在するのならどんなに素敵かと思って聞いたのだけど。
ーーそういえば、坊っちゃまの瞳の色も綺麗な青だったな。
「ぅぐっ……!?」
「「!?」」
一瞬、場違いなことを考えていると、修道院にあまり相応しくないであろう呻き声がした。
何故か、反射的に身の毛がよだつ。
その理由はすぐにわかった。
雲が流れ、少しだけ月の光が強くなる。
庭の真ん中で浮かび出されたのは、抱き合ったような体勢の二人。片方の人の足元にはぽたぽたと赤く、滴るもの。
「誰っ!?」
勢いよく、一人が私たちがいる回廊へ振り返る。もう一人はまるで意志を持っていない人形かのように……身体をぐにゃりと折り畳んで芝生へ崩れ落ちた。
しまった! 回廊のタイルで滑って、私の靴底から音がしてしまったから!!
瞬きする間も無く、坊っちゃまは私の腕を掴んで回れ右し、走り出した。
私はあまりの出来事にされるがままで、だけど思ったことを口にする。
「ね、ねえ、さっきのあれって、血……!?」
「黙って! それより走って!!」
坊っちゃまは小さく、しかし叫ぶように言った。とはいえ、子供の走る速度なんてたかが知れている。私たち以外の足音が背後に迫って来る。
やがて、坊っちゃまは観念したのか、廊下の角を曲がるなり私を手近な用具箱に押し込んだ。
「っ、坊っちゃま!?」
「アリサは足が遅すぎる! 俺たちが二人でいたことまではバレていないかもしれない。アリサはここに隠れていて」
「で、でも!」
私の身体は、本人の意思に反して勝手にひどく震えていた。
どうしてこんなことに。
修道院という神聖な場所に忍び込んだから神様がお怒りになった?
「二人してみすみす捕まる馬鹿がいるか! 俺がなんとかする。アリサはここから絶対に出ないで」
坊っちゃまは開きかけた私の口を塞ぐようにそっと手を当てた。そのまま、走ったせいで乱れている黒髪の下から私を見つめて言った。
真っ直ぐで深い、大好きな青い色の瞳に、不安そうな私が映る。
「今すぐ約束して。ここから決して出ないって。朝が来るまで」
「坊っちゃまは? 無理だよ……!」
「大丈夫。すぐにまた会えるから。約束を守ってくれたら、必ずまた、会えるから」
坊っちゃまの目は真剣で、安心させるようにその声は低く、私はもはや頷くことしか出来なかった。
私が大人しく用具箱に収まるのを見届けて、彼は駆け出して行った。わざと大きく足音を立てて。
坊っちゃまが離れてからすぐ、また別の足音が慌ただしく、用具箱の前を通り過ぎた。
二つの足音はどんどん離れていく。
どんどんどんどん離れていく。
どれだけ時間が経ったのだろう。
花火の音が轟き始めた。
私は目をきつくつぶって、坊っちゃまの無事を祈っていた。
神様、ここへ忍び込んでしまった罪は私が一生をかけて償います。
自分でも勝手だと思います。
だけど、この世に神様がもし本当にいるのなら、どうか、どうか坊っちゃまをお守りくださいーー
狭く暗い用具箱の中には、縋るものもない。腕のガラスビーズのブレスレットをちぎれるほど握りしめながら……
ただひたすらに、祈り続けた。




