第65話 雪崩の前には静寂が
季節は一気に師走に入る。
つい数ヶ月前が嘘のような冷え込みに、列島全体が震え上がっている頃、
「事務仕事、終らねぇ」
充はオフィス机に突っ伏していた。
時刻は午後九時を回ろうとしている頃。流石にこれ以上働かせるわけにはいかないと、優輝を一時間ほど前に帰らせたばかりだった。
ユメカガク、ユメミライ、統合会議所に総務省等々、様々な方向から飛んでくる別々の仕事やら何やらの対処は、人数が居ない分前の職場よりも体感的に厳しいものがある。
加えて、初秋のHANAの案件もまだ未解決だ。先月に空メールが一件届いたきり、何も音沙汰がないのでどうしようもないのだが。
「この仕事、クリスマスまでに終わると良いんだけどなぁ……」
肩をがっくりと落としながら顔を上げ、充は大きく嘆息する。あと数日まで迫ったクリスマス当日は、フルダイブゲーム二つがサービスを開始した記念すべき日。ゲーム内でもそれに合わせて、大きなイベントが執り行われる予定だ。
イベントは協定世界時午前零時。日本時間の午前九時に開始される。
定刻を迎えると、ヨルムンガンドとE・F・Oの大都市の噴水広場に設置された巨大なクリスマスツリーから大きな打ち上げ花火が花開き、同時にクリスマスイベントと二周年アニバーサリーイベントが受注可能になる……とのことだ。
そんな重要イベントの実地調査こそが、この部署の大本命の大仕事。それまでに、この事務作業を一段落つけなければ。
「はぁ、やるかぁ」
充は丸くなった背中を大きく伸ばし、そう言ってまたパソコンに向き直る。そのとき、
「課長、コーヒーです」
「ん?」
コトリ、と音をたて、デスクの上に白い湯気を立てるマグカップが置かれた。充はとっさに振り返り、目を見開いて驚いた。
「夜食も買ってきましたので、一緒に食べましょ」
「い、伊藤!? 帰ったんじゃ」
「ええ、帰りました。帰った後、シャワー浴びて着替えを持ってきました」
ご安心を、と、優輝は左手に持つハンバーガー屋の紙袋を掲げてニッカリ笑った。まったく、この部下と来たら……
「肌荒れしても知らんぞ?」
「大丈夫です。生まれつき肌は強い方なので」
優輝はそう言って袋からハンバーガーを取り出すと、充の声のする方へゆっくりと差し出した。
受け取るときに触れた彼女の指は柔らかく、そしてほんの少し冷たかった。
「こう言うことしてると、修学旅行とか合宿みたいでワクワクしますね!」
「あぁ、確かに。懐かしいなぁ……あいつら、元気でやってるかな」
二人は向かい合って椅子に座り、そう言葉を交わしながらハンバーガーの包みを開ける。中からは、黄色いチーズの旨そうな、大きなチーズバーガーが姿を現した。
*
充達が現実世界で残業に苦しんでいる頃、九龍亭の九龍は相変わらず客の来ない店でぼーっとアルバムに目を通していた。
自分で始めたムーヴとは言え、流石に少しやり過ぎたと二年目にしていよいよ思い始めたこの頃だが、今更一人で表に出てもそれはそれで、と言う感がある。
「ミツル達が居たら少しは踏ん切りもつくんだがなぁ」
そんなことを呟きつつ、いつの間にか彼らに感化されている自分に気付き、九龍は思わず苦笑した。
彼らと出会ってから、身の回りの環境全てがごっそり変わった。
人数の増えたフレンド欄、写真の増えた九龍亭の内装、外に出る回数の増えた自分の足、そして、気付けば寂しさを覚えた我が心。
はじめは騒がしく、厄介で、面倒な輩だと思っていたのに、今ではそんな彼らに居場所さえ見出だしている。近くて遠い、賑やかで暖かな隣人達。
彼らの仲間になれる資格など、自分にはもう無いのに。
……いかんいかん。少し感傷的になりすぎた。そろそろログアウトして床につこう。そんな風に九龍が思っていると、
カランコロン。
ふと、店のドアベルが鳴った。
「お、いらっしゃい」
さてはミツル達か? こんな時間に珍しいな。九龍はそう思い、アルバムを閉じて顔を上げる。しかしそこにいたのは、彼らではなかった。
「こ薙sば繧は」
激しいノイズ混じりの声で丁寧に頭を下げる、ネズミ色のフードを被ったたれ目の女性アカウント。フードの中からは、栗色の長い髪が覗いている。
「おや、はじめまして。道に迷ってしまったのかい?」
初めて見る来客に驚きつつも、九龍は丁寧な口調でそう訪ねる。
しかし彼女は、ゆっくりと首を横に振ってこう答えた。
「いい縺、違い縺セ縺。九龍さ薙s」
――ミツル縺ィ言う繝ヲ繝シ繧カ繝シと、話をし縺ォ来ました
頭上に『HANA』のネームを浮かべたその少女は、焦ったような顔でそういった。