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第63話 別れども、分かれども

 夕焼けが西の空を赤く染める帰り道。大柄な青年が、左手で低学年程度の少年の手を握りながら、背中に白杖を腕に引っ掻けて心地よさそうに眠る少女を背負って歩いている。

 青年は白い半袖のTシャツと紺色の短パンを履き、グレーのニット帽を被って時折背中を揺すりながら、小さな声で少年と楽しそうに話して朗らかに笑う。人の良さそうな、のんびりとした顔立ちだ。


「それじゃみっくん、もし本当にお父さんの助手になりたいんなら、勉強とか頑張らないとだな。出来る?」

「うん! オレがんばる!」

「おっ、偉いなぁ。それじゃ兄ちゃんも、頑張って長生きして、応援しなきゃだな」


 青年は心の底から幸せそうな笑みを浮かべ、少し癖のある少年の髪をわしわし撫で、自分の方にぎゅっと抱き寄せた。


「うん! あ、そうだ。兄ちゃん、ずっと思ってたんだけどさ」

「うんうん」

「うちのお父さん、なんで帰ってこないの?」


 その瞬間、青年は思わず足を止めて、自然に飛び出した気まずそうな顔を少年から逸らした。そんな彼のことなど知らずに、少年はなおも続ける。


「しんちゃんちのお父さんはね、おそくなってもほとんど毎日帰ってくるんだって言ってた。ねぇ兄ちゃん、なんでなの?」


 青年の額から汗がこぼれる。不思議そうな顔で見上げる少年の純粋な眼が心に鋭く突き刺さる。

 青年は、観念したように取り繕った笑顔を見せて、また歩き始めた。


「お父さんはな、みんなを幸せにする為に頑張ってんだ。毎日毎日、大好きなみっくんとか朝日姉ちゃんに会うのを必死に我慢して、ずっと頑張ってるんだ。だからみっくん。お父さんのこと、嫌いにならないであげてくれるか?」

「うーん……うん! 分かった! 兄ちゃんがそう言うんならね!」


 少年小さな白い歯を見せてにっこり笑い、大きく頷く。そんな彼の宝石のような瞳を、青年は少し寂しげな笑みで見つめていた。


「ありがとうな、みっくん。お礼にお父さんが居ない間、代わりに兄ちゃんがみっくんのお父さんになるよ。約束だ」

「うん! やくそく!」


 まだ幼さの残る兄弟は、夕焼け空に指切りをした。



 瞬間、場面が大きく変わる。

 爽やかな朝日がカーテンの隙間から差し込む真っ白な病室。真ん中に置かれた大きなベッドの上に、痩せてしまったニット帽の青年が居る。

 ここで充は、ようやく今自分が夢の中に居るのだと気が付いた。気が付いたものの、何故だか夢から覚めようとは思わなかった。


「兄ちゃん。俺、行くよ」

「そっか。みっくんが決めたんだ。兄ちゃんは止めないよ」


 痩せこけ、シワだらけになり、骨の張り出した頬を緩ませて、かつて青年だった彼は点滴の管の通った腕を震わせながら充の頭に手を置いた。

 あまりに小さく、細く、弱々しく、そして冷たく暖かい。変わってしまった、それでも変わらぬ兄の手のひら。


「いつでも帰っておいで。みっくんのイケメンな兄ちゃんは、ずっとここで待ってるからさ」

「うん、うん……」


 グレーのニット帽を弾ませて、弟の成長を幸福そうな顔で喜ぶ兄の手に、自身の手のひらを静かに重ね、充は何度も頷いた。


「ほら、もう行きな。美幸ちゃん可愛いんだから、待たせちゃダメだぞ?」



 そんな優しい兄の最期(さいご)の言葉が響いた直後、充はその幸せな夢から目覚めてしまった。



 *



「充、とっとと起きなよー」


 目覚めたての充の耳に、そんな朝日の声が刺さる。相変わらずの気だるげそうな声だ。昨晩はずいぶん酒を飲んでいたから、それも原因なのかもしれない。


「んぁぁ、おはよう」

「お、やっと起きたな。二人とも、もう帰っちまうってよ」


 その言葉を聞いて、充は一気に目が冴えた。

 彼は布団を蹴飛ばして、弾かれたように寝室から飛び出していった。



「充さん、名刺ありがとうございます! 大切にします!」

「二人とも、本当にありがとう」


 北条家の玄関先で、親子二人はそう恭しく頭を下げて礼をする。


「おう、またいつでもウチにおいで。静岡のよりかは旨くないけど、茶は有り余ってるから」

「うん。何かあったら、と言うか何もなくても、いつでも遠慮無く連絡してきてね」


 充達姉弟もそう言って二人を送り出す。

 秋晴れ、と言うには少し暑すぎる晴天の空の元、四人は大きく手を振りながら互いに別れを惜しんだ。

 坂道の向こうに、二人の姿が消えてゆく。千切れんばかりに振っていた右手をようやく下ろして、充はまるで付き物が落ちた様な顔で大きくため息をついた。


「全く。昼飯食ってきゃ良かったのにな」


 名残惜しそうに朝日は呟き、家の中へと引っ込んでいく。


「うん。だな」


 充もそんな彼女に同意して、ワンテンポ遅れて踵を返す。そのとき、


「お?」


 ズボンのポケットに入ったスマホが、小刻みに震えはじめた。慌てて充はそれを取り出し確認する。


 メッセージが一件届いています


 スマホをつけた瞬間、そんな通知が飛び出してくる。それをタップして開いた時、充は大きく目を見開いた。


 宛名:美幸

 メッセージ:今度こそはまたね。お互い、頑張ろ



 *



「兄ちゃん……」


 神戸の高速バス乗り場。ベンチに座り込んだ充は、スマホの画面に大粒の涙を溢していた。

 先程、朝日から連絡があった。つい先程、容態の急変した兄が亡くなった、と。

 全く帰ってこなかった父に代わって、本当の優しい父親のように接してくれた兄の死は、覚悟していたとはいえ充には容易に立ち直り難い。

 うちひしがれた充の横に、美幸は静かに並んで座り、優しく背中をさすってくれた。


「みっくん。帰ろっか」


 しばらく経って美幸はそう、項垂れた彼に囁いた。

 計画が狂いはじめていることも、資金が底をつきかけていることも、既に居場所を特定され始めていることも、彼女には全てお見通しだった。


「ごめん、ごめん、ごめん……」


 兄を失った悲しさに、情けなさが覆い被さる。とめどなく溢れる涙の雫をぬぐうことすら出来ぬまま、充は消え入りそうな声で何度も何度もそう言った。


 二人の逃避行が終わりを告げる。

 二人は重苦しい空気を背負って、来た道乗りに踵を返した。

 伊豆で二人はついに別れる。最後に深い口づけを交わして。

 葬式に、父は来なかった。

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