カノン 5譜 十世十夜
思い切り不満を吐き出した私の唇を、彼はゆっくりと指でなぞる。そのまま、唇の端へ。泰然自若としているけど、まだどこか迷っているような仕草。
その辿々しさが、歪で斑な感情を想起させる。
「……私ね、本当はクラウディア=フォン=ロアルっていうの。〝ミュース〟は、この国に居る時だけの、仮初めの姓。だから……あの時誓いが、どこか嘘に思えてきて、ずっとずっと、心配で……」
少し鼻声になってしまっている。
多分、これが彼への最後の隠し事。もう疚しい気持ちなんてどこにも無い。洗い浚い、赤裸々に語り尽くしてしまった。だから貴方からも、私への想いは、どんなものだって見せて欲しい。
怒りでも、嫌悪でも、何もかも。
そして、それを全部受け止めたい。遠慮なんかせず、時には思い切り我が儘な愛し方だってされてみたい。それこそ、私がいつもしてるみたいに。
彼の二つの腕によって、扉との間で彼の檻が作られる。小さな隙間に閉じ込められる。狭い所はちょっぴり苦手だったけど、今は我慢しておく。
「クーってさ、前にも言ったけど、無意識に魔力を使って全身の動きをサポートしてるよね。だからこうして集中力を削ぐと、ただの女の子の筋力で……全然抵抗出来なくなるよ?」
水溜まりの奥の世界を覗き込むような、不思議な瞳。そのまま頬へ、顎のラインへ、喉元へ、キスを重ねてくる。槍術の訓練の時、彼に指摘された事。
「──ほら。こうして、今だって」
熱に浮かされたように囁き、まだ乾き切っていない髪に触れてくる。
もう既に頭の芯はとろとろで、でも、もっともっとドロドロに溶かし切って欲しい。私を貴方だけのものにして欲しい。私を、私だけを見て欲しい。ずっとずっと、束縛し続けて欲しい。そんな願いを篭め、無言のまま彼の襟元を両手でぎゅっと掴む。
彼はその思慕に応えるように、お姫様だっこで抱き上げてくれる。重力から解放された微かな心許なさ。言葉にならない想いの中、私は自然と彼の首に両手を回し、その胸に体重を預ける。頭の中のように真っ白に張られたシーツの上に運ばれる。
覆い被さられた途端、尖った不安が、強固な安心に変わる。待ち望んでいたその無垢な重さが、今はとても心地好い。初めて見せてくれた彼の熱情に、ゆっくりとこの身を委ねて行く。
閉所恐怖症から、閉所愛好症へ。
渇望がその足を進める。終ぞ満足し切るラインに至らないよう、引きも切らず繊細な餓えを施して来る。本当にいつもいつも、そうやって私のペースを掻き乱す。
私の視界には、もう貴方だけしか居ない。
貴方に縋り、貴方と一緒に沈んで行く。深く、深く、際限無く。
※※ (注) 二人でイチャイチャしながら添い寝してただけです ※※
────翌早朝。
二人で一緒にブランケットに包まっていたつもりなのに、いつの間にか彼の衣服まで巻き込んで寝てしまっていた。私の方が少し先だったけれど、殆ど同時に目が覚めたみたいで、小さく笑い合う。
「……そろそろ、戻らなくちゃ」
交わしたのは、本当にその一言だけ。もうそれだけで、十分。
最低限の身支度を済ませ、隣の部屋に〝お出かけ〟のキスをする。遠い朝焼けの中、またいつもの一日が始まり告げる。
今日からは、心の闇を晴らし終えた一日。愛し愛される事は、本当に胸が躍る。
その日の偶のお勤めは恙無く、翌日も何ら問題は生じなかった。だから〝極力他者と交わってはならない〟なんて詰まらない口伝は、大嘘だって分かってしまう。けれど、そんな証拠なんて出せない。表立って、そう訴え掛けられない。
ここまでは本当に、本当に順風満帆だったのに、やがて停滞へと至る。
振り返れば、もうあれから百日以上が過ぎてしまっていた。本当にあっと言う間の日々で、公の関係性は一切進展する事なく、ただもどかしく、影に隠れて過ごす日々。
それでも一度、熔け落ちるような甘い一線を越えてしまうと、二人とも箍が外れたようで、あれからは殆ど毎日、毎晩のように肌を重ね、愛を囁き合って来ている。不埒なお誘いの殆どは私から、そして時には彼の方から。酷い時だと、槍術などの修練中に人目を盗み。
※※ (注) 二人でイチャイチャしながら逃げて遊んでただけです ※※
首筋に残った赤い跡を虫刺されと言って誤魔化すのも、いつしか慌てる事無く、ただ単調な作業のように慣れ切ってしまっている。
後一歩。後一歩がどうしても届かない。私達に、祝福は齎されない。
法が邪魔をし、噂が邪魔をする。英雄譚さえその一つ。
そんな折、大きな転機が訪れる。
〝シンシアさんの復帰〟という、いずれ光となってくれる力強い一雫が。
「……お久しぶりです。皇女殿下」
覇気が無く、髪はくすんで窶れ切っており、まるで別人のよう。直ぐにでも故郷の森に戻るつもりだった所を、私が軽い気持ちで引き留める。
また前みたいに、私の身の回りのお世話をしてくれたら凄く嬉しいな、って。
そうして彼女は、私と一層懇意になり、奇しくも他者と親交を深めても何ら問題ないと証明される事となる。
更にあの英雄譚もそろそろ飽きられていて、特にヒロインのモデルとなったシンシアさんが、出獄時にイメージとかけ離れてしまっていた事、彼は今や議会で一定の発言権を得つつあり、庶民派層からの支持が手厚かった事など。
そうした様々な事情が複雑に絡み合い、気が付けば、一気に法案の提出まで漕ぎ着ける事が出来た。一時は紛糾したものの、先日、ようやく成立する──。
「あ、ごめん。起こしちゃったかな」
小さな物音に顔を上げると、白く霞んだ姿見越しで、ウェディングドレス姿の私と、その後ろから男性っぽい誰かが入ってくるのが見える。その優しい声だけで、愛しさが募る。
どうやら椅子に座ったまま、午睡してしまっていたらしい。
「少しお疲れみたいだね。大丈夫?」
五日後には、念願の結婚式。折角皆に認めてもらえる日だというのに。今は最終調整に向けたメインのドレス試着中で、当日までは余り見せたくはなかったのけれど。
「ど、どう……かな……?」
立ち上がって振り返り、両手を胸の前に添え、改めて全身を具に眺めて貰う。
挙式の日は飽くまで皆様にお見せする場。だから、先に独占して見て貰えたと、敢えて前向きに考えておく。
「凄く綺麗だよ……豪華で、精巧で、とても見栄えがするのに、どこか可憐で、可愛らしくて。完全に純白だから、かな。本当に君にぴったりだ。ああでも、これだと肝心な花嫁の顔との対比がよく分からない。少しだけ、じっとしてて?」
そう言ってヴェールを上げてくれる。緊張ですっかり忘れていた。彼の姿がはっきりと浮かび上がる。肩に掛けたサッシュも、最近は凄く様になったように見える。
「うん……やっぱり、凄く可愛い。本当に綺麗で、素敵だよ」
「それ、ちゃんとドレスの感想……? ひょっとして、私に言ってない??」
その無邪気な笑顔を見ていると、やっぱり大好きって自覚してしまい、なんだかとても照れ臭い。自分でも頬が染まって行くのが分かる。
瀟洒なドレスなんて〝夢弾きの偶〟として、ほぼ毎日を着ていたから、たまには趣向を変えてシンプルな物にも興味はあったんだけど。ドレス職人さんの腕の見せ場でもあるし、最終的には今みたいにレースたっぷりのタイプにして貰った。
実際身に着けてみると、日々のそれとは全く違っていて、魂の篭もった特別感がある。特に、胸に挿した白い薔薇の花は、私達の特別な思い出。
「うーん……個人的には、肩が全部出てる点だけがマイナスかなぁ。折角のクーの色っぽい肌を、余り他人には見せたくないし」
「じゃあ、追加でショールもお願いしてみるね? この雰囲気に合わせるとなると、どうしてもシースルーにはなっちゃいそうだけど」
「実は冗談のつもりだったけど……やっぱり、そうして貰えるとありがたいかな。あ、そうそう。実はもう少ししたら起こして貰えないかって頼まれて来たんだった。こっそり寝顔を見てからにしようと思ってたのに。もうちょっと休んでたら?」
「うー……いつも見てる癖に……そ、れ、で、今回は誰にお願いされたの?」
逃がさないように、ぴったりと寄り添う。彼の顔は見えなくなるけど、胸の音は聞けるから。
「え……えっと……通り縋りのメイドさん? だけど……」
「メイドさん?? 知らない人??」
「うっ…………シっ、シンシアさん、です……」
最近、彼女とやたら距離が近しい気がする。実は彼女は、共謀したアヴァリスさんに仄かな想いの丈もあったらしいけど、あっちは本国に行ってしまった切りだし、全然油断ならない。
しかもそれだけじゃなくて、最近他の若いメイドさん達からも凄く持ち上げられていて、色目遣いに見える時だって、かなりある。
元から学は有った方みたいだし、英雄譚のモデルという手前、ずっと厳しい鍛錬を積んで来てて、正に文武両道となりつつある。議会に顔を出すようになってからは身形を整えてて、立ち振舞いが上品になったし、元から性格は温厚で、誰に対しても優しい。
特に私と婚約してからは、注目度が益々上がっていて、秘かに人気急上昇中というのを私は知っている。そして、その事に本人が全く気付いておらず、ただ浮かれているだけにしか見えない。
「──また焼き餅を焼いてるの? 毎回毎回、本当に飽きないね……」
「アゼル様は、いつか私にも飽きちゃう……の?」
「いやいやいや、そんな事言ってないし! 論理の飛躍! それに国を挙げてお祝いするのに、いきなり他の人に手を出してたら良くないでしょ!?」
「じゃあじゃあ、いきなりじゃなくて、落ち着いた頃に手を出すんだ……」
「だ、か、らー!!」
そこまで言ってようやく気付いてくれたようで、そっとキスしてくれる。心が安らぎ、猜疑の雲がほんの少しだけ消えて行く。毎回毎回って言う割には、いつも気付いてくれるのが遅過ぎて、凄く焦れったい。
「う~、いつもいつも遅い。意地悪……」
胸に耳を寄せると、彼の鼓動も速い。
「態とじゃないって……それにしてもクーって、ホント駆け引きが下手だよね。押すだけって言うか、純粋過ぎていつも真っ直ぐ過ぎるって言うか……でも、そういう所も含めて、全部大好きなんだけど」
どうして彼は、いつも、ここぞという時に私を救ってくれるんだろう。幸せにしてくれるんだろう。
そうして私達は、また唇を繋ぐ。深く、長く、永遠を祈って────。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
各章、
1:あまあま
2:貴族
3:悲劇
4:バトル
5:ほのぼの
的なテーマで書いていました。
意外と破綻せず、スッキリとコンパクトに纏まったのでは、と思います。
至らぬ点、ご期待に添えていない点も多々あったかとは思いますが、全体としてお楽しみいただけたなら、幸いです。
改めまして長時間のご精読、誠にありがとうございました。




