第二話 沈黙する寄生木
第二話 沈黙する寄生木
冬の雨は、絵具を溶かしたような匂いがした。
蓮見柊が真壁アトリエへ着いたとき、空は鉛色に沈み、庭木の枝先から冷たい雫が絶え間なく落ちていた。古い洋館を改装したアトリエは、白い外壁に蔦が絡みつき、大きな天窓の向こうでぼんやりと灯りが揺れている。
門の前にはパトカーが停まり、制服警官たちの吐く白い息が空気に滲んでいた。
「最悪の天気だな」
御子柴馨が濡れた髪を払いながら言った。灰色のロングコートの肩には細かな雨粒が散っている。中には黒いスーツ、細い革ベルト。いつも通り隙のない格好だった。
一方、柊は濃緑のタートルネックにベージュのチェスターコートを羽織っている。革靴の先には庭土が付いていた。
「植物には悪くない湿度です」
「人間には地獄だよ」
御子柴は肩を竦めた。
玄関を入ると、油絵具とテレピン油の強い匂いが鼻を刺した。壁一面に巨大な絵画が並び、裸婦画の視線が重苦しくこちらを見下ろしている。
警部補の滝沢が疲れ切った顔で近づいてきた。
「来たか。事故死で片づきそうなんだが、どうにも引っかかってな」
「被害者は?」
「助手の青年だ。三階のバルコニーから転落した」
柊は窓の外を見た。
石畳の中庭に、赤黒い血がまだ薄く残っている。
「名前は?」
「藤崎玲二。二十六歳。住み込みの助手だ」
奥のソファには、画家の真壁誠が座っていた。五十代半ば。長い髪を後ろで束ね、黒いシルクシャツの胸元を無造作に開けている。指には絵具が染み込み、赤ワインのグラスを持つ手がわずかに震えていた。
「……彼は酔っていたんです」
真壁は掠れた声で言った。
「夜中にふらふら外へ出て、そのまま」
「口論は?」
御子柴が訊く。
「いいえ。彼は優秀でした。息子みたいなものだった」
その言葉に、柊は小さく眉を寄せた。
彼は部屋の奥へ歩き、描きかけのキャンバスを見つめる。
白い花畑。
その中心に、黒い鳥が描かれていた。
「この絵は誰が?」
「……私ですが」
真壁の返答はわずかに遅れた。
御子柴がそれを見逃さない。
「へえ」
短い声だけ漏らした。
柊は窓を開け、庭へ出た。
冷気が頬を刺す。
中庭の樫の木には、丸く茂ったヤドリギが幾つも寄生していた。雨に濡れた白い実が鈍く光っている。
柊は枝へ近づき、指先でそっと触れた。
「……変ですね」
「何がだ」
御子柴が隣へ来る。
「この裂け方」
ヤドリギの一部が、不自然に引きちぎられていた。普通の枝折れではない。繊維が裂け、樹皮ごと剥がれている。
「誰かが強く掴んだ痕です」
「人間が?」
「ええ。落下直前に」
柊は濡れた枝を見上げた。
「ヤドリギは宿主へ深く食い込みます。簡単には折れない」
「つまり、被害者は落ちる前に誰かへしがみついた」
「そういうことです」
雨音だけが静かに響く。
そのとき、アトリエの窓が開いた。
「玲二は自殺なんかしない!」
若い女だった。
栗色の髪を肩まで垂らし、厚手の白いニットを着ている。目元は泣き腫らして赤かった。
「私は見てたんです。先生と玲二さん、最近ずっと喧嘩してた!」
真壁が顔を歪める。
「余計なことを言うな!」
「だって本当でしょう!」
女は震えていた。
「玲二さん、言ってたんです。“もう限界だ”って」
御子柴が静かに問う。
「君は?」
「事務員の佐伯美咲です」
「限界って?」
美咲は唇を噛んだ。
「……自分の絵を、自分の名前で描けないことです」
空気が止まった。
真壁の顔色が変わる。
「何を馬鹿な」
「玲二さんが描いてたんでしょう!」
女の声が涙混じりに響く。
「あの花のシリーズも、受賞作も!」
御子柴はゆっくり真壁を見る。
「なるほど。ゴーストライターか」
「違う!」
真壁は立ち上がった。
「私は指導していただけだ!」
「才能を搾り取る形で?」
「……!」
柊は黙ったまま、再びキャンバスを見ていた。
絵具の匂い。
乾きかけた油彩。
筆洗い用の濁った水。
その中に混じる、微かな青草の香り。
「先生」
柊が唐突に言った。
「あなた、玲二さんの右腕を掴みましたね」
真壁の肩が震える。
「何故そう思う」
「ヤドリギです」
柊は静かだった。
「被害者は落ちる瞬間、誰かの袖を掴んだ。でもあなたのジャケットには繊維が残っていない」
「……」
「代わりに、右袖だけ新しい」
御子柴が目を細める。
真壁の黒いシャツの上に羽織られたカーディガン。その右袖だけ、生地がわずかに違っていた。
「破れて替えたのか」
真壁は答えなかった。
ただ、指先だけが小刻みに震えている。
「玲二さんは、あなたを尊敬していた」
柊は続けた。
「だから最後まで、あなたを庇おうとしたんでしょう」
「……違う」
「違いません」
柊は淡々と言う。
「彼は寄生されていた。でも切り捨てられるとは思っていなかった」
真壁が顔を覆う。
嗚咽が漏れた。
「……あいつは、才能がありすぎたんだ」
掠れた声だった。
「全部、あいつの絵のほうが良かった……! 私はもう描けなかった!」
美咲が泣きながら後退る。
「だから殺したの……?」
「違う……突き飛ばすつもりじゃ……」
真壁の膝が崩れ落ちた。
窓の外では、雨が少しずつ雪へ変わり始めていた。
帰り道、御子柴は近くの喫茶店へ寄った。
古い木造の店で、バターの香りが温かかった。
柊の前には卵サンドとハーブティー。御子柴は苦いブラックコーヒーを飲んでいる。
「お前、よく気づくな」
御子柴が言った。
「何にです」
「人間の醜さに」
柊は少し考えたあと、静かに首を横へ振った。
「違います」
「?」
「僕は植物を見てるだけです」
窓の外では、街路樹に白い雪が積もり始めていた。
ヤドリギの丸い影が、薄暗い空の下で静かに揺れていた。
「寄生していたのは、植物じゃない」
柊の声は、雪より静かだった。




