読切短編 差出人
母が施設に入って、三年が経った。
私は毎朝、便箋に向かう。昨日何を書いたかは覚えていない。でも手が動く。ペンが走る。それでいい、と思っている。
面会に行くと、母はいつも手紙を持っていた。読むたびに目を潤ませ、「ありがとう」と言った。翌日には忘れた。翌週も、翌月も、母は同じ顔で同じように泣いた。そして私は、その「ありがとう」を、どこかで初めて聞いたような気がした。職員さんが言うには、手紙が届くたびに「娘が覚えていてくれた」と喜ぶのだという。
それでいい、と私は思っていた。今この瞬間だけが本物だから。記憶に残らなくても、感情は本物だ。消えても、あった。それで十分だった。
便箋は上質なものを選んでいた。罫線が薄く、インクが滲まない。封筒は淡い青。母が好きな色だと、どこかで聞いた気がする。母からだったのか、それとも私がそう思い込んでいただけなのか、思い出せない。あるいは、母自身が書いていたのかもしれないと、ふと思った。
ある日、手紙の束が少し多い気がした。昨日も書いただろうか。一昨日も。私は机の引き出しを開けた。便箋の残りが、ずいぶん減っていた。
気のせいだろうと思った。そう思うことにした。それでも、引き出しの奥に、見覚えのない封筒が一通だけ紛れていた気がした。
施設から電話があったのは、桜が散り始めた頃だった。担当の職員が、少し困ったような声で言った。
「あの、お母様の手紙のことなんですが」
何か不備があっただろうか。私は背筋を伸ばした。何か迷惑をかけてしまったのかと思った。
「差出人なんですが、最近届くものが全部……」
職員は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「全部、『お母さんより』と書いてあるんです。お母様、とても喜んでいらっしゃるんですが、ご本人は書いた記憶がないとおっしゃっていて」
私は受話器を持ったまま、手を見た。
人差し指の腹に、インクの染みがあった。それが、自分のものなのかどうか、確信が持てなかった。
いつついたのか、わからなかった。思い出そうとしても、その手触りすら残っていなかった。




