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飛翔──イルタ

 イルタが連れて行かれたのは、城にふたつある塔の西側の方だった。

 階段を昇りきった先にある小部屋の中に突き飛ばされ、外から扉が閉められる。

 そして、閂のかかる音。

 イルタはすぐに立ち上がり、拳で扉を叩いた。

「待って! 待ってください。姫さまに申し開きを……」

 兵士が階段を降りる足音が遠くなり、聞こえなくなる。イルタは叫ぶのを止めた。扉を叩くのも。

 ぎゅっと両手を握り締め、胸を押さえた。心臓が飛び出そうだ。どう、だっただろう。私の態度。姫さまの怒りをかった家来として、自然だったかしら。

 ヴィータ女王の目は間違いなく欺けた。兵士たちも。

 問題はラークソン将軍だったけれど、将軍も目を丸くしていた。キスにびっくりして、自分がトーリの口に何を入れたかまではわからなかっただろう、と思う。わかっていたら、すぐに何か手を打つはずだし。トーリの口から鍵を取り出し、自分が余計なことを口走る前に殺してしまうとか。

 扉を離れ、部屋を見回した。

 塔の先端だから、狭い。でも、大きな窓がある。トーリが連れて行かれた部屋のように鉄格子があったりはしないが、窓から逃げられないのはそばに寄ってみなくてもわかる。

 実際に窓に寄って外を見ると、遮るもののない、とてもいい眺めだった。城の周囲は緑豊かな草原で、一筋の道がその草原をよぎり、荘園の畑の向こうに小さな山と森が見えた。

 トーリと夜空を飛んだときを思い出した。

 あのときはもっと高い場所から地上を見た。でも、翼のない私にはこの塔を飛び立つことはできない──そう思ったら、髪が引っ張られた。

 エイリだ。

 イルタはエイリをふり向いて、笑った。エイリは怒ったように口を曲げている。透き通った羽を力いっぱい大きく広げて。──その可愛い羽で私を運んでくれるつもり? とても無理。火竜にだって重いって言われちゃったのに。

 それに、逃げるつもりはない。

 ラークソン将軍にトーリを殺すことを命じられ、そうしなければ姉が死ぬと暗に言われて、どうしよう、と思った。

 どうしよう? ──答えはすぐ出た。戦うしかないじゃない。トーリもエイレンも助けるために。

 おそらく、ラークソン将軍がもうすぐここに来る。トーリは死なないから。だから、私を質しに。もしかしたら、殺しに。それが将軍の計画が露見しないためのいちばん確実な方法だから。

 ゆっくりと日が傾いていき、イルタの影が床に長く伸びた。

 ……トーリ、逃げただろうか。城は静かなままだ。火竜の契約者が逃げたら大騒ぎになると思うのだけれど。

 ふと、イルタの心臓が冷たくなる。うまくいかなかった? 鍵が見つかってしまって? そうしたら、私は全部失うことになる。トーリもエイレンも、私自身も。

 いいえ、そんなことはない。イルタは心に浮かんだ不安を打ち消す。トーリに渡した鍵が見つかってしまったのなら、自分がここで放っておかれているはずはない。最後にトーリに接触した自分が真っ先に疑われて、厳しい取り調べを受けるはず。

 そうだ、静かなのは、トーリがうまく見張りの兵士を倒し、騒ぎを起こさずに逃げたから──そう思いついたら、胸がずきりとした。

 逃げてしまった。自分ひとりで、私を置いて。

 もちろん、それでいい。すぐに、強く、そう思った。そのためにトーリに鍵を渡したんだもの。

 それから、もうひとつ別の可能性を思いついた。鎖を外しても、すぐには動けないのかもしれない。鎖を外せば傷は治る、とヴィータ女王は言ったけれど、そんなに簡単には治らないのかもしれない。肩と足のケガが、酷かった。

 傷だらけで動けないトーリの姿を思い出したら、我慢していた涙が零れそうになった。水を飲ませるときちょっとだけ微笑んだように見えたけれど、やっぱり苦しそうで……。

 イルタは固く目を閉じた。トーリからむりやり心を引き離す。

 こんな不安定な気持ちじゃいけない。強く、冷静でいなければ。ラークソン将軍はきっとここに来る。私が将軍の命令に従わなかったと、気づいたときに。

 太陽が森に沈み始め、空が金色とオレンジに眩しく輝く。

 ついに、階段を昇ってくる足音が聞こえた。かなり急いでいる。大人の男の足音。……ひとりだ。

 イルタは窓を背にして扉を正面に見た。

 閂が外される音。そして──予想通り、ラークソン将軍が扉を開けた。イルタの心臓がぎゅっと締めつけられ、イルタは自分に、落ち着いて、と呼びかける。

 後ろ手に扉を閉めて、将軍はすらりと剣を抜いた。長くて急な階段を急いで昇ってきたのだろう、少し息が弾んでいる。

「……ヴィータ様とお茶を飲みながら、火竜の契約者に異変が起こった、という報告を待っていたのだが、一向に兵士が注進に現れなくてね。様子を見に行ったら、見張りの兵が倒れていて、火竜の契約者は消えていた。鎖を残して」

 剣の先がイルタの顔を向く。

「言い訳の時間をあげよう。幾つか可能性は考えたのだが、君は──あのとき──何かしたのかね?」

 ──よかった。イルタは安堵する。将軍は、私が思った通りの方だ。氷魔を帰還させるために必要なら敵とも組んだように、合理的に行動する。感情に任せて私を殺すより、まずは自分の疑問を解決しようとする。そして、将軍が本当に戦争を望んでいないなら、そこに私のわずかな勝機がある。

 イルタは静かに息を吸い、将軍をまっすぐに見つめて言葉を返した。

「火竜の契約者が逃げられるよう、彼に鍵を渡しました」

「鍵? 鍵はここに──」

 そう言って将軍が剣を持たない手を胸に当てたとき。

「──イルタ!」

 空気を切るような声がして、将軍の目が動き、私はふり向く。トーリ──心の中で叫ぶようにその名前を呼びながら。

 窓に少年が舞い降りる。赤い炎の翼を背中に広げ、イルタにまっすぐ手を差し出す。

 イルタの鼻の奥がツンとした。頭では、トーリひとりで確実に逃げてほしかった。なのに、来てくれたのが、もう一度会えたのが、すごく嬉しかった。すぐさまトーリの手を取りたかった。

 でも──イルタはトーリに小さくかぶりを振る。私は逃げない。

 イルタが動かないと見ると、トーリは翼を閉じて窓から飛び込み、イルタを抱えようとした。イルタはその手を妨げて、言う。

「逃げて。私、将軍と話したいの」

 トーリの顔に驚きが浮かんだ。イルタを見て、剣を持つ将軍を見て、強引にイルタを抱きすくめた。その場には止まったけれど、将軍から目を離さず、いつでもイルタを連れて窓から飛び出せる体勢で。

 将軍の顔が歪んだ。呆れたように、いささかの侮蔑を込めて、イルタとトーリを見た。

「まさか、恋におちた、なんて陳腐なオチではないだろうね? ──イルタ、君の理解力や思考力を、私は高くかっていたんだが」

「将軍のおっしゃったことを自分なりに考えました」

 吐き出すようにイルタは言った。

「戦わないことがサルミアを守る、と将軍はおっしゃいました。その通りだと思いました。しかし、将軍は、そのために戦争の火種になりうる火竜の契約者の存在は無くするべきだと──」

 イルタの体に回されたトーリの腕がぴくりと動く。イルタは構わず言葉を続ける。

「でも、火竜の契約者の存在を消しても、ノスティとサルミアが対立する状況は変わりません」

 将軍は鼻で笑った。

「逃がしたら、何が変わると?」

「ヴィータ様は、もう一度、火竜の契約者を捕えようとなさるでしょう。火竜の契約者の力があれば戦争に必ず勝てるとお考えです。ですから──逆に言えば、火竜の契約者を手に入れるまでは戦争を始めない。火竜の契約者の力を知ったノスティも、同じように考えるのではないでしょうか。戦いを始めるなら、火竜の契約者を手に入れてから」

 かすかに、将軍の表情が変化した。イルタの話に興味を引かれたように。

「ふむ。どちらの国も火竜の契約者に目が向いているうちは戦争は起こらない、か? だが、どちらかが捕えてしまったら? もしくは、火竜の契約者を諦めて今ある戦力で相手の不意を突こうとしたら?」

「時は稼げます。その間に手を結ぶことはできないでしょうか。将軍と──ノスティにもいるはずです。将軍のように不戦の考えを持つ者が」

 わずかな沈黙があった。そして、将軍は口を開く。

「いる、という保証があるのかな?」

 将軍の声はきわめて冷ややかであったが、イルタは意思の力を振り絞って微笑んだ。

「氷魔を帰還させるために、将軍はノスティの魔法術師と協力したじゃありませんか。サルミア兵とノスティ兵も力を合わせました」

「あれは、あの場面ではどちらもそうする以外──」

 言いさして、将軍は口に手をやる。考え込むように。

「トーリの鎖を外す鍵をくれたのは、あのノスティの魔法術師です」

 驚いたのは将軍だけではない。イルタを抱くトーリの手も浮いた。すぐにまた、ぎゅっと力を込めたけれど。

「私が彼から鍵を受け取った場には、一緒に氷魔と戦ったノスティ兵とサルミア兵もいました。どちらの兵士たちも、自分たちの村を守ってくれた火竜の契約者に感謝していました。そして、魔法術師はかつてサルミアとノスティが友好国だったことを懐かしそうに話してくれました。もう一度そうなることは不可能でしょうか」

 将軍は目を細めてじっとイルタを見る。将軍の頭は今すごい速さで回転しているのだろう、とイルタは将軍を見つめ返す。私の言っていることに現実性があるのかどうか。リスクとリターンを秤にかけて。

「……私の風の妖精は、役に立ちます。ノスティの誰がどんな考えを持ってどんな地位にいるか、探ることができます」

 イルタが唇を結んだあとも、将軍はイルタを見つめていた。もう呆れてはいない。目は、密やかに輝いている。面白そうに。

 突然、城のはるか下方で金切り声がした。何を言ったかはわからなかった。だが、この声は──。

「ヴィータ様か」

 ため息まじりに将軍が言った。高い叫び声は続き、すぐに兵士が叫び走り回る音がそれに加わる。

「私が戻らないので、痺れを切らしてご自分で火竜の契約者の様子を確かめに行かれたか。行動力はある姫さまだ」

 イルタ、とトーリが私の耳に言う。そう、トーリは早く逃げなければならない。トーリは飛べるけれど、兵士たちには弓矢がある。見つかる前にここを離れないと。

 行って、とトーリの胸を押したイルタだったけれど。

「火竜の契約者にさらわれてしまっては、しかたないなあ」

 不意に、間延びした声で、将軍がそう言った。剣を鞘にしまった。

「これまで適合者をさらってきた火竜の契約者が、契約を済ませた者にまで魔の手を伸ばすというのは、ありうる。──いや、今回タイミの適合者をさらえなかった腹いせに、王国の特別な兵士をさらった、の方がいいかな?」

 目を丸くしたイルタに、将軍は、にやり、と笑う。

 トーリもイルタを連れて行こうとする動きを止めていた。将軍はその笑顔をトーリにも向ける。

「どちらにしても、君をまったく悪者にしてしまうわけだが。協力願えるかな、トーリ」

「え、俺は、ホントにイルタをさらいに来たんだし……もともと『反逆者』だし……」

 虚を衝かれたのか、トーリが妙に素直で冷静な答えを返す。

 将軍は頷いた。

「だが、さらわれた私の部下は非常に優秀なので、火竜の契約者のスキを見つけて私に風の妖精を飛ばすだろうね。非常に優秀なので、ノスティの政治勢力図などを詳しく調べて」

 思わず、イルタも、にやり、と受けた。うまい。それなら、将軍は自分が責任を取ることなく私の案を試すことができる。

「きっと、必ず」

 勝った、とは言えないかもしれない。でも、負けなかった、私。

「うむ、私の部下は必ずサルミアのために働くだろう。──姉のためにも」

 エイレン。胸が痛くなった。けれど、イルタは笑顔を崩さなかった。

「はい。働きます」

 サルミアとノスティのために。炎の竜と風の妖精のキスに心震わせる老魔法術師や、反逆者にエールを送る正直な酔っ払いのために。

 トーリがイルタを見た。これ以上は有無を言わせないような強い視線で。両腕でイルタを抱え上げて窓枠に足をかける。

 でも、最後に、もう一撃を。イルタは、笑顔のまま自分たちを見送ろうとする将軍に言った。

「姉のことは決して忘れません。姉は私を忘れましたが」

 小さな奇襲は成功した。顔に貼りついた笑みが落ちて、将軍は一歩下がる。私のこと、侮れないと、少しは思ってくれるといいのだけれど。そうすれば、人質のエイレンはとても大事な存在になる。

 窓を蹴ってトーリは飛んだ。

 オレンジに輝く夕暮れの空へと。

 エイリがイルタの肩を両手でつかんで一生懸命羽を動かす。エイリの羽は金色に透き通り、火竜の翼は燃えるばら色に染まる。

 とてもきれいだ。イルタの心が温かく潤む。

 地上の誰かが、ふと空を見上げたらいいのに。その人は空に広がる夕焼けの中に不思議なものを見る。沈む太陽のオレンジの光の中に揺れる、ばら色の炎を。その人は仕事を終えて家路を急ぐ足を止め、いつまでも空を見ているだろう。ばら色が消えたあともしばらく。

 そして、家に帰って家族に穏やかに話すのだ。今日私は精霊を見たよ、と。

 行く手には夕焼けの金とばら色。やがて夜が来ることは知っていたけど。


 降りる、というより、最後は、落ちる、に近かった。森を越えられず、少し開けた草地へと。

 着地の衝撃がトーリの足からイルタの体に伝わり、トーリは草の上に身を転がすと同時にイルタを離した。

 草の上に投げ出され、イルタは急いで体を起こした。痛みはない。

 辺りを見回した。日は落ちたけれど、梢の上の空はまだ仄かに明るい。トーリはすぐそこに倒れている。

「トーリ」

 呼んだけれど、トーリはうずくまったまま動かない。

 回復なんてしてなかったんだ。あんな酷いケガだったんだから。無理して力尽きるまで飛んだんだ。城から少しでも遠くへと。

「トー……」

 立ち上がる間も惜しくて膝と手で動いてそばに行き、傷を確かめようとしたら、体を起こしたトーリに抱き締められた。

 イルタの耳元でかすれた声が囁く。

「……いろいろ聞きたいし、言いたいんだけど……ごめん、少し、このまま……」

 青い薄闇が空から降りて森を包み、その銀色の影から精霊たちがそっと姿を覗かせていた。黄昏の森の静寂に、突然飛び込んだものは何、と。

 エイリはイルタの括った髪の根元にいる。見える人には、エイリの羽がリボンの飾りのようだろう。

 自分を抱くトーリの腕が強く、確かで、ほっとした途端、体が震えだした。トーリの手がイルタの頭を柔らかに押さえて、イルタはトーリの肩に額を預ける。

 トーリと話したいことがたくさんある。世界は複雑で人の心は一筋縄ではいかず、私の戦いはこれからだ。

 だけど、言葉にならない気持ちもある。

 少しの間、こうしていよう。今ここにあるものだけ感じていよう。このひとときの黄昏を。精霊たちと、トーリを。


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