mother (マザー)
桜花はほとんど音信不通のままだった母親と会います。
警察から突然電話がかかってきた。母が救急車で病院に運ばれたという。命に別状はないが、検査の結果、犯罪に巻き込まれた可能性があるので、娘である私にも話を聞きたいという。私はすぐに病院に行く旨を伝えた。警察とは病院で会う約束をした。
病室で久しぶりに再会した母はやつれていた。実際の年齢より老けて見えた。髪の毛はパサパサしていて、顔色は異常に悪く、皮膚は乾燥していてしわが多く、細かい傷が無数にあった。母は私の姿を認めると力なく声を出した。
「桜花・・・・・」
「お母さん・・・・・」
「桜花にまで連絡行ったの?ごめんね。病院の先生にも警察の人にも何でもありません、って言ったのに。ただの食欲不振から貧血で倒れただけなの。本当よ。私の不注意なの」
「お母さん、ここでよく調べてもらって、、ゆっくり治したらいいよ。先生を信頼しておまかせしたらいいよ」
「うん、うん」
母は少し話しただけで疲れたようだった。私は母の病室を出たあと、病院スタッフに相談室という部屋へ案内された。そこで医師と警察から聞いた話は驚くべきものだった。母は長期に渡って有害物質を摂取してきたらしいというのだ。私に心当たりはないかと尋ねられた。
「私は母が再婚してから、引きこもりになって、父方の祖母の家に家出しました。14歳の時です。それから一度もあのマンションに入っていません。これまでの6年間で母と電話で話したのもごくたまで、直接会ったのは祖母の葬儀の時だけです。何も気が付きませんでした」
「円城さんが中学校へ行かなくなったのはどうしてですか?」
「母の再婚相手と顔を合わせるのも嫌だったので、部屋に閉じこもっていたんです。それで登校できなくなりました」
「それだけの理由なら、お義父さん、加賀迫 陸郎さんが出勤した後に部屋から出てきて中学校に遅刻していくことも可能ですよね」
「あ、そういう方法もありましたね。思いつきませんでした。当時私は変な時間に寝たり起きたりして、目が覚めてても体がだるくて頭もぼんやりしてて、考えつきませんでした。学校へ行く元気も出てきませんでした」
「円城さんのそういった体の状態は、思春期にありがちなものでしょうか?お母さんの再婚という強いストレスから起こったものでしょうか?・・・・・・・薬物によるものとは思えませんか?」
「あの人が母に毒を飲ませてたんですか?!私にも?!」頭の中で火花が散った気がした。
「まだ断定できません」
「マンションで飼っていた猫が、突然死にました。祖母が飼っていた犬も、突然死にました。それは、それは、もしかして、あの人が毒を飲ませたということはありませんか?」
「残念ですが、確認の仕様がありませんので、何とも申し上げられません。しかし、加賀迫さんを調べてみると、若い頃から不審な事件が身の回りに複数回あったことがわかりました。周囲の人が急に体調を崩したり、動物が死んだり、といったことです」
目の前が真っ暗になるという表現は本当だった。私の目はよく見えなくなった。耳も聞こえなくなった。震えて、座っている椅子から落ちそうだった。
「円城さん、大丈夫ですか?」
「すいません、大丈夫です。続けてください」
「今日はここまでにしましょう。またご連絡します」
私は相談室を出て、母の病室に戻った。母は眠っていた。このまま目覚めずに死んでしまうんじゃないかと心配になった。勝手なものだ、今まで母のことを放っておいたくせに。母がどんな生活をしているにか考えもしなかったくせに。私は母の再婚以来今まで、自分のことを母にひどいことをされた被害者だと思っていた。私は再婚に反対したのに、母は再婚を強行し、再婚相手中心の生活が始まった。私は母に裏切られた、捨てられた、と思った。そして一人娘なのに母を見捨てて家出したのだ。冷たい人間なのだ、私は。
「ごめんね、お母さん」と小さな声でつぶやいた。母は細い息で眠り続けていた。母が元気になったら話したいことがたくさんある。聞いてほしいことがたくさんある。また元のような仲のいい母娘に戻れると思った。しばらく母の寝顔を見つめ続けた。そして音をたてないように静かに病室を出た。
母が死んだ。薬殺ではない、自殺だ。治療を受け歩けるほどに回復した母は、病院を抜け出し、歩道橋から飛び降りたのだ。
母の再婚相手、加賀迫ははその後逮捕された。自供によると、母には日常的に薬物の入った飲食物を与え、その反応を見ていたらしい。職場でも、同僚にこっそり薬物を飲ませ、失禁させたり、昏睡させたりしていたらしい。周囲の動物にはさらに致死量の毒物を与えていた。池の鯉や公園のハトや小学校で飼育されているウサギなど。猫のミーンが死んだのもそのせいだった。犬のキリが死んだのも、当初は畑の野菜に毒物をまいておばあちゃんと私にダメージを与えようとやってきたが、畑があまりに広く、確実ではないと思い、毒の標的をキリに替えたせいだった。
加賀迫は母をコントロールしていたと自供した。それも実験のような感覚だったらしい。入院中の母にも自殺するよう唆したのだ。そして母は自殺した。
警察に教えてもらうまで私は全く知らなかったのだが、加賀迫は再婚だった。初婚の相手は生まれつき病弱な女性で、日常生活はできるが、外で働くことはできず、実家で家事手伝いをしていたそうだ。加賀迫は言葉巧みに近づき「子供が産めなくてもかまわない。あなたと死ぬまで一緒にいたい」と言い、彼女とその両親を感激させたらしい。そして結婚直後に「僕の身に何かあって死んでも、あなたは働いて収入を得ることができない。だから僕は高額な死亡保険に入る」と言い出し、そのついでのようにして、妻にも保険に入らせた。加賀迫は言葉通り妻と「死ぬまで」、そう死なすまで一緒に暮らし、妻が死んだら高額な保険金を受け取り、妻の実家とは全く連絡を取らないようになったそうだ。加賀迫本人の表現によるとその結婚生活は「人の手を加えることで作り出す人の手を加えたとは思えない死の模索」で「興味深かった」そうだ。私にはまったく理解できない。狂っている。もう一生あの男に係り合いたくない。名前も聞きたくない。忘れたい。
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