第40話 イチゴパンツ以外の匂い
すると、中はやはりとてつもない広さであった。カーテンは全て閉め切られて真っ暗だったが。その暗闇の中にぼんやりとした光源が一つだけ浮かんでいて、その近くまでフブキは近寄って行った。
「オウカ様」その明かりというのは、ソファーに寝転がる彼の持っている携帯端末だった。と、同じく近づいていったナルシスたちは気づく。「申し訳ありません。人質が一人脱走いたしました」
オウカは、しかし、画面から目を離さない。だらけた姿勢の胴の上にそれをもたれさせて、じっとそれを注視している。その上で何も言わない。
「……当該人物は現在に至るまでに隊員五名を負傷させ、内一名の制服を剥ぎ取っております」
「え、」ナルシスは思わず言った。「そうなるのか?」
「なるだろう、そりゃ。俺は行方不明のままだし、合理的に考えればお前の仕業ってことになる」
「だが君はあのトイレに至るまでにいた全ての隊員を叩きのめしたはずじゃないか。それを辿れば僕でないことくらい分かりそうなものだが……」
「そんなこと、言ってねーよ……そもそもいくら俺にそんなこと言われても困るんだよ、アイツらに言えアイツらに」
「いや、しかしだな……」
「――風が、」オウカは、視線を上げた。「少し五月蠅いようですね」
その瞬間、ナルシスとスズナは、口論をぴたりと止めた。彼の視線が、こちらに向いた、ような、気がして――が、それは気のせい、だったのだろうか? すぐにそちらを見たナルシスたちの視界の中では、端末に彼は視線を戻していた。幻だったかのように
「は?」フブキは首を傾げた。「その……」
「これを見たかしら? 初恋革命党とかいう連中の動画です」
そう言って、彼は端末の画面をフブキの方へ向けた。そしてシークバーを戻して、途中から再生し直す。
『初恋革命党は、暴力を嫌悪する。このような非人道的行為には、双方どちらのものであれ抵抗するものである。武力衝突は避けられねばならない。何人たりとも殺されるようなことがあってはならない。私がこの動画において訴えたいのはまさにその一点である――』
大きく身振り手振りして、ダイモンは語る。交渉の余地はあると主張して、その仲介として名乗りを上げる。しかし、ナルシスにはそれがどうにもチープで陳腐な動きに見えた。当然だ、彼の代理は、代理に過ぎない――偽物ですらある。ましてそれがオウカの掌の中に収まっているとすれば、余計にそう思えた。
「…………」フブキは、怪訝そうな顔をした。「それがどうかされたので?」
「どうもしない。しようもない――しょうもない。彼らは結局、力のない者が好き勝手聞こえのいいことを言っているだけ。世界を変える力は到底ない。民衆がついてきたとしても――それがどうしたというの? 何の力もない者に力ない人々が寄り付いても、それは図体だけが大きくなったということよ」
「は……」
「それで? ……証言ぐらいは得られたのでしょう? 特徴は?」
「それが、全員昏倒させられたせいか、記憶が混濁していまして……有効な証言は得られていません」
「ふむ……アナタの配下らしからぬ失態ですね」
「大変申し訳ございません」
「いえ。どうせ一人では何もできないでしょう。じきに捕まる――そうしたら、真っ先に斬首することにしましょう」
そういう彼女は、机の上にあった刃物に手をやった。鞘に入った長短二振りの曲刀――とはいえ、曲がっているというよりは反っているという方が適切なのだが。その鞘はつるつるとした黒い塗装が施されていて、闇の中に溶け込むようだった。
「ニホン刀だ。」スズナが言った。「実家で見たことがある。かなりのワザモノのようだが」
「……実家?」
「いや、忘れてくれ。大したことじゃない」
そう言ったスズナは、ナルシスと視線を合わさなかった。それが彼には気になったが、スズナの表情が不機嫌に見えたからには、それ以上の追及はできなかった。
「さて――」オウカはすっと立ち上がった。「国民団結局から何ら回答がない以上、我々は何らかの手を打たねばならないでしょう。そろそろ、口減らしが必要な頃合いかしら」
そして、その一言に彼が打ち震えたから――でもある。口減らし、という言い方ですらまだ直接的な表現だ。
誰かが死ぬ。
恐らく、斬首で。
「で、ありましょうな」
「で、あるからには――そうね。例の脱走者の同室の人はいるのかしら、フブキ?」
「は。二名ほど」
「では、二四時間後に彼らを処刑することとしましょう。今すぐ国民団結局に電話を――」
オウカは端末を操作して、電話を掛けようとする――瞬間だった。
「――その命令」ナルシスの堪忍袋の緒はあっさり切れた。「待ったをかけさせていただく」
彼には我慢できなかった。
それはこれから死ぬ「誰か」が「彼と彼女」であるから、だけではない。
人が死ぬ、殺されると言うことに関して、ナルシスには耐性も受け入れ態勢もなかったのだ。そんなことが許されていいはずがない。そのために彼は初恋革命党を作ったのだから。
「誰だ、」フブキは声の主が見当たらないことに驚愕していた。「姿を現せ!」
「生憎と、これはスピーカーの音声だ。ああもちろん君たちに見えないよう配置させてもらった。この部屋を使うことは君たちの計画を知った段階で想像がついたのでね」
「我々の計画を知っていた……? 何者だ、貴様は」
「初恋革命党党首、ダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクス。君たちと軌を一にする者であり、君たちの救世主となる男だ」
「救世主……?」フブキはいかにも信じ難い様子で周囲を伺う。「ふざけるな。我々は我々自身の手で道を作る。貴様の手など借りん!」
「どうかな。ここで聞かせてもらったが、当局との交渉は上手くいっていないようだが? ……このままでは最悪の状況に至ると思っているのでは?」
「貴様……⁉」
フブキは今にも掴みかからんばかりだったが、その相手が見えない以上、切歯扼腕するばかりであった。それから、その無力さに耐えかねて、そこら中のものをひっくり返してありもしないスピーカーを探し始めた。
「そんなところにはない。君たちの思考回路では見つけられないところに置いてあると言っただろう」
「卑怯者が。姿も現さず裏から手を回すような人間に、何が為せるというのだ! 第一、貴様の言うことというのは……!」
「よしなさい、みっともない」
どういうことか虚空を指さして言うフブキの手を、オウカは腰の刀を揺らして近づくと、掴んで下ろした。
「オウカ様。しかし……!」
「サン・マルクス。死んだものと思っていました。あの大敗の中でおめおめと生きながらえるなど私にはできない」
「生きていましたとも。何か事を成そうとすれば、生き恥の一つや二つは晒さずには済まないものです」
ぴく、とオウカの眉が震えた。少し言い過ぎたか? とナルシスは思ったが、例のフブキとかいう男に比べれば彼は何倍も冷静であった。
「それで――ご用件をお聞きしましょうか。そのために来たのでしょう?」
「単刀直入に申し上げる――人質を即時解放し、このホテルから脱出なさい。さもなければ早晩全滅することになる」
「ほう?」オウカの口角が上がる。「アナタに戦いのことが分かるというの?」
「形はどうあれ、今の世の中で国民団結局とやり合った回数は我々初恋革命党が最も多いと自負している」
「そうね。そして敗北もした――その経験が言わせているということでいいのかしら?」
「否定はしない――タイムリミットは恐らく明日の早朝。それまでに何ら行動を起こさない場合、『共和国前衛隊』が動き出すだろう」
「『共和国前衛隊』が……⁉」フブキは、驚いたように声を出した。「もう来ているというのか」
「……フジの演習場から移動している、」それを横目で見ながらオウカは答える。「というのは私の方でも確認しています。だが、それが何だと? 精々暴動鎮圧程度の弱い者イジメしかしていない治安部隊に我々が敗北するとでも?」
そう言うオウカの口元は、酷く吊り上がっていた。切れ長の目の奥には、妖しい炎がある。それは狂信だ。自らの敗北をまるっきり想像してすらいない。何故なら思想的に自らが正しいからであり、正義は必ず勝つものだから。
優勝劣敗。
弱肉強食。
「……一つ言っておくが、」だが、それは相手とて同じことなのだ。「彼らの強さは、なりふり構わぬところにある――君たちと同様に、だが君たちと全く違う思想を以て行動している」
「……? それの何が問題なのですか?」
「分からないのか。彼らに銃を以て応えたならば、銃を以て返されることになる。その気になれば何人死のうが、何人殺されようが、構わず向かってくることだろう。物量作戦だ。籠城しているだけの君たちには勝ち目がない」
普通、集団の三割が失われるとその機能は不全に陥るとされる。それは、単に構成員が失われることによるシステマチックな意味合いだけではない。
士気が下がるのだ。
嫌になって、動きが鈍くなる。
組織を構成するのが人間であるからには、その感じることに全体が左右される。これはそういう現象である。
だが、「共和国前衛隊」はそうではないのだ――組織として思想の強い隊員を採用し、それを更に強化している。そこに人間の集合体としての横顔など存在しない。誰が死のうが、任務を達成する。そのためだけの部隊。それが彼らである。
「ああ、何だそういうこと……」オウカは、しかし、鼻で笑った。「でも残念ね、そうさせないための人質ですわ。少なからず政府関係者もいるようですし、彼らとてそう手出しはできないでしょう」
「どうかな、このホテルには隠し通路がある。私もそれを使ってこのホテルに侵入してきた」
――そんな分かりやすい嘘を吐く⁉
スズナは思わず冷や汗を掻いた。そんなものがないことは事前偵察ではっきりしている。それに、そんなものがあるホテルをシャルルたちの護衛が選ぶはずはない。すぐにバレる。
「そんなものが」スズナの懸念は、当たる。「あるはずがないでしょう。このホテルはまだ新しく、増改築されているわけではない。そんなものが作られる余地はない」
「いや、実際に存在する――君たちが気づいていないだけだ。尤も、通路というには少々心許ないがね」
「……何?」
怪訝に思ったのは、オウカだけではない。スズナも自分の隣の小男が何を考えているのか分からなかった。そんなものは絶対にない――はずなのだが、この男の言い様も表情も、それが絶対に存在しているというものなのである。何かに気づいている。この危機的状況の中で、他の誰もが気づいていないことに。
「とはいえ、教えるわけにはまだいかない――」それが、ナルシスのカードであった。「さあ、まずは人質の解放をすると約束してもらおう。無論期限付きで。それが条件だ」
その切り札を見せつけられて――オウカは、しかし、ぴくりとも動かなかった。それが動揺ゆえに却ってそうなっているのか、あるいはその逆なのか。それは彼の内面の動きであるからには、誰にも分からないことだった。
「オウカ様、」フブキは不安げにオウカの顔を見つめた。「どうなさるのです」
思えば、「共和国前衛隊」がこんなにも早く展開してくることは事前の予想に反していた。政府関係者がいるにしたって、随分動きが速い。かといってそれらしい人物は見当たらないし――分からぬからには交渉材料にも使えない。ただ人質としてワンパッケージ出扱うほかない。命は平等だというお題目に従って、彼らを牽制するしかない。だがそれで手に入るのは単なる均衡であり、それを自発的に破る手段はない。
一方でこの提案を飲めば――金は手に入らない代わり、彼ら「共和国前衛隊」に恥をかかせることはできる。突入できず敵を取り逃がした役立たずとして世間からは見られることになるだろう。解体論……までいかずとも、その存在に議論が起こるはずだ。その最新鋭装備に費やされる金額を思えば、不思議ではない。
するとオウカは、それらを計算しきったのだろうか、満を持して口を開いた。
「……一つ聞きたいことがありますわ。アナタの言葉に、嘘はないのですね?」
「無論だ。君たちが要求を呑んだならば、誠実に対応し、国民団結局も納得させる。君たちが安全に撤退できると保証しよう」
「そう――でも、嘘ですわね。だって」オウカが、嗤う。「イチゴパンツ以外の匂いがするもの」
と同時に、スズナはナルシスを突き飛ばした。
と同時に、斬撃が二人を襲――わずに、空を切る。
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