第38話 正体
じゃああ、という水流音。それを背にナルシスは個室から出る。ようやく、危機は去り過度の緊張状態は解決するに至る。彼はその解放感の中歩みを進め、手洗い場に手を突っ込み、石鹸まで使った。
「おい、」その様子に、スズナは溜息を吐いた。「何丁寧に手洗ってんだ。そんなことに時間をかけている場合じゃないだろ」
「君こそ状況を理解していないようだ。いいかい、人の肛門というのは大腸菌の宝庫だ。そんなところに触れれば、多少紙でガードしていてもそれが付着する。そのまま何もしなければ口に入る可能性があるのを想像できないほど君は愚かではないはずだ」
「ウンコがダメで肛門はOKなお前の基準が分からねーよ俺は」
「そんなことより安全基準を考えるべきだ。君は頑丈だからいいだろうが、僕は一般的な人間だ。下手な衛生管理では腹を下す」
「俺だって普段は洗ってるわい……そんなことより現状を鑑みろよ。どう考えたってこんなところで油売ってる場合じゃない」
「何故だ? 見張りは君が全員ぶちのめしたのだろう?」
スズナは、何でコイツは時々とんでもない馬鹿になるんだろうな、と小さく愚痴を漏らした。
「あのな、だからこそだろうが。見張りだって巡回したり交代したりしてるはずだ。それこそウンコだってしたくなるだろう。多少の時間はあるだろうが……そう長くはなく、交代時間が来る。そのときここで駄弁ってることがマズいぐらいは分かるよな?」
「む……」
ナルシスは、そのことにようやく気づいて、手洗い場から手を抜いた。それからハンカチをポケットから取り出して手を拭いた。それがもたもたしているように見えて苛立ったスズナは愚恋隊員を壁から(それこそ花でも摘むような気軽さで)引っこ抜くと、床にライフルが落ちているのに気づいた。叩きのめしたときに飛んで行ったのだろう。スズナはそれを拾い、あれこれ見聞した。
「コイツぁ横流し品じゃねー。密造銃だな。にしちゃー随分凝った造りをしているが……流石に愚恋隊の名は伊達じゃないってところか」
「?」ナルシスは、その名前をスズナが知っていることに驚いた。「どこでそれを?」
「見りゃ分かる――セーラー服で武装で女装ったら、愚恋隊と相場が決まっている。風呂場でボコったやつもそうだったからな。コイツだけが変態というわけじゃねーだろうよ」
なるほど、蛇の道は蛇。元テロリストである彼女は、彼女なりにテロリストには詳しいわけだ。そしてテロリストは往々にして拘りを持っているものだという定説を考慮すれば、その拘りから逆算して組織を割り出せる。この場合、セーラー服で女装というのが、その特徴――女装?
「何だって?」
「だから、コイツら全員男だってば。それも同性愛者だ」
それは衝撃の事実だった。ナルシスは暫時処理能力が低下し、目の前の隊員とスズナとの間で視線を何度か往復させて、ようやく言葉を作った。
「……『好意対象者割当制度』制定以来、異性装も同性愛も犯罪だぞ。正気か」
「だからテロリストなんだろ。何分かり切ったこと言ってんだ」
「い、いや、確かにそうかもしれないが、」
「何だ? 自由恋愛主義者の癖に、同性愛は対象外か? ……都合のいいところばっか利用しようとしてんじゃねーぞ」
「む、むう……」
自由恋愛主義というのは、つまり恋愛の観念を「旧時代」のような自由闊達な状況へ戻そうという思想である。つまりそれは、恋愛対象を好意対象者と限らなくする――よう戻す活動でもあるわけだ。そうナルシスは理解していたわけだが、その限定しないという原則に従えば、確かに異性恋愛に限定されている現状は、自由恋愛主義的ではないということになる。
「し、しかしだな」ナルシスは、尚も食い下がった。「君の知っている彼らと今の彼女らが同一の存在であるかどうかは分からない。確か、彼らは壊滅したのだろう、聞いた話では。だとすれば同じ組織であるかどうかは分からないではないか」
「確かに『大反動』のときに大半が射殺されたか拘束されたと聞くが……模倣犯だって言いたいのか」
「ああ。その可能性はあるだろう。第一、今目の前にいる彼女らが実は彼らだ、というようには、僕の目には見えない」
「あっそ、じゃあ確かめてみれば――」
スズナが言い切るより早く、ナルシスは実際の行動に移した。仰向けに倒れている隊員の足の間にしゃがむと、そのスカートを捲り(イチゴパンツだった)、その中に手を――
「――おいおいおいおい!」スズナは、思わずナルシスを引きはがした。「何してんだッ⁉」
「だから、確かめようと」
「もっと他に方法あったろ! ウィッグか確かめるとかさあ!」
「そんなこと、今更だ……『膨らみ』はあった……この目で、そして、この手で確かめた……」
「そんな哀愁漂う声で言われても慰めるつもりはねーぞ! 自業自得だからな!」
「分かっている……感情では受け止めきれないが、理性で受け入れよう……」
ナルシスは、一応、布越しだったが何となく、もう一度手を洗い、それから一つ大きな溜息を吐いた。
「さて――彼女が彼だったことは一旦措くとして、外の状況はどうなっている、スズナ君」
「何故俺に聞く」
「そのポケットのものはそのためにあるのだろう」
そう言ってナルシスが指さした先には、スズナのジーンズ。その脇には四角の膨らみがあった。国民携帯端末のそれである。風呂場で遭遇した彼女は、即座にその隊員をぶちのめしたので、それを取り上げられもしなければ破壊されもしなかったのだ。
「一々反抗的な態度を取る必要はないだろう。この期に及んで敵対する意味があるか?」
「別に、お前のためのものじゃねーんだがな……まあ、芳しくはねー。既に国民団結局が動き始めている」
「外の銃声からすれば、不思議はないな?」
「俺もそれは聞いた。だが問題はもう一つの方でね」
「もう一つ?」
「『共和国前衛隊』――」スズナの言葉に、ナルシスは固まる。「どうにも、連中も動き出しているらしい。まだ目撃談レベルだが、フジ演習場に展開していた部隊が移動を開始しているようだ」
「それは――マズいな」
「ああ。連中が出て来るということは、強硬策に打って出る可能性があるってことだからな」
ふむ、とナルシスは顎に手をやって考える素振りをした。「共和国前衛隊」といえば、すぐに苦い思い出が蘇る。自由恋愛主義者を弾圧することにかけては右に出る者はいない組織だ。が、同時に対テロにかけてはスペシャリストでもある――そういう組織に成長しているとイカロスから聞いている。だとすればこの程度の事件は造作もなく解決しそうである。
ただし、夥しい量の鉄と血を支払って、だろうが。
「ナルシス。一つ言っておくが」スズナは目を鋭くしながら、言った。「同性愛者を好かないのは勝手にすればいいが、彼らは一応同じ思想を持つ同志と言える。テロリストだからって、このまま見捨てるのは、」
「ああ分かっているとも静かにしてくれたまえ。いくら何でも個人的な好悪によって問題を取り違えることはしない。君に言われるまでもなく、現体制をよしとしないという点において、彼らと僕ら初恋革命党は同意することができる」ナルシスは鏡越しにスズナを牽制した。「だが、彼らは美しくない手段を取った」
「…………」
「なるほど、五年前の体験は彼らにとっては成功だったのかもしれない。自らがもたらした暴力は他人を従えることができるという経験を幾分かでも積ませてしまったのかもしれない。だから次こそは、と考えたのかもしれない。単なる資金集めでも暴力に訴えたのは、そういう理屈だろう」
しかし、だ。
「それは、いずれ大きな弾圧を生むことになる――あるいは、それに対する反動を。それらに正当性を与えることになる。だとすればその揺れ動きが、結局は何ももたらさない可能性だって大いにあるだろう。右に行った後、左に戻る。ただそれだけに終わるかもしれない……だが、その激しい動きに振り落とされた人々は、どうなる? ……僕は、それを思わずにはいられない」
「だとすれば、どうする?」スズナは、一歩前に踏み出した。「もうコトは起きてしまった。いくらお前でも、時間を巻き戻す力はない。下手に止めれば、ただ弾圧するに相応しい理由だけが生まれて、前より悪い状態に戻るんだぞ」
それは、右に行った振り子に手を突っ込んで止めるようなものだ。
確かに動きは止まるが、その先にあるのは現状を悪化させるものばかり。
では、そうしない手立てはあるのだろうか?
「交渉をする」ナルシスは、あっさり言ってのけた。「正確には、その仲介をする――目指すは、無血開城。誰も傷つかず、誰も捕まらない。もちろん誰も得をしないし、誰も損をしない。いや違うな、全員が平等に損をする。それぐらいの決着が好ましい。尤も、僕たちだけは得をするつもりだがね」
「そんなこと――できるのか」
ナルシスは、そのとき振り返って言った。得意げに、満足げに、自信たっぷりに。
「ああ、できるとも――僕はダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスだからな」
そのとき、スズナには、鳥肌が立った。どうして、この男はこうも簡単にできると言えるのか。そしてそれがまるで現実になるかのように感じられるのか。あの演説作戦のとき民衆が感じていた者は、これであったに違いない。この人間なら信じられるかもしれないという声が、響きが、仮面や外套、「異能」という視覚的カモフラージュによる怪しさを打ち破るのであろう。
しかし、そのときだった。
「――大丈夫⁉ しっかりして!」
その声が聞こえてきたのは。
見張りが倒れているのが、見つかった!
「…………クソ、時間を掛けすぎた。お前が長広舌なんぞ披露しているからだ!」
「ぼ、僕のせいか⁉ いや割と君も乗り気だっただろう、何責任逃れしているんだ!」
「いいからさっさと何とかしろ! お前の『異能』を使うでも何でも!」
「いくら僕でも君とこの彼を同時に隠すのは難儀だ! それに、壁の大穴までは僕の『異能』では隠せない! 何かあったと気取られる!」
「じゃあどうするって……!」
「――そこに、」そのとき、声が近づいてきた。「誰かいるの?」
マズい、そう思った二人はすぐさま声を封じた。が、時、既に遅し。足音は段々と近づいてくる。すぐさま、何かしらの方法で隠れなければならない。しかし、どうやって? 壁の穴を誤魔化し、それでいて隊員をも見つからなくし、当然自分たちも隠れるなど、可能なのか?
「聞こえます? 誰かいるのなら、返事をして!」
隊員はトイレ入口の脇に到達した。中ではガチャガチャという物音はしていたが、声は聞こえない。何かが起きている――が返事はできない状況ということか? だとすれば――反乱でも起きたというのか?
「あと三秒! 三秒で入ります! その前に出てきなさい!」
彼は、銃を用意した。チャージングハンドルを引いてチャンバーに初弾を放り込み、ハイ・レディに構える。物音は止む気配はない。その聞こえ方からすればかなり手前の位置にいるはずだ。それならばロクな遮蔽物もあるまい。制圧に必要なのは精々数瞬。まして、相手が素人なら。
三、二、一――
「零――!」
素早く、彼は飛び出した。中腰の姿勢でくるりとトイレの中へ銃を向けながら突入していく。視線除けの曲がりくねった通路をかわし――この場合、クリアリングよりもスピードを彼は優先した――仲間が中で抵抗している音である可能性を考えたからだ。
そして、最後の角――滑り込むように彼は銃口を捻じ込んだ!
「……は?」
そして見た。
大男と自分たちの仲間が、壁にもたれかかって乳繰り合っているのを。
「何を、していらっしゃる……?」
彼は、銃を思わず取り落とすところだった。否、スリングを使っていなければ、現実にそうなっていただろう。何しろその大男は――彼の価値観に照らし合わせてはっきり言えば、その、趣味が悪かったし(ファッションセンスがよくない)、何より周りの騒ぎに気づかずこんなところであんなことをしていたとすれば、運がいいやら能天気やらで呆れかえるしかなかった。
「み、見れば分かるだろう」大男は体に見合った低い声で答えた。「そういうことだ」
「は、はあ……でも何で今」
「この子と出会って俺は気づいたんだ。性別なんて関係ない。これが真実の愛なのだとな。だからトイレにかこつけて話し合って、愛し合うことにした。この出会いは運命なのだ。次いつ出会えるか分からないから……だから……」
男がそう言うと、その胸の上にいる隊員――何をしていたのやら、制服はヨレヨレだったし、ウィッグも乱れて地毛が見えている――は赤らめた顔を隠すように俯いた。この短時間で本当に深い関係になったようである。想像すると――羨ましいよりは、単に馬鹿馬鹿しさが優った。
「あの……外の状況分かってます?」
「外の状況?」妙に高い声で、隊員が答えた。「何の話だろう?」
「いや、だから見張り……まあいいや。どうせ報告するんだし。無事でよかったですね」
本当に、知らないらしい。恐らく、起きたことは次の通りだ。まず、運命の相手とやらを見つけたこの隊員は見張りを上手く言いくるめるか何かしてトイレの中で……愛を実行に移そうとした。それと入れ替わるようにして抵抗者が現れ、見張りを全員倒し、何らかの事情で離脱した。それに忙しくて、抵抗者はトイレの中までは見なかったのだろう。そして――今に至る、のだろう。
何か引っかかるが――現実とは、少なくとも個人の視点からでは、全て解き明かせるものではないに違いない。他人の行動など想像もつかない。
「……まあ、アナタがどの地区隊から来たのかは知りませんけど、そういうことは全部終わってからするべきだと思いますよ。取り敢えずご祝儀代わりに黙っておいてあげますから、さっさとここから離れるべきだと思いますけどね」
「え、えっと」
「さようなら」
そのまま、彼は背を向けてトイレから出て行った。勝手にやってろバカップル、というヤケクソな感情だけがあった。
「……どうやら」そして、それは彼らの作戦が上手くいった、ということだった。「行ったようだな」
「…………」
「おい、ナルシス。何か言え。女装したのがそんなにショックだったのは分かるが、その、何だ、よく似合っているぞ」
まさに発想の転換だった。
どう頑張っても、状況は改善しようがなかった――スズナと気絶した隊員と、壁に空いた大穴とを全て同時に隠す手段はなく、すぐそこに追手は来ている。かといって強行突破もしようがない。いや、スズナならそれができるかもしれないが――それでは早晩追手を差し向けられて捕まるのがオチだ。あるいは射殺されるのが。
だから、ナルシスは考えを変えた。
隠せないのなら――見せつければいい。
そうして一所に視線を誘導して、
そのために、彼は隊員から制服を剥ぎ取った。慣れないながらにそれを何とか短時間で着て、隊員を踏みつけて『異能』の管理下に置くと、その様子を見て混乱するスズナを渾身の力で穴の開いた壁に押し付けたのだ。彼女の身長ならばそれが隠せると思った。
そして、その賭けは、何とかナルシスの勝利に終わったわけである。
が、それはナルシスに大いなる屈辱を飲み下してもらうという前提条件の上に成り立っていた。彼は何度かえずきながら言った。
「似合っていては困る……僕は確かに美しいさ。この行政区に住む全ての美人を捕まえてきても、ある一人を除いて彼女らに打ち勝つ自信はある。だがだからといって女性になりたいわけではない。それに、下半身がスースーして居心地が悪い。こんなものを好き好んで着ているのか、君たち女性は」
「スカートか。我慢しろ。ちなみに俺もそんなにスカートは好きじゃない。蹴り辛いからな」
「君の好みはどうだっていい」
「お前の好みもな――だが、お前の長広舌が、そうしなきゃならん状況に遭わせたんだろうが。さっさとその場を離れていれば、こんな面倒はなかったんだ」
「だが、君に愛の告白をされるとはね。あれも……おえっ、必要なことだったのか?」
「ああでも言わなけりゃ、怪しまれていただろうが。俺だって言いたくなかった」
「どうかな。案外君の本心だったりしてな。嫌がらせをするためなら君は何だってするだろう」
「ひっぱたくぞ」
しかし、そのとき外から足音がした――階段を下りてくる音。恐らく、先ほどの隊員が報告して、それを受けた増援が到着したのだろう。
「……と、それどころではないな。一時休戦だ、スズナ君」
「ああ。まずはここを離れよう。お前をぶちのめすのはそれからだ」
そう言って、スズナはナルシスの肩に触れる。それと同時に彼は「異能」を使った。誰からも認識されなくなった彼らは、追手がトイレに来るより早く、その場から離れた。
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